2014年10月9日木曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第8回

保坂正康(作家)  昭和史を味わう 第8回 ”昭和天皇実録”を読む(2)
その時、昭和天皇はどう考え・どう行動したか
40件新しい資料が有る。 侍従長であった百武三郎の日記。
昭和11年から19年まで侍従長、軍人であった。日本の昭和史が戦争の時代。

昭和11年2月26日 2・26事件 形としてはクーデターの様な形を起こした。
26日~29日の4日間 国家の中枢を制圧していたが、一貫して天皇は反対していた。
本庄 繁 侍従武官長の本庄日記でも、判っていたが、それよりもさらに怒りが激しかったのを今回の日記から判明する。
不祥事件が起こることを想定していた節がある。
昭和10年8月に陸軍省軍務局長、永田 鉄山が相沢三郎に殺害される。(相沢事件)
裁判で被告のやったことを青年将校が悪いことではないと弁護するが、それを新聞に掲載されるが、天皇はその記事をよく読んでいた。
本庄に質問する。 
軍法会議は本来秘密でやるべきで、証人を立てて弁護する裁判するではないはずだと、行政が司法とは違うじゃないかと、それなのにこの裁判は何かと聞いている。
天皇は青年将校の不穏な動きをこの裁判を通じて報道の中から、感じていた。

本庄を信用していないんだなあと思う事がある。
昭和11年1月の実録のところに出てくる。
本庄の娘婿山口一太郎陸軍大尉 二・二六事件で無期禁固) 青年将校と気脈が通じている。
本庄は山口一太郎の弁護する。 
山口が新兵が入隊するときに挨拶するが、政治を徹底的に批判するが、其れが新聞にでるが、本庄にきくが、申し訳ありませんと答えるが、天皇は明らかに不穏な動きを察知していて、本庄を信用していなかった様だ。
天皇は26日から3日間、本庄を41回呼んでいる。 (自分のそばから離さなかった)
どうしてこう言う風になったのか、軍はなにをやっているのかと叱責も有ったと思うが、本庄も青年将校に味方をするようなことで動いているのではないかと、監視したのではないかと私は解釈をした。

昭和16年9月6日  
御前会議 昭和天皇が明治天皇の和歌を読んで、平和の意志を明らかにした。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」
これを読んで外交交渉で解決しろと言う事を明らかにした。 
定説だが今回でも明らかになる。
近衛内閣は軍部に押されて、(東条英機陸軍大臣) 決着がつかない。
天皇は外交が弱い、これは戦争のための決定ではないかと近衛にいう。
天皇は戦争に傾斜してゆく国策決定者に懸念を持っていた。
9月6日の御前会議、10月17,18日近衛内閣が辞めて東条内閣が成立して、この頃はどちらかと言うと受け身に書れている。
従来、内大臣木戸幸一と天皇との間で話がついて、東条を重臣会議で決定すると理解されていたが、今度の実録では重臣会議、木戸幸一達が動いて、東条英機を推挙するという事に実録ではなっている。(東条は主戦派だが考えを改めさせれば、軍を抑えるだろうという考え。)

11月3日  海軍の軍令部総長・永野 修身に戦争をするとすれば、どういう風にやるのか、いつ戦争をするのかと天皇が聞いていることを実録に書かれている。
11月5日 御前会議 外交を進めるけれども戦争の準備をする方向になる。
11月26日 ハルノートが突きつけられるが、外交交渉は駄目と言う事になり、戦争が決まる。
ハルノート以後はちょっと前面にでる。 
天皇制(皇統)を守ることが大事だということで、動いてきたのではないかと私は思う。
大権を賦与している者が戦争をしなければこの国は潰れますよ、この国はどうなるか判りませんよと、言って報告してくる、とするならば、皇統を守る為に戦争と言うのもあり得るのかと、仕方が無いかと思ったのではないだろうか。
東条をはじめ軍人たちが物のけにつれたように、戦争だ戦争だと走ってきたので、天皇にそのことばっかり説明したので、大権を賦与したものがそこまで言うのであれば、しかたがないかなとの想いが有ったのではないか。
16年12月8日 日米開戦

昭和20年8月15日  終戦
8月15日に至る道は天皇はかなり積極的に平和にしたい、戦争を修めたいという気持ちは早くから持っている。
システムが戦争の体制になっていたので、意志をどう著わしてゆくか、それが実録の山です。
いつから和平の感じをもったか、私は昭和19年ごろには持っていたと思うが、形として著わしてゆくのは昭和20年2月に重臣を呼んで、いろんな意見を聞く、5月に鈴木貫太郎内閣作る、6月に大きな柱になる。
6月8日に御前会議、本土決戦を決めながら、ソ連を仲介に和平交渉をやるという形になる。
昭和天皇は実録を読むと、日本の政治の判断が軍事に踊らされている状況で、段々天皇の意志が固まって、鈴木内閣、阿南 惟幾陸将を説得して行く形で戦争をおさめる方向にいく。

8月6日広島に原爆が投下。 ソ連が対日宣戦布告  9日 御前会議
正式な情報が天皇に伝わらないが、天皇は海外の短波放送を聞いて戦況を調べている。
海軍の軍事力を長谷川清に6,7,8月 3カ月かけて調べさせている。
海軍力、防備体制等不備など本土決戦等は出来ないことを理解する。

昭和20年9月27日 マッカーサー元帥との第一回目の会見 11回会見している。
「日本の戦争責任は全部私にあります。  私がその責任を負うつもりであなたの前に立ちました」と言うが、感激したことをマッカーサーの回想記には書かれている。
2回目以降は書かれていない。(政治的な発言もしているのではないかと思われるが?)

昭和21年1月1日  人間宣言 天皇を神の末裔と信じる日本国民が、其れが故に世界を征服するという誤った考えなどは持ってはいけない、神であることの否定。
後年、明治天皇の五カ条の御誓文 あれは日本の民主主義の原点です。 
日本にもあの様な民主主義が有ったんですという事を伝えたいと言ってます。

昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約で日本の主権が回復した日 国際社会に復帰。
吉田茂全権団を宮中に呼んで茶話会を開いたりしている。
退位の話が有ったようだが、今回の実録では触れていない。
主権者から象徴へ。

昭和34年4月10日 皇太子結婚 天皇は大変喜んだ。 和歌をいくつも作った。
昭和50年9月30日 アメリカ訪問 その4年前昭和46年8月欧州7カ国訪問。
イギリスの訪問の8月5日 実録では着いた日だけで14ページも書いてある。
皇太子としてきた時のことが思い浮かべたことと思われる。
アメリカでいろんなパーティーで話があるが「不幸なできごとがあった」ことを述べる。
占領期 日本の飢えと貧しさの中で、感謝の気持ちを言っている。

私たちも昭和の時代をこういう風に生きてきたという事を纏めることも大事なことだと思う。