2019年1月18日金曜日

後藤暢子(音楽史研究者)         ・【わが心の人】山田耕筰

後藤暢子(音楽史研究者)         ・【わが心の人】山田耕筰
山田耕筰は明治19年生まれ、早くから音楽の才能を発揮し、日本の音楽の父ともいわれ多くの作品を残しました。
又N響の前身である日本初の交響楽団を作った事でも知られています。
昭和40年12月亡くなられました。(79歳)

1975年から10年とちょっと遠山音楽財団付属図書館という処に務めましたが、隅っこにダンボールの箱が20箱積まれていて、何かと思ってみたいなあと思って、開けてみたら手書きの楽譜がかなりの量ありました。
山田耕筰が書いた直筆の原稿を探りたいと、朝、図書館が始まる前にみていました。
楽譜の書き方が判ってきました。
必ず鉛筆で書くことと、五線紙を凄く贅沢に使うと言う事で興味を持ちました。
文房堂 で購入さている事が判り紙の分類をしました。
倉田印刷がとなりにあり、楽譜を刷っていた機械を見せてもらいました。
五線紙の紙を切断する部分、五線紙のインクのの違いなど、五線紙に凄く執着しました。
いつ書いたか年代が入っているものと入っていないものとがあり、入っていないものには、五線紙の研究から2,3年のばらつき以内で判明しました。
その後作品研究の段階に来ました。
作品のおよその製作年代の見当が付いてきましたので、こういう歌を書いていた時期がある、こういうふうな様式スタイルの歌を書くようになった、というふうにクリエーティブな側面が、どういうふうに展開していったのかが判って来ました。

一番大事なのは山田耕筰は何処から書き始めて最期まで書きあげたかという、手順ですね。
鉛筆は最初とがっているが段々丸くなって行って、どういうふうに書いていったのがが判るわけです。
山田耕筰は旋律だけ先に書いて、その後にピアノ伴奏を付けて行くと言う手法でした。
山田耕筰は詩歌がとっても好きな人でした。
詩人本人と作曲家本人がお付き合いしている。
湧いてきたメロディーを詩集の余白に自分で五線引いて書くわけです。
メロディーが出来た時がその作品の作曲日と考えていたようです。
消しゴムで消して書きなおすという事は無かったようです。
山田耕筰はドイツに4年ぐらい留学して、好きなところがはっきりしていて、そのうちの一つが東ドイツのバルチック海でした。(人口500人の海辺)
ベルリンの下宿先の一家の方と一緒に行っていたようです。

リヒャルト・シュトラウスのサロメを見て物凄く感動して、自分も日本語でこういうのを書くんだと言って、日本のオペラを作ってみせるぞ、と言う思いは死ぬまで持っていたと思います。
完成できないで亡くなった作品があって、それを山田耕筰の17回忌に團伊玖磨が自分でオーケストレーションして初演しました。
團伊玖磨さんと知り合いになって山田耕筰の話を色々聞くことができました。
山田耕筰は教えることが嫌いなんです、だから弟子達にはあんまり教えないんです。
自分で勉強しなさいと言う感じでした。
1926年に日本交響楽団のオーケストラを作りましが、弟子たちはみんなオーケストラのメンバーでもあったので色々面白い話があります。

私は山田耕筰には会えなかったが、自分のイメージを膨らませたという良さもありました。
一言で言うといい人だったと思います、女性関係が激しかったとか、お金に多少ルーズだった、戦争責任の問題、口論すると直ぐに手が出てしまう、でもそれで山田耕筰は乱暴な人とは言えないし、基本的に研究者の立場から言えば、時代を観る目が非常にシャープだったと思います。
どんな音楽が求められているのか、同時に自分はどういう音楽がかきたいのか、その二つが常に彼の心の中にあって、戦争協力で軍歌を50何曲書いているんですね。
戦時中はそういうものが必要だったから、兵隊さんたちを励ましたいから軍歌を書くんですね。
時代の進展とともに自分を開いてゆくという事が非常に見事だと思います。
北原白秋とも一緒に作品を作りましたが、作品が気に入らないと北原白秋は相当な事を言ったようです。
あの二人は二人三客だったと思います、一緒に仕事をするのが楽しくってしょうがないという関係だと思います。