上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】
紛争地から世界を変えてみよう!
福井県出身33歳、妊産婦の死亡率の非常に高い紛争地のアフガニスタンやイエメンなどで国境なき医師団の助産師として働いてきました。
戦争が身近にある過酷な環境のなか、7000人以上のお産に立ちあって来ました。
帰国した際には、地元福井、横浜、大阪などの中学生や高校生たちに自分が見た戦争の平和、命の尊さを伝えています。
7000人以上のお産に立ちあって来たこと自身に対して自分でも驚いています。
現場では数を数える時間すらない忙しさなので、帰国してお産を振り返ってみると、すごい数の出産にかかわったんだなあと思います。
2013年からイエメンに6か月、2015年にはアフガニスタンに7カ月派遣されて13カ月間で7000件余りと云うことになります。
アフガニスタンでは月に900人の出産がありましたので、1日に25~30人の赤ちゃんが生まれています。(30分おきに一人の赤ちゃんが生まれる。)
赤ちゃんの産声を聞いたときにはほっとします。
基本的にはアフガニスタンの助産師を支援する働きなので必要な技術、知識の指導したり、薬剤や機材の物品が補充されているか、しっかり動くかどうかを確認する為の指導監督する立場ではありました。
新しい助産師をリクルートすることもしていました。
カブールのその地区には100万人以上の人口がいると言われていましたが、緊急のお産に対応できるのは、私たちが支援していた病院だけでした。
金曜日、土曜日は休みですが(イスラム教のカレンダー)、外に出るのは安全上難しいのでできませんでした。
外国人スタッフは誘拐されるリスクが高い。
病院の隣に家を借りて、病院への移動も5分ぐらいですが、車の移動をしていました。
市場に行ったりすると、アフガニスタンでは普通に暮らしている人たちは居るんだなあとも思いました。
他の国のスタッフとバーベキューをしたり、色々楽しみも見付けました。
イエメンでは紛争で傷ついた兵士が実際に運ばれることもありました。
イエメン人の男性はみんなカラシニコフという旧ソ連の銃を持っていて、ジャンビーアというナイフを身につけて歩いています。
イエメンに初めて行ったときに、6歳ぐらいの少年が銃の隣に坐っている様子を見たが、こういう環境にある国なのだなあとショックでした。
行ったときに、恐怖感よりももっと何が起こっているのかと云う方が強かったように思います。
或る少女との出会いがあり、16歳で結婚、出産するが、初めての赤ちゃんを亡くてしまうことが起きてしまいました。
病院に行く事が出来ず、運ばれた時には赤ちゃんの心臓の音は止まっていました。
誰が一緒にいたのかを聞いた時には、資格を持っていない女性だったようです。
病気にも成っていて、難産で苦しんだ時に直腸と膣がくっついてしまって、意識のない時に失禁失便をしてしまったりする病気(フィスチュラ)でした。(破水もしていました。)
聞いた話だが、3日かかってお産するということは、時間がかかり過ぎている。
フィスチュラという病気も合併していたので、病院で1週間ほど入院しました。(ふつ普通は1日で帰れるが)
彼女は一人ぼっちだったので、彼女とは言葉は通じないが、一緒に涙することもありました。
折り鶴を折ってやったりもしました。
彼女が願っていたのはお産をして、赤ちゃんを胸に抱きたかったろうなあと思います。
紛争によって必ず弊害があり、医療施設が正しく機能しなくなり、人もいなくなり薬品も届かない、安全にお産できる病院も少なくなってしまう。
戦争の背景には絶対に貧困で困っている人がいます。
彼女も同様で学校にも行っていなくて、二番目の奥さんになっており、家族が減ることによって家族の生活としては楽になる。
イエメンでは絶望感を味わいましたが、これを変えるためにどうしたらいいのだろうと考えるきっかけになったと思います。
医療の枠組みからすこし離れて勉強したいという思う様になりました。
公衆衛生という分野で、政策、法律、地域を巻き込んだ保健システムについて勉強したいと考える機会になりました。
高校3年生の時にインドにボランティア旅行に行ったのが、国境なき医師団への一番の始まりになるのではないかと思います。
或るきっかけで母親から行ってきたらどうといわれて、行きたいと思いました。
マザー・テレサも好きだった。
2週間ほど滞在して、そこには孤児院、訓練施設、教会があり、病院での出産を目撃する機会がありました。
突然呼ばれて、マスクとエプロンを渡されて、入るとお母さんが寝ていて、生まれる瞬間だった。
赤ちゃんが生まれてきてて女医さんの手の中で動き出す瞬間、泣き声を目撃して、赤ちゃんはピカピカしていて、命の輝き、平和の瞬間だなあと云うことを思いました。
その出来事が私の進路変更のきっかけになりました。
助産師の仕事が独り立ちできるようになり、新入社員のスタッフに指導できるレベルになってから挑戦しようと思いました。
そういった置かれた環境に感謝しています。
気持が折れてしまって、もう立ち上がれかもしれないと思うときはあります、決して自分は強いとは思わないです、ポジティブな姿勢は常に持っていたいとは思います。
廻りで支えてくれる人も必要です。
中学生、高校生に経験を話す機会を与えられて感謝ですが、自分自身の思春期の悩みと今の10代が抱えている悩みは同じだと思うので、悩みを解決する手助けになればいいなあと思っています。
講演活動を依頼された時には写真を使って、見せて、現地での活動、経験などを話します。
学生さんたちの反応を書いて送ってくれますが、それを見ると私自身が励まされるコメントが色々あります。
日本の若い世代と紛争地の若い世代と比べて、まず環境が一番違うことだと思います。
生まれた場所が違うだけで、こんなにも人生が変わってしまうんだなあと感じます。
望むことは自分の可能性を100%表現できる、そんな将来を一人一人に掴んでもらいたいと思います。
私はいつも希望を持ちたい。
難民がいて、戦争は収まらないし、そういったなかでも希望を持っていたい、一人の心が変わればそれが行動になって、一人の力が沢山の力を借りて何時か大きな力になるのではないかと信じたいし、願っています。
お母さんと赤ちゃんの命を守る、それが本当に大切に育まれて皆が笑顔で赤ちゃんの誕生が迎えられるような、そう云う社会を作ることの助け手になりたいと思います。