2023年5月28日日曜日

流山児祥(俳優・演出)         ・演劇への見果てぬ夢

 流山児祥(俳優・演出)         ・演劇への見果てぬ夢

流山児さんは1947年生まれ、75歳。  演出した作品は300本、プロデユース作品は400本以上にのぼります。  台湾公演から帰国した流山児さんに波瀾に満ちた人生の軌跡と演劇への熱い想いを伺いました。

コロナ禍で3年ぶりの海外公演でした。  4年前にシルバー演劇をしようと最初呼ばれました。   もう一度来てほしいという事でした。   4年前の倍ぐらい来て成功しました。 

熊本県荒尾市出身、炭鉱夫の次男として生まれる。  人情味ある男気のある世界で育ちました。  中学生の時に父親が総評(今の連合)の副議長となって上京、千葉県流山市に移り住む。(流山児という名前の由来となる)    中学・高校時代は映画少年、高校3年生の時に好きな女の子がいた演劇部に入る。  青山学院大学経済学部に進学。  1968年学園紛争で全共闘に参加、副議長を務め大学は中退、その間にアンゲラ演劇と出会っている。 

少年時代は映画少年でした。  姉は亡くなりましたが、姉が残してくれたのは映画を観る喜びでした。  毎日のように映画館に通いました。  1960年は東京では安保闘争でしたが、僕らのところでは三池闘争でした。  炭鉱夫が首を切られて、全国の労働者が団結して資本と戦う。 暴力団、全学連とかいろんなものを見て少年時代を過ごしました。   暴力は身体に沁み付いたし、映画の中にもあり僕の感性を育ててくれました。  

千葉県立東葛飾高等学校で3年生の時に好きな女の子が演劇部にいて、演劇の世界に入りました。   周りからは非難されたが、好きなことをやるということ、間違ったことは間違っていると言えと言うのは家訓でも有ったので、それは僕を貫いていると思います。   他人と何かを作る面白さを16,7歳で覚えました。  青山学院大学でも演劇研究部に入りました。   青山学院大学では学生運動をする人間がいなかった。   演劇と政治運動は自分の中ではパラレルに繋がっていました。  唐十郎という劇作家と出会う事になります。  20歳の時に花園神社に行ってみたら、50~60人が入れる程度の赤いテントがありました。   見ていた芝居がめちゃくちゃ面白いわけです。  早稲田小劇場でも鈴木忠志という人が演出していて、芝居をやっていました。  他にも小劇場があって衝撃を受けました。  状況劇場に踏み入れ研究生になりました。   そうそうたる芸術家が6畳一間の稽古場の壁にへばりついて稽古を観ていました。   そこで一番若い研究生で居ました。  

唐十郎の有名な言葉で「特権的肉体論」という言葉がありますが、役者体がパリッとしていればいいお芝居が出来るんだ、役者にもう一回戻れと、これは歌舞伎と同じなんです。   1968年1月に赤テントに入るが、4か月しかいなかった。   また青山学院大学の学生運動に戻りました。  1969年安田講堂の攻防戦が1月18日にあり、同じ日に青山学院大学は大衆団交を行って、全部学生の言う事を聞くことになる。  その後僕らが居なくなった頃全部ひっくり返される。  翌年劇団を作ることになる。   1969年1月3日赤テントの伝説的公演「腰巻お仙振袖火事の巻」の防衛隊として駆け付けました。  これは学園闘争と演劇が本当にパラレルに繋がっている一つの大きな事件だと思います。  最後まで芝居をやって取り囲んでいた200人ぐらいの機動隊に唐さんは捕まります。   

別役実という人は面白い人だと思い、別役実さんがいる早稲田小劇場に入ろうと思いました。いってっみたら別役実さんは辞めてしまっていました。  鈴木忠志さんがいました。(演劇界の巨人)  唐十郎が書いた「少女仮面」などがあり、二人の天才が一緒に組んで「少女仮面」という戦後演劇史に残る戯曲を上演する劇団に僕は研究生としていたわけです。   1970年に劇団「演劇団」を旗揚げしました。  政治運動と演劇を、両方面白がっちゃうという雰囲気でした。  1972,3年で『夢の肉弾三勇士・4連作』をやりましたが、段々人が来なくなって30人ぐらいしか来なくなって、酔っ払いが喧嘩したり無茶苦茶で青学のお坊ちゃまの劇団なんだなあと身に染みて思いました。  

学生演劇ではないものを一回探そうという事で、1973年ごろから変わっていきました。   寺山修司さんから電話が掛かってきてお会いしました。  「天井桟敷」はあまり好きではなかったが、1970年代後半になって来てから寺山修司のスケールというか、目指すべき方向性を僕たちに教えているんだなあとやっと判って来ました。  1979年解散するときに寺山さんから「お前はパリに行け」と言われました。 

寺山修司さんが1983年亡くなり、1984年から流山児事務所を設立します。  新しい演劇界の仕掛け人に近いようなことをやったのが、流山児事務所でした。  それが劇団として残っています。  「悪魔のメリークリスマス」という大ヒットを毎年11年間やりました。            北村想、高取英、岸田理生、寺山修司という4頭立てて80年代前半から後半にかけては走りますが、90年代に入るといろんな作家に書いてもらいました。  2000年台になるともっと変わってゆく。  ケラリーノ・サンドロヴィッチとか今有名な人がほとんど書いています。  僕と野田秀樹がイギリスに勉強に行ったこともあります。  ブロードウエー演劇もやりました。   『ユーリンタウン』『ハイ・ライフ』などもやりました。

海外公演は世界14か国39都市に行きました。 最初は1991年に行った韓国公演でした。 『マクベス』でした。 一気に変わったのが2000年のカナダのエドモントン、バンクーバー、ビクトリアでした。  『寺山歌劇☆くるみ割り人形』『新。殺人狂時代』をやって一つの財産になって行きました。  イラン、ベラルーシなどにも行きましたが、肌を見せてはいけないとか、タッチしてはいけないとか大変でした。  字幕も流せない。   ベラルーシではKGBソ連国家保安委員会がずーっとついて来るんです。  

1998年3月にシニア劇団結成。  楽塾と言って創立メンバーは5人(女性4人男性1人)でした。   三島由紀夫の葵上をテキストに使ってやりました。 ラブシーンが余りにも生々しく見えたらしくて、奥さんが怒って爪でひっかかれてやれなくなってしまいました。 今はメンバーは20人近くいます。  今回は15人ぐらい出ています。 海外公演は主にアジアです。   父親は中国との交流の運動をやりたいというのが望みでした。 日本が犯した過ちの、僕なりの謝り方だとは思っています。  ほぼ10年は台湾に行きました。 台湾は僕らの原点みたいなものがある場所だと思います。  僕らなりのアジアへの反省は伝えて行かなくてはいけないと思っています。  非戦という事を高く掲げなければいけない。