*まだ左手の親指先、人指し指先に常時痺れがあり、朝には掌にむくみがあり、揉んでいるうちにむくみが取れるような状況ですが、1~2週に一話程度選択して(無理しない程度で)ぼつぼつ再開しようと思います。
いつ完治するか判りませんが、例え完治しても以前の様に毎日とはいかないと思いますので、御了解下さい。
秋田
竹村牧男(東洋大学学長) 仏教は心の世界遺産
1948年生まれ 66歳 40年以上に渡って仏教の研究を続け、日本を代表する仏教学者のおひとりです。
高校時代から日本の文化の背景に在る仏教に意味を持った竹村さんは、東京大学文学部インド哲学科に進学、学生時代は座禅修行に打ち込みました。
その後文化庁の専門委員、筑波大学教授を経て、現在は東洋大学の学長を務めています。
子供時代は凄く貧しい家でした。
4つの時に父が亡くなり、母が働いて私たち4人の子供を育ててくれました。
仏教に興味を持ったのは、高校の国語の試験で唐木 順三の文章が出た時でした。
凄く美文調で非常に心に残る文章だった。
それから唐木 順三の本を読んで、道元、一遍とか、また様々な思想を学んだ。
岡潔の書物を読んで、すごく感激した。
心の問題とか、日本的な伝統の事、仏教の事を非常に熱く語っていて、心に響いた。
岡潔は道元とか、弁栄上人(浄土宗 光明主義を唱える)の念仏を実践された方です。
念仏を唱えて精神統一されて、そして数学の困難な問題を解かれたと言っても過言ではない。
仏教を勉強したいと思って、と言うことで東京大学の文学部に入って、インド哲学科入った。
駒場で坐禅のサークルに直ぐに入った。
毎月13日に中川 宋淵老師が来られて法話を聞いたり坐禅をしたりした。
秋月 龍珉先生が禅の私塾を開いていることを知って、神楽坂に通う様になった。
これが基盤に成っていると思う。
秋月 龍珉は日本の禅を世界に伝えた鈴木大拙に教えを受けられた方。
坐禅 調身調息調心 身体を整え、呼吸を整え、心を整える。
心を整える時には、緩やかに整えた呼吸を心の眼で見つめる。
心を集中してゆく、統一してゆく、そして三昧に入る。(精神統一された状況)
数息観→静かに自分の息を勘定する修養の方法
大学を出て出版社に務めたが、或る先生から手紙が来て、戻ってこないかと言われて、大学に戻って研究する事になる。
博物館、美術館で仏像展をすると、凄く賑わう。
意識しなくても、仏教の世界観、宇宙観とか、そういうものを呼吸しているのではないかと思う。
文化の中にそういったものが浸透して行って、知らず知らずのうちにそういうものの見方、考え方になじんでる。
大きく 大乗仏教(密教も入る)、小乗仏教(東南アジア等に広がっている)に分けられる。
日本の仏教は大乗仏教ですが、修行方法でかなり多様に分かれている。
念仏、題目を唱える、坐禅など 行、ないしは信仰の信 内容によってかなり宗派的に別れている。
インドから段々に伝わってきて発展するが、発展した最後の形態が伝わっているので、非常に高度な仏教が日本には残されていると同時に、末法思想があるが、お釈迦様の時代から離れるほど人間の能力の衰え、社会も濁ってくる。
修行方法が用意されているが、修行もなかなか出来ない、その修行ができないものがいかに救われるのかというのが日本の仏教の課題になっている。
深いが簡単な形で救われる道がいくつも用意されている。
日本仏教の独特な特徴だと思います。
唯識 世界は心が表しだしただけだという、考え方の思想があるが、実はこれが大乗仏教の共通の世界観になっている。
唯識の思想は非常に精緻な論理的な体系で語られている。
如来像思想 皆本来仏であるが、無明、煩悩に覆われていてそれを自覚出来ない。
発展した高度な教理を受け継いでると言うところに、奥深いものがある。
唯識 世界は自分の心が表しだしただけだという、外界にそのものとしての本体、あるものがあるわけではないという考え方。
例えば机、見える姿形として無いわけではない。 机、本体はあるか、ばらせば机ではない、燃やせば無くなるわけで、机と言う本体がある訳ではない。
言葉を使う事で無意識のうちに言葉に見合う、なんかそういうものがあると、永遠不変なものがあると、つい思ってしまう。
日常的にはそう思い込み、執着し、苦しんでいると言う様な事がある。
自分と言う存在もそう、自分と言う本体があると思いこんでいるが、本当にあるのかという問題になる。
かけがえのない主体が発揮されているが、常住(永遠不変なこと)なる自我があるとは言えない。
般若心経で 「色即是空 空即是色」
本体は持たないけれども、現象としてあるという意味合い。
空であるがゆえに色として成りたっている。 色は物質的な現象の事を意味する。
「受想行識 亦腹如是」
唯識は、我々があると思っているものが実は映像にすぎない、心が表しだしたものにすぎない。
心を、我々が自覚していない心の世界がある。
五感の感覚、意識、判断、未来のことを思ったり、過去の事を思ったりする、意識のさらに奥に末那識があり、更に奥に阿頼耶識がある。
末那識は常に自我に執着している。 寝ている時のも末那識が働いている。
夢は第六識の世界。
阿頼耶識は過去一切の経験を貯蔵している世界だと言われる。(無意識の世界)
生じては滅し、生じては滅しながら相続されている。その上に生死輪廻が行われている。
六道輪廻 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上
生死輪廻は阿頼耶識の上に、それまでおこなった行為の情報が蓄えられて、その行為の善なる性質、悪なる性質によって、次の世にどこに生まれるかが決まってくるという。
阿頼耶識の中に世界に生きる個体、人間界なら人間界と言う世界と、人間としての個体が、阿頼耶識の中に又一定期間現れる。
寿命がくるとそれが消えるが、阿頼耶識は相続する。
また次の世の世界と生き物になる。
人間の存在は八識から成り立っている。(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)
八識の中に人間としての世界も人間としての身体もある。
瑜伽行(ゆがぎょう)派と言う学派に於いて形成された。
自我に執着してとらわれ、物に執着してとらわれ、苦しみが生じている。
それを如何に越えて、しかも本来の命を如何に発揮するか、其れを導くために世界はこうなっているんですよ、だから執着している、いわれのないことでしょう、意味のないことでしょう、そこから解放されてくださいと、そういう意味で造られている。
自分とは一体何なのか、昔の人もそれを一生懸命追求してきた。
今の人の方が外のものばかり眼が奪われて、外のものばかり追いかけて、自分を見失っているのではないか。
小乗仏教は自分の問題の解決しか求めない。
大乗仏教はそれを批判した。 他者が苦しんでいる現実がある。
他者の事を放っておいていいのか、そもそも自分の存在は他者とのかかわりの中に成立している。
大乗仏教は自分はともかく他者の苦しみを何とか救いたい、減らしたいと、他者も自分も同じように自分を越える仏の命からもたらされた命であり、他者が苦しんでいるのなら何とか他者の為に働いて行くと言う思い、行動がでてくる。
お釈迦様は紀元前383年に亡くなられた。 仏教文学
「本生譚」 如何に人のために身をささげたか、とかそういった話になっている。
その中の一つにずっと以前,お釈迦様はうさぎさんだった、と言う話がある。
かわうそとか仲間がいて、或る日 バラモンさんが来るので、供養しようとそのための食べものを探してきましょうと言う事で、友だちはうまく探せて用意できたが、うさぎは探すことができなかった。
バラモンさんが来た時に、うさぎさんは供養するものが見つけることができなかったので、焚火を用意して、その中に飛び込むので私の肉を食べてくださいと、飛び込んだという話がある。
実はうさぎはお釈迦様の過去生だった、バラモンは実は帝釈天という神様で、飛び込んだ瞬間に姿形を現わして、受け止めて、お前は大変良いことをした、お前の善行は長く世に伝えなくてはいけない、月にお前の姿を書いておこうと、いうんで月にうさぎがうつったという物語がある。
イエスは皆に代わって苦しみを受ける。 代受苦
浄土教 阿弥陀様は皆を救いたいと、その為に一生懸命に、計りしれない長い間、苦行に苦行を重ねて仏になられて皆を救っている。
皆は南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる。 一種の代受苦の思想。
法華経の話の中の仏様にも、イエスの代受苦と似たような話がある。
仏教の一番根本は、無我 常住成る自我は存在しない。
かけがえのない命の働きはあると思うが、我々がしがみついている様な変わらない本体としての自分と言うものは無いという、無我の思想。
無我と言うものを根本として、そこからあらゆるものを見てゆく、これは今後の時代を切り開く重要な原理になると、私などはそう思っている。
社会の仕組み成りたち、今非常に競争社会になっている。
なんか追い立てられている。
非常に行きすぎた個人主義に基づく競争原理がグローバルスタンダートとして世界を席巻しているのではないかと思うが、東日本大震災などで再び自覚されたように、人間の絆は大事じゃないかと、人と人とのつながりからものを見てゆく、考えてゆく、繋がりの中で成立し得ている自己、他者も含めてそういう視点は或る種、無我の思想につながっている。
鈴木大拙は真空妙有と言う言葉を言っている。
空の中から尽きない、無限の働きがでてくる。
見返りを求めたり、手柄を立てて名誉を求めたりとかにとらわれない、ただ無心に働く。
やってやったんだから報酬をくれとか、ついそういう事になりがちだが、本当に純粋の働きではない。
本当の自由の働きでもない、自由はまさに本来の自己の働きとして行うところに自由があるわけで
そういうところを重んじた。
他者のことをよく考えながら、自己のことも考えてゆく。
自分さえ成功すればいいと言うわけではない。
環境問題との関係から言えば、自然を大切にすると言うか、自然と共生する事も大事ですが、環境問題は世代間倫理という問題を引き起こしていると思う。
我々の世代だけで環境、資源を消費しつくしていいのだろうか、未来世代の人たちに豊かな環境を残さなくていいのか、我々は未来世代の人のためにどう行動すべきか、考えないといけない。
現にいる他者のために何をするかと言う事だけではなくて、いまいないのだけれども、未来世代の人のために何をすべきかを、真剣に考えなければいけない。
人間と人間の、空間的なだけでなく、時間的な繋がり、眼に見えない絆、其れが根本にあるんだと、その中でどう考えるのか、と言う様な事につながると思うんです。
宗教はいろんな捉え方があると思うが、己事究明 己を究明する。
仏教はそこに多くの材料を提供していると思う。
一番根本のレベルは、生死の問題
社会的にいじめを受けて皆から無視されたとか、自己が絶対的に否定されたとか、言う様な局面も無いわけではない。
悩みにどう対処すればいいのか、教えてくれていると思うが、悩みの根源、そもそも自己とは何か、の解答を下さるのが仏教ではないでしょうか。
哲学としての仏教という側面があるわけです。
宗教としての仏教 倫理としての仏教 この三部作を書きたいと思っている。