2014年12月7日日曜日

保坂正康(作家)      ・ 昭和史を味わう (第10回)日本とアメリカの戦争への道

保坂正康(作家)                 昭和史を味わう  (第10回)
日本とアメリカの戦争への道
昭和12年前後、日中戦争~太平洋戦争開戦
日本とアメリカの関係 日露戦争当時は米国は日本に対して分の良い様な講和を纏めてくれた。
日本がアジアに進出するようになって、フィリピンを支配していた米国は神経を使う様になる。
ワシントン会議で日本がイギリスと同盟を結んでいるのを切らせ、包括的な中で日本を取り込んでいこうとする。
アメリカに対して軍事膨張政策を歯止めするのではないかという警戒心が強まってくる。
「日米闘うべきか」昭和7年4月発行、「対日10年」グルー日本大使著 2冊を読むといろんな形が判る。
「日米闘うべきか」 日本の支配層にいる人達(14人)が書いた論文で、みんなアメリカと戦争をするのは得策ではないと言っている。
日米戦争は日本にとっては国家存亡の戦いであるが、米国にとっては商工業発展の遅速を決定する戦いにすぎない。 
国のレベルの違いの正確な分析をしている。

グルーの奥さんはペリーの兄さんのひ孫にあたる。 日本との縁を意識した。
天皇の側近と可なり深く付き合う。 日本と言う国を理解する。
天皇周辺のリベラルな人達、もうひとつはなかなかいい分を変えない頑強な軍部であると、書いている。
天皇周辺は親米的で、軍人、右翼などはなかなか言う事を聞かない。
グルーは、行きつくところは、日本の国民自身が軍の言い分に魅かれてくると分析をする。
グルーは昭和7年~17年までの日本が変化してゆくのを、アメリカをどう見るか判っていた。
知識人はアメリカとは絶対戦争はしませんと、軍はわがままを言っているが、私たちは何とか抑えますと言ったりしているが、段々とその声が弱くなっている、と言う様な言い方をしている。

昭和12年7月7日 盧溝橋事件
日本はこの辺から中国との戦争の深みにはまってゆく。
蒋介石政府を米国、英国は支援する。  戦争が長期化する。
反英米的な感情が沸き起こる、その分ドイツ、イタリアに近づく。(枢軸体制が出来上がる)
昭和14年9月1日には第二次世界大戦が勃発、ドイツがポーランドに侵攻する。
イギリス、フランスなどが参戦する。 
米国も英国フランスに対する支援の姿勢を持っているのでドイツに対して戦う姿勢は持っている。
日本はドイツと三国同盟で一体化しているので、日本と米国との基本的立場は違ってしまった。
米国と敵対感情が生まれてくる。
米国はナチスドイツを英国なんかを支援して押さえようとするが、日本はかなり不満を持ち、関係が悪化してゆく。

昭和15年9月27日日独伊、三国同盟が結ばれる。
完全に日本、ドイツ、イタリアが同盟を結んで、米、英と敵対すると言う事を宣言した形になる。
枢軸国対連合国の図式がはっきりしてくる。
ルーズベルト大統領はどういう形で参戦するか、考えていた。
昭和16年 日米外交交渉  最初政府レベルで始めるのではなくて、宣教師2人が来て、大蔵省のOBで始まる。
日米交渉はお互いに計算している様な関係の交渉だった。

米国は三国同盟を離脱せよ、中国からの撤兵、満州国を承認しない。
基本的な立場が違う。
昭和16年6月22日 欧州戦線で独ソ戦が始まる。
日本の軍部はドイツと一緒にソ連を挟み撃ちにしようという北進論、南にでて植民地軍は弱いのでそこに入って行って資源を確保しようと、南部仏印に兵を送る。
米国は何も対抗処置を取らないだろうと、甘く考えていた。
ところが米国は直ぐに対抗措置を取った。
石油の全面禁輸、米国の国内の対日資産の凍結、すずなどの資源素材の日本への輸出禁止。
日本は目算違いだった。

日本は段々話がつかなくなる。
近衛内閣が米国との交渉が立ちゆかなくなり、軍は石油を止められて戦争以外に道は無いという形になってゆく。
昭和16年11月26日ハルノートをアメリカが提示してくる。
アメリカが突きつけた最後通牒だと言われているが、必ずしもそうではないと今になって見ると言える面も確かにある。
アメリカも、もう一度原則的に、太平洋にアメリカに分け隔てない政策をやろうと、日本を三国同盟から離脱せよと、南部仏印から撤退せよと、条件が今までと変わらない条件を示してくる。
日本の軍は何のための交渉だったんだと、交渉を打ち切ると言う事で、軍事が前面にでてくる。

日本の駐米大使野村吉三郎が国務長官ハルとは日常的に交渉している。
野村吉三郎は昭和16年2月11日 ワシントンに着任した。
日本の外務省と野村のやり取りの暗号電報は実は見事に解読されていた。
ハル長官が野村と会う時には、どんな指令を持ってくるか、どういうことを言ってくるかを知っていた。
回顧録にハルは知らないふりの演技をするに困ったと記している。
情報戦でも日本は全く太刀打ちできない状況であった。

朝河 貫一 歴史学者 早稲田大学を卒業後、ダートマス大学、イェール大学に留学する。
大学ではトップで出て、教授になる。
アメリカに住みながら、日本はこういう考えでいるんだと、できるだけ多くの人に説得する。
日本にいる友人たちに、日本の政策はどうしてこういう風に曲がってゆくんだと手紙などで送っている。(朝河 貫一書簡集)
日本の社会はアメリカの社会を知らな過ぎると、どれほどアメリカ人はヒットラーを嫌っているか、ナチスは民主主義にとっては敵対組織なんだと、アメリカは了解している、それなのにどうして日本は手を結ぶのかと、出来ればそれを切ってほしいと言う様な事を切々と訴えている。
イェール大学の友の一人の鳩山一郎にも手紙で訴えている。

昭和16年4月 食料事情も窮屈になってゆく。 6大都市で米穀配給通帳制、外食券制 実施。
5月は肉無し日実施。 10月ガスの使用制限 ガソリンの使用全面禁止。
戦費を捻出するために国民生活が犠牲になってゆく。
考えを改めるべきと議会で質問している。(反軍演説)斎藤隆夫 
昭和16年11月17日 第77回帝国議会 東条首相の施政方針演説 戦争突入が決定的になる。
昭和16年12月8日真珠湾攻撃が始まる。
東京からの海外向け放送。「西の風 晴」との繰り返しの暗号放送がある。
8日 午前4時に暗号放送が放送される。 午前7時臨時ニュースで戦争突入について放送。
東の風雨=アメリカ  北の風曇り=ソ連  西の風晴=イギリス 
「西の風 晴」→イギリス関係、日米関係も戦争状態になるから、資料及び暗号機は燃やしなさいと言う命令をだした。

「日米闘うべきか」昭和7年4月発行の本の内容の冷静さが薄れていって、主観的願望だけで物を見てゆく、其れを客観的事実にすり替えてゆく、そういった軽率さがあったと思う。