2018年8月26日日曜日

デヴィ・スカルノ(タレント)      ・【私の"がむしゃら"時代】運命は切り拓くもの~前編~

デヴィ・スカルノ(タレント)・【私の"がむしゃら"時代】運命は切り拓くもの~前編~
1940年(昭和15年)東京生まれ、旧名・根本 七保子。
大工の父と先妻の3人の子供に母、弟という家族で、戦中戦後の混乱の中、貧しい生活だったと言います。
終戦間際には福島県浪江に疎開、足の不自由な母と弟の助けとなって、戦後間もないころは闇市に買い出しに行くなど、幼いころから母と弟の為に自分が頑張らなければと思ってきたと言います。
少女時代は読書に夢中になり海外の名作のヒロインに憧れて、いつかは日本を離れ華やかな世界で暮らしたいと夢見るようになりました。
優秀な成績で中学を卒業しますが、家族を支えるために生命保険会社に就職、定時制高校に通います。
当時を振り返って人の3倍勉強し、人の3倍働き、3倍努力して、人の1/3の睡眠で人生を切り拓いてきたと言います。
そして1959年19歳の時、来日していたインドネシアのスカルノ大統領とホテルのお茶会で逢い、運命は大きく変わってゆきます。
母と弟をしあわせにしたい、日本を離れ世界で羽ばたきたいと願っていた少女がどの様に人生を切り開いてきたのか、伺いました。

78歳になります。
母は足を45度に曲げなければならないほどの身体障害者でした。
浪江というところに疎開していて、空襲警報がなると竹やぶに入るわけですが、母が足が悪いので一番最後になる訳で、周りから見つかるからはいってくるなといわれたが、何とか入りました。
警報解除後に母が村人たちに囲まれて、竹やぶが見つかり爆弾が落とされたら、何人の人が死ぬと思うと詰め寄られ、ある人が手をかけようとしたので、母をかばうために躍り出ました。
私の剣幕に驚いてその人たちは引き下がっていきました。
この時に母と弟を守るのは私しかいないんだと思いました。(4歳)
終戦後東京に帰って来ました。(5歳)
上野の地下道には浮浪者、浮浪児で一杯でした。
私の袖を引っ張ったので振り返ったら私より更に幼い子が「何かちょうだい」といって手を出したので、もし自分が不幸だと思ったら更に自分より不幸な人を思い浮かべればいいんだと心に決めました。

電車の中は満員だったが米兵が二人乗ってくると、その二人を中心に隙間ができ、一層苦しくなったが、米兵が私を抱き上げました。
しかし、あまり驚かず金髪など触ったりしていました。
そんな姿に母は得意げだったようです。
私の家は焼けていませんでした。
夜は満天の星で、いつかは日本から飛び立ちたいと思い浮かべていました。(5,6歳)
アメリカ兵がクリスマスになるとサンタクロースの格好をして袋にキャンディーとか入れて、街に出て配るんですが、可愛かったと思われたのか、キャンディーなどを一杯もらいました。
可愛い子は得をするのかと子供心に思ったことがありました。
買い出しのおばさん達と一緒に闇屋の買い出しを毎週行ったと思います。
摘発だというと窓から米を入れた袋をおばさんたちは涙を浮かべて投げ出していました。

小学校に入学するころ、私は可愛い特殊な子だという記憶が有ったが、プライドを滅茶滅茶にする事件がありました。
母が父のマントをほぐしてスカート、セーラー服を作ってくれました。
校門に入ったらピンクの洋服に頭に大きなピンクのリボンをしていた子がいて、先生がたが一斉にその子の処に駈け寄って行きました。
先生方は公平に見なければいけないのにエコひいきが有るんだと心に傷が付きました。
理不尽、公平ではないという意識が高まりました。
小さい時から絵が上手だと思っていて、画家になると決めていました。
そのために母が色々内職をして週に1回絵を習いに行っていました。
或る時絵の先生が男性の名前を使って絵を出展していることを知って、当時は女性のものは1/20程度にしかならなくて、画家になっても母と弟を幸せにすることはできないんだと思いました。
画家は諦めようと思いました。

母と一緒に演舞場に水谷八重子さんを見に行った時に美しさに魅せられて、女優さんになりたいと思うようになりました。
当時は本を沢山読んでいて、主人公、ヒロインと自分を重ね合わせたりして、いつか自分もそういう中に身を置いてみたいと強い憧れを持ちました。
当時ペンフレンドがはやって英語での文通をして英語が良くできるようになりました。(中学生)
母が同級の母親から借金をしている事を障子越しに聞いてしまって、何の躊躇も無く就職をすることに決めました。
当時大卒は1万円、高卒が8000円、中卒は4000円でした。
千代田生命の試験を受けて、その時に英語も出て、ソロバンもできたので、受かることができ、人事秘書課に配属されました。
夜は都立三田高の夜間部に行きました。
その頃人の3倍勉強し、人の3倍働き、3倍努力して、人の1/3の睡眠で人生をという思いを持ちました。

学校にいきながら東芸プロダクションでレッスンを受けたり、エキストラとして行ったりしていました。
父が亡くなったのをきっかけに、母と弟と生活をしたいと思いました。
或る時フィリピンの女性歌手と知り合い、誘われて夜の世界に導かれました。
ナイトクラブに出て歌を歌ったりもしました。
アメリカ人のボーイフレンドが出来て日本の随一の社交場に行き、そこは97~98%が外国人のお客さんでした。
フランク・シナトラ、ポール・アンカなども歌っていました。
高校を中退してそこで働くことになりました。
そこはテーブルチャージが1時間1000円でした。
一晩で8000円位の収入がありました。(それまでの月の全収入はアルバイトを含めても8000円程度)
18歳で小さなバーを買うことができたが、騙されて区画整理で数年後駄目になってしまいました。
お花、お茶、日舞などを勉強しました。
日舞の初舞台が5月にあり藤娘を踊らせてもらいました。
その1カ月後にスカルノ大統領とお会いすることになります。

アメリカ人の大富豪と、フィリピンで大事業していたアメリカ人がいて、二人から求婚されていました。
大統領からお招きを頂き、インドネシアに行くことにしました。
本当に国民に愛されている姿を間近に見ました。
2週間の滞在中、帰るころにプロポーズされました。
11月3日に簡素なイスラム教にのっとった結婚式をしました。(19歳)
その後数年で大統領は失脚、70年に亡くなります。