松平直樹(マヒナスターズ・ボーカル) 80歳、今もステージに立ち続ける
ムード歌謡コーラスグループのセンターボーカルを担当している松平さんは、80歳の今もステージに立ち、甘いソフトな歌声で多くのファンを引き付けています。
多くの歌手が歳と共に第一線を退いてゆく中で、松平さんは独自の健康維持で、現役を保っています。
80歳での健康維持法、ボイストレーニング、若いころからエンターテイナーとしての芸を磨いてきた多くの方々との交流録について伺います。
80歳が来た様な気がしない。 マヒナスターズ結成60年
新幹線もなく演奏旅行がきつかった。 北海道等はバスの移動で疲れた。
歯はすべて自分のもの。 母がにぼしを味噌汁に入れたり、ぼりぼり食べていたりした。
生まれは新宿だったが、戦争のため北上に学童疎開していた。
末広亭で落語を聞いていたので、疎開先のお寺でしゃべって、食べものを貰ったりした。
戦争が終わって、直ぐに疎開先から帰ってきて、全焼で何もなく、お爺さん宅が焼けてなくて、アパートもやっていたのでそこから中学、高校と通った。
淡谷のりこさんが歌っていたのを聞いて、涙が出た。
立教大学に進学、ハワイアンをやった。
灰田 先生が池袋にハワイアン喫茶をやっていて(自分自身ではないと思うが)、そこに出演するように言われて、スカウトされて、進駐軍のところに行ってやっていたが、帰りが遅くて辞めたが、再度誘いがあった。
ギターもやったが手が痛くて、ボーカルだけをやる様になる。
三島 敏夫、佐々木敢一、私でビクターから宣伝用のレコードの話があり、それに歌をいれていたが、三島さんが佐々木を連れて戻ってしまって、裏声をやる人がいなくなり、私がやらざるを得なくなり、裏声を練習していたが、喉が弱ってしまって、血が出て直ぐ病院に入院した。(22,3歳の頃)
結核だと思ったら1カ月半で治る。
佐々木敢一が戻ってきて、元の一人で歌えると思った。(「ウナ・セラ・ディ東京」あたりから)
(台風関係のニュースの為、中断)
ステージでジャズを歌ったり、ハワイアンを歌っていたりした。
トリオロスパンチョスがきて、声が素晴らしかったので、ラテン歌謡をやってみたくなった。
「ウナ・セラ・ディ東京」 作詩 岩谷時子さん
声の管理 食事 焼き肉だとかは疲れが取れる。
車は夏は冷房、冬は暖房で声を出すのには、一番いい。
休みの日は発声練習、ジムに行って運動をやっている。
身体の弱っているところをカバーしようとして、余分なことをするといけない、返って悪くする。
子供のころから歌謡曲が好きだった。
歌謡曲、ジャズ、ハワイアンを良く見に行った。
カメラを持っていれば、東海林さん、岡さんとかいろんな人と一緒の写真を撮れたので、悔やまれる。
東海林さんは酒が好きだったので、一緒に飲んだりして、帰りに肩を組んで歌を歌ったりした。
座右の銘 「人生成り行き」 その時その時でがむしゃらにしないで、成り行きでやる、そういう気持ちです。