田原和夫(中国の歴史と文化を学ぶ会会員)・昭和20年夏、満州
1930年北京生まれ、87歳、昭和20年5月 旧満州の新京一中3年生15歳の時、およそ130人の同級生とともに旧ソ連との国境にある農場で勤労奉仕を言い渡されました。
8月9日の未明、重爆撃機の爆音で目を覚まされました。
ソ連軍のソ満国境の侵攻でした。
以降、言葉では言い尽くせない逃避行や、捕虜生活の後、餓死寸前の状態で10月20日新京にたどり着きました。
田原さんは満州から引き上げ後、会社員として働きながら、当時の出来事を正確に記録して後世に残そうと10数年かけて「ソ満国境15歳の夏」という著書を書き上げました。
この本は映画監督の目にとまり、日中合作の映画にもなりました。
私にとってはあの夏は私の人生を支配するほどのショックを受けた夏でした。
全ての中学生が動員、必勝の信念で頑張っていた夏でした。
日本が負けたことを聞いたときに、我慢して苦労して頑張ってきたのになんで負けたんだろう、よもや負けるとは思っていなかった。
敗戦はその後の私の人生を支配する異常な体験でした。
新京一中3年生15歳の時、250人のうちの130人がソ連との国境の東寧という所に農場(東寧報国農場)があり、そこに動員されていきました。
5月28日に130人が国境に向かいました。
5月30日に到着、作業を始めました。
水田、麦作があり、軍のために食料を作るところでした。
国のためと云うことでみんな頑張りました。
タンパク質が足りなくて、鯉を取ったりしておかずにして食べたりしました。
水質が悪いので水は飲むなといわれましたが、こっそり生水を飲んで赤痢にかかったり、腸の病気になりながらやっていました。
ガス、電気、水道もないところで、空が明るくなったら作業を始め、夕方暗くなりはじめたら帰ってくるという状態でした。
後から分かったことは農作業が必ずしも目的ではなかったようです。
関東軍は5月ぐらいから撤退して、日本軍の陣地はもぬけの殻ですが、我々はそこに残されて、カモフラージュ、ソ連側から見れば子供達は働いているので軍隊はいるだろうと思わせる、そういう役割もあったようです。(後で調べて判る。)
8月9日が来ました。
事態だけを話すと、9日午前零時を期してソ連軍は日本に参戦するということをモスクワで日本の大使に宣戦布告をしてきました。
8日の夜、ソ連軍の陣地がざわついていた。(準備をしていたようだった。)
宿舎は国境から1kmぐらいのところに掘っ立て小屋を立てて住んでいました。
午前3時ごろ重爆撃機が満州からソ連に向けて飛んで行って、その音に目を覚ましました。
日本軍が攻め込んでいると思って、また寝ました。
作業の準備をしていたらソ連領から砲撃が始まりました。
作業にはならないということで、撤退だと決断して引き揚げました。
子供を攻撃しても仕方がないと推定している。
本部にたどり着いて、昼ごろ生徒隊は帰りなさいということで、避難列車に乗れるのではないかと云うことで、徒歩で出発しました。
砲撃を逃れながら迂回して行ったので、4時の列車に間に合わないで6時ごろ着きました。
次の駅を目指して徹夜で歩きましたが、列車は無くて又歩き始めました。
山地を逃げているので水がなくて、倒れそうな状況の中で先頭の人が水があるということで、ぼうふらが湧いている水をがぶがぶ飲んで助かりました。(宝の水でした)
又生徒みんなで歩き始めました。
10日間逃げ回り捕虜収容所に収容されました。
17日、石頭と云う所にたどり着いて、日本は負けたと言って兵隊が右往左往していました。
虚脱して茫然としました。
先生が説明しても聞き入れられず、ソ連軍からは少年兵として収容されました。
一般の兵隊はシベリアに送られていきましたが、シベリアに連れていっても使い物にならないと思ったのかそのまま収容されました。
一日おかゆ二杯、それだけでした。
着るものも着たきりで虱が湧いて大変でした。
一度だけ煮沸消毒してくれましたが、3日目には又虱が湧きました。
寝るところは藁をかき集めてきて敷いて寝ていました。
餓死寸前に10月12日に解放されました。
越冬するのかと思って絶望感が漂っていたときに言われました。
新京には鉄道があるということで北に向かっていきました。
村人たちに事情を話したら助けてくれました。
お粥と卵とオンドルの寝床を提供してくれました。
敵国の子供を助けるということは政治的には非常に危険だったと思います。
石頭村自身も食べるものがなくて、100人以上を助けるのに各家に分散して家庭料理をつくってたべさせてもらいました。
我々も還暦を迎えて、40人ぐらいで報恩の旅と云うことで石頭村を訪ねました。
当時我々を知っている人が2人いました。
御礼を申し上げたら、我々も貧しくて何もしてあげることが出来ず御礼を言われるほどのことはしていない、困った人がいれば助けるということは人間の本心なのでやることをやっただけだと言われました。
昭和21年に日本に引き揚げて来ました。
東京大学を卒業して会社員になり、会社勤めを終わる頃、調べて「ソ満国境15歳の夏」を本にしました。
10月20日に家に着いたときに母親が号泣して、体が弱っていて下痢をしていて医者に診てもらって、重湯を食べました。
その後、食べ物を即座に作ってくれて食べて、下痢が止まりました。
生命を再び得たという実感がしたが、どうしてこんな目に合わなければいけないのか、それを知りたくて、いろいろ読んで日本の軍、政府の問題などを考えたがなかなかわからなかった。
自分の真相を書いて訴えたいと思ったのが、書く動機です。
正確に伝えたいと思って筆を取りました、そのために時間もかかりました。
何故15歳の少年をソ満国境に配置したのかはわかりませんが、配置した理由はソ連に対しておとりにして子供を置いておけば軍隊もいるであろうと思われるので撤退をかくすために、子供を最前線に置いたということだと思うが、それを決定した人がいたはずだがそれはだれかということはいまだにわからない。
結局は官僚は責任を取らない。
「ソ満国境 15歳の夏」は映画にもなったが反響が大きかったです。
日本大学の映画学科の教授の松島哲也先生のお力で、脚本から監督、製作まで全部先生がやりました。
全国各地の映画館で上映されて、色んな組織のところで並行して行われ、こんにちでも続いています。
当時のことは記憶と云うよりは体が覚えています。
父は59歳、母も64歳で亡くなり、もう少し長生きしていたら、もう少し孝行もできたと思っています。
軍国少年で苦労しても勝つんだとものの考え方があったが、敗戦に立ち会うことになり、ショックを受けて自分の人生観を決定的に影響を与えました。
自分に死生観、価値観、処世訓、食生活、思想を信状と、5つのことを自分なりにまとめています。
死生観、人間は生きるときは生きる、死ぬ時は死ぬんだということ。
価値観、この世には絶対の正義は無い、声高に唱えられる正義ほど疑わしい。
処世訓、物事は全て何とかなるが、しかし物事はなるようにしかならない、だが絶望はしない、希望は失うな、でも諦めも必要。
(自分さえ生きればいい、だけど人間は仲間がいないと生きていけない、と云うことを実感を持って認識しました。)