2023年5月17日水曜日

山本勉(日本野球機構公式記録員)     ・〔スポーツ明日への伝言〕 もうひとつのスコアカード

山本勉(日本野球機構公式記録員)     ・〔スポーツ明日への伝言〕  もうひとつのスコアカード ~野球場跡地を巡る旅~

1936年(昭和11年)に始まった日本のプロ野球は。今年で88年目を迎えています。 この間に行われた公式戦は6万5000試合に迫り、使われれた球場は昨日初めて公式戦が行われた北銀ボールパークで291か所目になりました。   しかし、そのいくつかは球場としての役目を終えて、姿を変えています。  平和台、大阪後楽園、西宮、日生などかつて球団の本拠地だった球場を始め、数試合しか開催されなかった地方球場、あるいはプロ野球草創期や戦後の復興期に試合を行った学校の校庭、民間企業の敷地内の球場,陸上競技場を転用した代用球場、河川敷のグラウンドなどその数は100か所を越えています。   憧れの名選手たちが躍動し、多くのファンの歓声に沸いた球場の跡地、そうした消えてしまった球場の痕跡をたどる旅を続けている方がいます。  日本野球機構公式記録員の山本勉さんです。   山本さんは野球の記録員として野球のスコアを残しながら、時間を見つけては球場の跡地を実際に歩き訪ね当時を知る人たちからの証言をコラムに書き綴ってこられ、今年1月には「球跡巡り歴史を刻んだ球場跡地を歩く」として一冊の本にまとめました。  山本さんのプロ野球をタイムスリップする旅のお話を伺います。

若いころに或る本で学校の校庭にロープを張って、プロ野球を開催したというくだりを読んだことがあります。  調べてみると、校庭だけではなくて企業の会社の中にある球場、陸上競技場のトラックのなか、河川敷のグラウンドなどでプロ野球を開催したというようなことが判りました。  プロ野球を開催して無くなった球場が100以上あることが判りました。  プロ野球をやった人と、それを実際に見た人たちにお会いして、話を聞いて探訪記をかいてみたいと思いました。   終戦直後は野球場が接収され、1950年に1リーグから2リーグになり、球団が8球団から15球団になり、野球をする球場が少なかったので、学校の校庭とか、河川敷の歴史があったんです。  荒縄を越えるとホームラン、抜けると2ベースヒット。   

プロ野球は1936年から始まって、6万試合を越えました。  2018年から球場跡地をめぐることをスタートしました。  球跡は全国で114か所あります。 試合数が一桁というのが半数以上66あります。  開催がたった一回が21か所あります。 ほとんどが70年以上前です。   どの程度会えるかと思いましたが、いろんな思い出を持っている方がたくさんいました。   跡地は病院、スーパーマーケット、自動車教習所、などいろいろ変わっています。

2018年に最初に行ったのは広島県にある福山三菱電機野球場です。  広島県で行われた最初のプロ野球です。   会った人は1948年に行われていて外野スタンドで観ていた方でした。  笠原和夫さんが打ったのがホームランとなり、座っていた外野スタンドの近くまで飛んできたという事でした。   笠原和夫さんは学徒出陣の壮行試合、最後の早慶戦での選手でした。  1950年同球場で金田正一さんがプロに入った年で練習試合で投げていた。   1950年は広島カープが生まれた年でもありました。  広島カープの第一号ホームランは福山三菱電機野球場です。   

北海道函館市民球場、上砂川球場の二つは面白かった。    函館市民球場を設計した人は久慈二郎さん (早稲田の名キャッチャー)です。   当時市議会議員で設計に携わったそうです。  一塁側のスタンドのところにスキージャンプ台を作ったんです。  久慈さんはスキーも上手かったようです。   その球場で野球もスキーのジャンプをした方がいてジャンプでは22m(最長不倒距離が26m)飛んだそうです。 1938年後楽園球場、甲子園球場で外野席に特設のスキージャンプ台を作って、北国から雪を運んできて、スキージャンプをやったという歴史もあります。

上砂川球場は札幌の北の70kmぐらいのところにあります。  1938年に野球場が出来ています。  当時北海道に野球があったのは丸山球場、旭川市営球場、函館湯の川球場の3つでした。  炭鉱の会社が上砂川に野球場を持っていました。  1950年にプロ野球を誘致して開催しました。   平日開催で人が入らないと思って、会社を公休日にして開催したそうです。   炭鉱は閉鎖され、人口は1/11まで減って行ったそうです。  

愛知県に面白い2つの球場があります。(山本球場、大須球場)  この二つの球場は一個人が作った球場でした。   山本球場は山本権十郎さんが作って自分の苗字を球場名にしました。  春の選抜中等学校野球大会第一回目が行われたところです。 プロ野球でも伝統の巨人阪神戦の第一回目が行われたところです。  今はマンションに変っています。  大須球場は今はスケート場になっています。   高島三治さんが作りました。 1950年今の西武ライオンズ(西鉄クリッパース)3月に試合をしています。   今の西武ライオンズの1勝目になります。   野球以外の日にはバイクレースをやったりダンスパーティーをやったりして、使用料を稼いでいたそうです。  その後名古屋球場が出来た為5年間で消滅しました。  

兵庫県の姫路城内球場、姫路城の三の丸の広場に野球場がありました。  プロ野球を一日だけ開催しています。   昔は14か所に城内に球場がありました。  その時投げていたのが今西錬太郎さんで聞きに聞くことが出来ました。(当時95歳)  

公式記録員というのは、プロ野球が行われている球場に行って、ヒット、エラー、ボール、パスボールなどの判定をくだして、スコアーカードに書くというのが仕事です。   主観によるところが多いので難しいです。    高校卒業後愛知県の企業でサラリーマンをしていました。  1988年に母校の宇和島東高校が春の選抜大会で全国制覇しました。(初出場初優勝)   公式記録員募集の記事を見つけて応募して今に至りました。     受験には300人来ました。  私一人合格しました。  今年35年になります。  1400試合を担当しました。(現役では最多)   「ボールから目を離すな」という事を基本にしています。   ノーヒットノーランは4回立ち会う経験をしました。     記録を見ると詳細に思い出します。 

今西さんは1946年から阪急で投げたピッチャーです。  当時の話をいろいろ聞く事が出来ました。  闇米をストッキングにいれて持ち帰ったとか、いろいろ聞きました。   特攻隊員となって戦争に向かった人もいました。   

岩手県営野球場  この3月31日に閉場になりました。  大谷翔平選手、菊池雄星選手、佐々木朗希選手なども高校時代この球場で活躍しました。