2019年1月22日火曜日

倉本聰(脚本家)            ・ドラマを貫く精神 1回目

倉本聰(脚本家)            ・ドラマを貫く精神 1回目
倉元さんは昭10年東京生まれ、大学を卒業した後、日本放送に入社して、ラジオドラマなどを制作、その後フリーのシナリオライターとして数々のドラマを生み出しました。
昭和52年には北海道での暮らしをスタートさせ、後進の育成を目的に富良野塾を創設しました。
2年前のドラマ「やらぎの郷」話題になりました。
今年はその続編も放送予定だそうです。
84歳になられた倉元さんに伺いました。

冬の来るのが遅かったんですが、12月にドカッと来てそれからは例年のようになりました。
富良野に行った当初は、11月位からマイナス30度という時もありましたが、今はマイナス20度を越えることはめったに無くなりました。
温暖化をひしひしと感じます。
山形に学童疎開しましたが、その時に寒さの最初の洗礼を受けました。
手がしもやけになり、「びーるや」があり「びーる」というのはヒルのことでヒルが水槽の中に入っていて、そこに手を突っ込むとヒルが血を吸ってくれて腫れが引いてゆくんです。
昔は爪の中がいつも黒かったので、ドラマでもそうしなければいけないと言ってきました。
去年の10月に書きあげたものがありますが、235話 4700枚になりましたが、手が全く駄目になりました。
注射をうってごまかしながら書きます。

加藤道夫さん(加藤治子さんの元のだんなさん)がフランスのジャン・ジローという作家を日本に紹介して、その本をたまたま読んで、「町を歩いていたら良い顔をした男に出会った、彼はいい芝居を見た帰りに違いない」という言葉があっていい顔にすることができるのかと思って、それを一生の目標にしました。
僕の父親が俳人で、子供のころから俳句を作らされいましたし、5歳位から宮沢賢治の本の音読をさせられていました。
これがとっても僕にとっては良かったと思います。
宮沢賢治にはリズムがあり、台詞を書く時にとっても役立ちました。
韻律が備わってくる訳です。
コーラスも高校時代にやっていた、音感、リズム感はライターが知らないといけないと思います。
両親はクリスチャンでしたが、教育されたわけではないが、人間の優しさは日常的に沁み込むような環境でしたね。

一番役に立ったのは日本放送に入ってラジオドラマをやったことですね。
頭の中で想像する映像、聴取者が映像を作ってるわけでその映像が優れている訳で、TVみたいにこれですと出されると、それは違うだろうと言う感じになるわけです。
昔のラジオドラマにはいいのがありました、音の使い方が良かったです。
ラジオドラマ「魚門」などはオールのきしむ音、水のしずく音等何とも良かったです。
1974年NHKとの関係が悪化して、北海道の富良野に1977年に移りました。
酒が好きですすき野で明け方まで飲んで、ありとあらゆる人と話をしていて、東京時代は業界の人としか喋っていないので、社会を書けていないのではないかと気が付いたわけです。
田舎の土にくっついた田舎に入るべきだし、季節感があり且つ厳しい所を北海道の中で探したら富良野だったわけです。

北島三郎さんの付け人もやったことがあります。
なんでこんなに人気があるんだろうと思いました。
ショーは二部に別れていて、一部はヒットパレードで二部はリクエストコーナーになっていて、リクエストコーナーが人気があるんです。
吹雪の中を寒い体育館などに老若男女が座布団と毛布を持ってくるわけです。
渋谷で流しをやっていたので3000曲頭に入っているので、リクエストしてくれと言うとワーッとリクエストして来るんです。
そしてやり取りをする訳で、そのやり取りが学歴、出世した人など関係なしに会話をするんですが、その事に物凄く反省しました。
東京で書いていたTVドラマは、一体誰に向かって書いていたんだろうと思いました。
東京で書いていたTVドラマは、プロデユーサーとか批評家とかに向けて書いてきたんじゃないかと思って来たんです。

大衆と云うものの意味を考えていなかったということに愕然としました。
富良野について直ぐ、周りは真っ暗闇で人には会わないし、自殺したくて睡眠薬のんで表のジープに入って寝てしまえば死ねると思いました。
毎晩グラスを持って出掛けるが、二重扉の外側の扉に手をかけると、寒さで手が吸いついてはっとするんです。
そうすると山口(犬)が異様な気配を察して裾を引っ張るんです。
それで思いとどまって戻るんですが、それを1週間やったんです。
札幌の精神科医に飛びこみました。
この症状は毎年これから出ますと言われてしまいました。
春になったら治って翌年もで無くて、何だろうと思ったらテストされているんだと思いました。
こんな森の中で一人で本気で住む気があるのか、それに値する精神力があるのか、と試されているような気がしました。

1981年に「北の国から」がスタートします。
最初、農村物は当たらないとTV局から反対されました。
21年間やりました。(2,3年のおきに)
富良野にいてバブルの時代は知らなかったです。
富良野塾を開設しました。
森と水の関係を考えようと思って自然塾をやりました。
貴方は文明に麻痺していませんか、車と足、石油と水、知識と知恵、批評と創造、どっちが大事ですか。
貴方は感動を忘れていませんか、貴方はなんのかんのいいながら我が世の春を謳歌していませんか、この事が塾でやりたかった事、言いたかったことですね。
2017年、「やらぎの郷」注目を集める。
昭和は非常に特殊な時代だったと思います。
少年時代に戦争中、戦後を体験した、占領派というか、戦争で何らかの被害を被っているわけです。

今はやる事がいっぱいあり過ぎて、一つのことに深く向かいあえないという事があると思います。
僕はシナリオを書き上げた後は、絵を描いていて一日中絵なんですね。
生活を複雑にする気持ちは無いです。
ウォンバットは四角いうんこをしていて、何故四角くなるかという研究をしている学者がいるそうで、馬鹿でしょう、でも馬鹿だけどいいでしょう。
そういうのはいい人生だと思います。
今は効率的すぎて面白い事がない。