釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会理事長) ・ブラインドサッカーに願いをたくして(1)
73歳 大学で英語を学んだ後、ツアーコンダクターとして、140カ国以上廻りました。
ところが50歳を過ぎた頃、網膜の機能が衰える病気と診断され、いずれ失明すると宣告されます。
その後釜本さんは知人の紹介で目が不自由な人たちがプレーするサッカー、ブラインドサッカーに出会います。
視覚障害のある選手たちがボールの音や、コーチの声を頼りに自由自在に動き回る姿に圧倒されブラインドサッカーを日本に広めようと協会を設立しました。
4年前完全に視力を失った後も選手の育成に力を入れる一方で、旅行を楽しみ視覚障害者の外出を手助けするボランティア組織の会長も務めています。
眼の見えない人が行うサッカーで5人制で、4人が全盲で、ゴールキーパーは健常者、又は弱視の方。
40m×20mのグラウンドで行う。
ボールを追いかけるのは難しいので、ボールが転がってゆくときに音が出るようになっている。
ボールの中に鈴の様な音源が内側にくっついている。
2002年に日韓ワールドカップが行われる予定だった。
2000年にシドニーのパラリンピックで次回のアテネでのパラリンピックが5人制のサッカーの正式種目になることが決定された。
そのころに大分眼が見えなくなってきて、電話がかかってきて、ブラインドサッカーを知ってますかと言ってきた。
視覚障害の方のサッカーも何とか取り入れたいので、手伝ってくれと言われる。
韓国まで2001年に8人ぐらいで見に行く事になる。
弟は釜本 邦茂
グラウンドにいったら、小さいと思った。
全盲なのになぜアイマスクをしているのだろうと、初めは視覚障害者ではどうせ大して走れないだろうと思ったらとんでもない、フルスピードで走っている。
試合後インタビューしたら、サッカーは面白い、との返事が返ってきた。
こりゃあ日本に帰ってきてやらなければいけないと思った。
多少光を感じる人もいるので、条件を一緒にするためにアイマスクをするという事を後から聞いた。
私も4年前から全然見えなくなって、見えないと言う事は大変なことだと感じた。
ボールの音、ガイドの声を聞きながら走ると言う事が、彼等はピッチの中に自由がある、ピッチの外は思う様な行動ができず不自由だと思っているので、自分一人で考え走ることが楽しくてもしょうがないと言う風な状況だと思います。
帰ってきて、大坂で始めて、次に横浜でやりました。
弟もサッカ-協会の副会長もやっていたので、開始の時には講演をしたり、自分がアイマスクをして蹴る様な事もしてくれました。
始めてのアジア大会を日本で開くときは、弟は大会の名誉委員長になってもらいました。
キャッチポスター 「サッカーは目じゃないよ」
弟が中学に入る時に、野球をしようか迷っていたので、サッカーをするようにアドバイスした。
私はバスケットボールをやっていたし、スポーツ家族であった。
私はなるべく社会に留まりたいと思っていたので、4年生の大学に行ってプロになる職業を選びたいと思って英語を勉強しました。
通訳ガイドの試験にも合格する。
経済、法律、歴史、地理、芸能から勉強しなければいけなかった。
大坂万博(1970年)がやってくると言うので、旅行業に入った。
前年から入り、日本に来る外国人に日本で案内すると言う仕事だった。
次に国内の仕事から海外の仕事に移る。
日本に会社があり、海外に支店を持つと言う事はなくて、海外に行けば日本人のスタッフはどこにもいないので、全部自分で通訳をしながら飛行機の確認、ホテルの確認をしなければならず全て自分の方に掛かって来ていた。
現地とのやり取りはFAXもなかった時代だったので、テレックスの様な時代なので電話代も非常に高くて、現地とのやり取りを電話でなんてありえなくて、兎に角間違いが非常に多かった。
行った先 行った先で 次の飛行機の確認をして行かなければいけない状況だった。
1970年代 ギリシャ キプロス紛争が発生 空港、鉄道が全部封鎖と成る。
ホテルで一服して、午後見学だったが、午前に街に出かけるが店のシャッターを閉める光景に出会う、キプロスとギリシャが戦争を始めることを聞く。
2日目 ニュースを集めようしたが、全然集まってこなかった。(電話局も閉鎖)
現地の旅行会社の人から、内緒でイタリアのブリンジ市の港町に船が出ることを告げられる。
乗りますかと、戦争中なので乗船料3倍も取られるけど、と言ったら皆乗ることに賛同してくれる。
ローマのガイドの人が来てくれて、声をかけてくれた私は涙が出そうになった。(感激と嬉しさ)
何があるかわからず、瞬時に決断してゆく以外にないと思っている。
旅行会社を辞めて、英語塾を開いていた時に、眼の病気になる。
50歳を過ぎたあたりから目が痛いと言う状況だったが、数時間過ぎると治ってしまうので、病院には行かなかったが、眼にゴミが入り取れないので、眼の大学病院に行く。
取ってもらって、検査をしてもらって、網膜色素変性症ですと言われ、将来目が見えなくなると言われた。
2,3年後に視野狭窄が始まる。 視覚障害者3級になる。 4年前に見えなくなる。
宣告を受けた時は20,30年先でしょうと、笑い飛ばしていたが、段々見えなくなる。
眼の見えなくなった不安感があった。
手紙が来ても見えない、返事を書くのに書いてもらうが、ちゃんと書いてくれたのかと、疑ってしまう日々の連続だったが、相手に任せると言う状況となる。
電話が鳴った時に、立とうと思って動くが、柱に額を当てて大きなたんこぶを作ったりした。
受け入れる以外にない、気持ちを穏やかにする方法はない、悩んでも仕方がないと切り替えざるを得なかった。
野菜とかいろいろ支払いはカードでやっている。
今は野菜とかヘルパーさんに値段を読んでもらったりして、高かったら止めとくわと言う事も出来るようになった。
生きるための全ての情報の80%は眼から入ってきます。
いくらあがいても、この病気は今の時点では、治らない。
受け入れて生きてゆく、明るく、はつらつと元気に生きてゆくしかないと思う。
ブラインドサッカーの選手は物凄く明るいと思います。
心の奥底では治ってほしいと思っているかもしれないが、彼等は受け入れてブラインドサッカーに携わっているから明るいと思っています。
眼が見えなくなって失ったものは非常に大きいが、得たものも凄く大きいので、わたし自身はブラインドサッカーに携わって、サッカーというものを通して非常に多くの人と関わることができ、ボランティアさん、ヘルパーさん等と知り合いになれた。
ブラインドサッカーで彼らが夢を描いてくれる、私もその仲間にいるんだと言う事が、わたし自身としても大きな夢を描けている、こんな嬉しいことはないなあと思っています。