2019年1月31日木曜日

野見山暁治(画家)            ・ぼくは絵描き(2)

野見山暁治(画家)            ・ぼくは絵描き(2)
1952年31歳でフランスに行きました。
待ちに待っていました。
それまでピカソ、ゴッホ、セザンヌ等本物を一切見ていませんでした。
印刷だけでは何もわからないです。
フランスに行ってなんとなくがっくりしました。
壁がすすけていて、筑豊のボタ山の風景になんとなく似ていました。
僕が行って10何年目かに壁の煤を全部払ったんです。
フランスには1年間行って来る予定で、絵の具を日本で買って行きましたが、1年でフランスを判るのは無理だと思って、2年間いようと思いました。
土地を見て回ることによって理解できるだろうと思いました。
1年経ってから絵を描き出しましたが、どの箱を開けても僕のいらない色でした。
絵具屋に行って新しく買うことになりました、色の感覚が変わってしまっていました。
パリの学生たちは僕よりもへたくそだなあと思いました。
フランス人の絵は展覧会で見ると、合わない色を無理にこじつけてなんとか合わせようと、苦労している跡が闘いとなってきちんと画面に出てくるので強いんです。
日本人は情感を漂わせながら、少し下がって行く。
日本人は要るもの、美しいものだけを描くので、抵抗がない。
西洋では抵抗感があるものもうまく構図などで押さえつけている。

ヨーロッパの巨匠達の絵は日本人では書けないような凄い絵を描いているが、いらないものも、いらない色も何もかも入れ込んで、それをびしっと抑え込んでいる。
だからいらないものが力になっている。
日本に帰って芸大で学生に教えていて、これは色が合わないよと言うが、もっと吟味したらどうだと言うと学生たちはあわてるが、フランス人たちは色々試みましたが、こういう色になりましたと言うんです。
日本人は感覚が優れているために、なんとなく弱いんだなと思いました。
一般の人の色彩感覚、造形感覚からいったら、ずーっと日本人の方がずーっとうえです。
だけど無理に抑えつけた見事なのがスーッと上がって行くわけです。
なんとしても自分もこういう力を手に入れたいと思いました。

エッセイーの一部(省略している)
「パリに着いて友達と店のドアを開けようとした時に、黒い旧式の自動車が泊った。
黒い服装の男が店に入っていく。
ピカソは筆の穂先を指先で確かめ次々に持ってこさせる。
目の前にピカソがいた。
そのしぐさをガラスにへばりつくようにして見つめた。
僕はドアを開けて中に入って行った。
外を見つめるピカソの目線の先を見て吃驚した。
店のショ-ウインドーのガラスで押しつぶされた顔がこっちを見ている。
平べったい東洋人の眼、口が一緒くたになるのはまだしも、鼻までもぺちゃんこに貼り着いて、これが僕の友人か。」

藤田嗣治さんに友人たちと飲み代を貰いに行こうじゃないかという事でいったら、「俺も若いころは素っ裸になってよく踊ったもんだよ」と言って飲み代をくれました。
向こうで画商もついてようやく食えるなと思ったんですが、次の個店の時に僕の画風が変わってきて画商と話がうまくいかなくて、色々あってこれではパリで食えなくなるのではないかと思いました。
絵が変わったのは東洋画に惹かれたんです。
西洋人の構築性とまるっきり違うぼうようしたもので、画面がある力を持っているのは不思議だなあと思って絵が変わってきていた。
東洋人は東洋に行ってみればなおいいものになると思って、帰るよりしょうがないと思いました。

日本に帰ってきて、生きていけないような気持になりました。
自分の国だから言葉も自由だし、習性もなにもかも日本人だからと思っていた、所がなんとなく自分が逸脱していることに気が付かなかった。
故郷に帰ってきたつもりが、なじめない自分がいて、つまずくと絵が描けなくなった。
この時は怖かったです。
住んでいるという実感がなかった。
日本には日本の良さがあり、ヨーロッパにはヨーロッパの良さがあるので、どっちと言う訳ではなくて、両方とも保ちたいと思っています。
日本人は何と言っても飲み見込みが早い。
みんなが絵に対して誤解している点は、絵というものはものの表面の現象面だけを捉えてそれをそのまま写してそれを絵だと思っているから、だから人はこれがまんじゅうならまんじゅうがおいしそうに描けているからいい絵だなと思うが、絵描きはまんじゅうをおいしそうに描こうとは僕は思っていない。
見た眼の現象だけを追いかけていると、弱いものになってしまうので、もっと突き詰めて見て行かないといけない。
絵が判るとか判らないというのではなく、絵というものは好き嫌いで見ればいいんです。
描きたいときは何かに触発されているので、触発のされ具合、自分で絵を描いていて何で描いているのかは判らない。