2018年8月12日日曜日

大古誠司(男子バレーボール 元全日本監督) ・特選【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言

大古誠司(男子バレーボール 元全日本監督) ・特選【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言 (2007年11月23日OA)

1972年ミュンヘンオリンピックで金メダルを取る。
72年から25周年、30周年、35周年(今年)ミュンヘンに行ってきました。
20数名で行ってきました。
準決勝がブルガリア戦
日本は予選リーグは5戦一つのセットも落とさず。
ベスト4に残ったのが優勝候補筆頭のソビエト、東ドイツ、ブルガリア、日本。
日本とブルガリアが戦うことになる。
日本が2セット連取される。(1時間半経過していた)
「今から2時間お前たちが戦っていれば絶対勝つ」と松平監督から言われる。
第三セットも4-7とリードされる。
15-9で第三セットを取る。
第四セットも15-9で取る。
第五セットも3-9とリードされる。

ボールが僕の処に良く回ってきました。
12-11と日本が逆転しました。
セッターの猫田さんに「俺のところに持って来い」と叫んでいました。
エースは劣勢場面、辛い時に踏ん張れるのがエースだとずーっと教育を受けていたので、
踏ん張らなければいけないと思っていました。
奇跡的な逆転だったと思います。
決勝は翌日東ドイツ戦でした。
試合前に監督が「昨日お前らは死んだんだから、もう死のうと思っても死ねないから、今日は行こう。」という話をしました。
第一セットを失うがその後三セットを取り、金メダルを獲得する。
試合を開始する前に金メダルはいけそうだという思いがあり、最初ちょっと気のゆるみが有ったのかもしれない、東ドイツには負けたことが無かったので。
4年前のメキシコオリンピックは銀メダルだった。
東京オリンピックから8年計画でやってきましたので、これを逃したらないだろうと思っていました。

私は9人制上がりで、攻撃的な部分は自信が有ったが、レシーブ、守備のいいチーム作りを目指していたのでかなり毎日絞られました。
2m近くの人間のウエイトを二の腕で立てるぐらいのバランスが無いとボール処理ができないということで、当時私だけが出来なかったので逆立ち9m歩きを監督から言われてやりました。
1週間で出来ないとオリンピックに連れていかないと言われていましたが、まさか逆立ち9m歩きが出来ない位でオリンピックに連れていかなということはないだろうとたかをくくっていました。
1週間経とうとしててもできなかった。
練習は4時間でくたくたでしたが、その後に逆立ちをする訳です。
今日の夜12時までが期限だと言われて、段々松平さんの目が厳しくなってゆく。
1時間半が過ぎいつの時点からか力がスーっと抜けて行き、9m歩くことができた。
11人の選手が駆け寄ってきて良かったよかったと言ってくれて、訓練のなかで涙が出たのは初めてでした。
凄く友情を感じました。

神奈川県川崎市生まれ、5人兄弟の末っ子。
父を幼いころに亡くす。
小学校3年から朝学校に行く前に野球をやって、6年生までやっていました。
何故かキャッチャーが好きで将来ジャイアンツに入れたらいいなあと思いました。
中学では野球部が無くて2年生からバレーを始めました。
その前はブラスバンドのクラリネットをやっていました。
東芝学園から日本鋼管に入りました。
6人制は日本鋼管で始めました。
父も兄も日本鋼管でした。
昭和42年第一回に日本リーグでスパイク賞2位、敢闘賞、ベスト6にもなった。(19歳)
翌年松平監督の要請で全日本に入る。
同期の森田淳悟、横田忠義とともに全日本ビッグスリーとも称された。
6年間日本鋼管に在籍して、4回優勝、MVP2回、スパイク賞3回、6回ともベスト6に選ばれる。

メキシコ、ミュンヘン、モントリオールのオリンピックに出ましたが、毎試合試合前に痛み止めの注射をして膝、肩などの痛みをこらえてやっていて、満足に戦えたということはないです。
気力でやっていました。
昭和48年サントリーへ移籍をする。(25歳)
兄から「お前の学歴だと将来は工場に回されて3交替されるぞ」と言われました。
バレーボールを通して自分を見つめてくれるような会社があると嬉しいと思っていましたが、佐治敬三社長から話を頂き、「日本一のバレーボールのチームを作って欲しい、バレーボールの王古が欲しい」と言われました。
意気に燃えて入ることにしました。
チームが出来てから2年でトップリーグ入りを果たす。
現在のサントリーバレーの基礎ができたと思います。
1991~1995年に全日本の監督を務める。
その後オリンピックに参加出来なかったが、92年バルセロナオリンピックで6位になる。
初戦に3連覇を狙っていたアメリカと戦うことになる。

アメリカの選手が1セットで2回イエローカードがでた。
本来2回目はレッドにならないといけないが、イエローカードだった。
レッドになれば1点が加算され勝つことになり、試合は終わっているはずだった。
相手監督、審判団、国際バレーボール連盟の人達などに抗議して、私達の主張が通って2日間がかりの勝利を挙げた。
当時のメンバーがVプレミアリーグの監督かコーチになっています。
そのうちの3人を一度渾身の力で殴ったことがあります。
負けた時は物凄く悔しいので次に勝ってみせるということに持ち込まなくてはいけないので練習をする、そうすると勝つんです。
自分たちから向上心が生まれてくる。
ナショナルチームの監督になった時もあるが、選手はそれぞれの監督に指導されてきているが、やはり私自身尊敬されるような立場の監督でなくてはいけないと思います。
12人トータルでチームは出来るので、みんなを引っ張ってくれるので僕のチーム作りには上田は欠かせなかった。
松平さんと僕の気持名前は彼の頭の中にははいっていると思います。
彼のやっている練習は厳しいです。
男子はバレーボール離れになってきているのでオリンピックで活躍している姿を彼等になんとかやって欲しいと思います。。