2016年5月10日火曜日

古賀典篤(写真家)       ・”鳥たちの声”を撮る

古賀典篤(写真家)       ・”鳥たちの声”を撮る
昭和9年 長野市生まれ 父親の仕事の関係で終戦を台湾で迎え、中学2年の時に日本に引き上げました。
九州大学卒業後、中小企業金融公庫に就職し、定年後は神戸にある海運会社に再就職して、80歳過ぎまでサラリーマン生活を送りました。
島根県松江市に単身赴任していた52歳の時に、地元のカルチャー講座写真入門に入学して写真の道を歩み始めました
山陰の風物、特に冬の季節に飛来するハクチョウなど、野鳥の姿に魅せられて終生のテーマになりました。
北海道から鹿児島まで15か所の野鳥の生息地で撮影を続けてきました。
1990年 二科展に初入選、以来10回入選し、2013年9月には二科会写真部会員に推挙されました。
古賀さんは近年環境整備という名のもとに自然が破壊され、渡り鳥の飛来地も次第に狭められ汚されてきている。
物言わぬ鳥たちに替って、彼らの美しい姿の写真を通して自然と命の大切さを訴えていきたいと撮影を続けています。

冬場が主ですが、初夏とは言え、カメラ自体も絶えず動かしていないとカメラもボケますし、自分腕も鈍るので、写真はたえずシャッターを押しています。
二科展は9月に始まりますが、すでに作品は提出しました。
会員になって2年になります。
絶えず上を目指していかなと腕も停滞して行きますので、常に研鑚していないといけません。
中小企業金融公庫に就職 母方の伯父が東京銀行日銀にいて、父親は研究者で地味でした。
永い間企業の審査をしていて、たまたま定年間近に、海運会社の財務担当の専務さんが急死して、行く事になりました。
学生のころは映画(洋画)が好きでしたが、野球、卓球などをしていてこれだと言う趣味は無かった。
会社に入っても、マージャン碁、将棋などやっていました。
ダンスは長く続きました。(5年ぐらい)
松江市に単身赴任していた52歳の時に、新聞に写真教室の広告が入っていて、入学しました。
「写真とは自分の感動を写真という映像を使って伝える手紙だ」と言われました。
その言葉がいまでも座右の銘になってしまいました。

松江は冬は雲が低く垂れこめていて暗く寒く、人々は寒い冬を必死になって我慢して生きていると言う風に感じてました。
松江はハクチョウが飛来する南限で宍道湖など、米子の水鳥公園は多く来ます。
田んぼに餌を取りに行くので、毎朝日の出始めから飛び立ちはじめ9時頃には飛び去ってゆきます。
春になると、シベリアまで900kmあるが、一晩で飛ぶと言う事で、命の不思議さに感動しました。
10月ごろ転落事故を起こして6カ月の入院をしてしまいました。
窓から見える光景を見ながら、サラリーマンのレースではもう負けたんだなあと思って、カメラで頑張ってみようかと思いつきました。
島根県の県展の銅賞になり、力を得ました。
二科展にも市とかにも出しているうちに、、絞らないといけないと思って、二科展に集中しようと思いました。

大阪に転勤するが、マイカーを持っていたので、約300km駆けて写真教室に通いました。
ハクチョウは写真が撮り易いと言う事もあり、飛び方も優雅なのでハクチョウが対象になりました。
その後、琵琶湖、石川県羽咋市、富山県田尻池、新潟県瓢湖、山形県酒田、等に行き、北海道の屈斜路湖まで出掛けるようになりました。(年末年始を利用)
旅費の他にも機材だけでも100万円超えるし、ボディーだけでも1台について20万円とか、大分投資はしました。
鳥とは語り合う様にして撮っています。
生き物はそれぞれ固有の警戒域を持っているので、そこを壊さない様に近づいて、心の中で美しい姿を撮らせてくれと言いながら撮っています。
海の岸壁、水辺をコンクリートにしたりすると、草が生えなくなって、餌が無くなってしまって、そういうのも寂しいものだと思います。
旅立ってゆく姿を見てもう半年は会えないんだなあと思うと、写真を撮らしてもらって有難うと言いますね、涙ぐむ時もあります。

やっと自分の心の感動が伝えられるようになってきたのかなあと思います。
心技体が大事だが特に心は大事だと思います。
自分の対象にたいして、愛している、素晴らしい、という心を伝える、そういう話し合いができる様な心を持たないと相手の綺麗な姿を写せないんじゃないかと思います。
自然を破壊したらいかんという様な気持で皆さんに伝えたいと写真を撮っています。