2018年8月17日金曜日

鎌田七男(医師)            ・"被爆の継承" その意味を問う

鎌田七男(医師)            ・"被爆の継承" その意味を問う
81歳、50年以上に渡り広島の原爆で被爆した人たちの染色体を調べ、放射線がもたらした影響を第一線で研究してきました。
被爆者を長年診察し、その人生を見守り続ける中で、原爆による放射線が身体だけでなく、精神的にも被爆者を苦しめてきた実情を目の当たりにしてきました。
鎌田さんは原爆の恐ろしさを自らの体験を通して語ることのできる被爆者が少なくなる中、原爆の放射線の影響を正しく理解し、その非人道性を訴え続けることが必要だと話しています。
原爆による放射線の恐ろしさとは何なのか、どのようにすれば被爆の実態を伝えられるのか、被爆者を見つめ続けてきた鎌田さんに伺いました。

原子爆弾は普通の爆弾と違う爆弾で放射線を含む爆弾であることを強調したいです。
遺伝子が傷つけられて、5年たって身体が不自由に、弱くなって十分に働くことができなくなる。
いつ癌になるかしれないと言う不安がある。
生涯に渡って虐待が続いている、そういう人生になっている。
染色体を調べるとどのぐらいの傷が付いているのかが判る。
被爆した線量、どの程度被爆したのかが判ります。
身体には細胞が60兆個あるが、細胞の中に染色体があるが、遺伝子というものは染色体という器の中に入っていて、放射線が当たることによって、切られます。
近くにある切られた染色体同士が元に戻ると言うのが98%ありますが、2%が他の染色体とひっついてしまう。

遺伝子の傷も中に入っていて後々色んな災いを作って行く。
100個の細胞を調べて60固の半分以上の細胞に染色体異常が有ったと言う人がいます。
その方々から色んながんが出来て来る。
病気になる素地を作っている。
白血病が被爆から7年、甲状腺が10年、肺がんが15年、胃がん、結腸癌とかが20年、30年でだんだん増えて来る。
皮膚がんも4年、50年たっても増えてきている。
そういった病気になる予測は不可能です。
被爆者はいつ何の病気になるのか判らないという不安を持ちながら生活をしている訳です。
被爆者の心を痛めている。

原爆が落ちて7年までは日本人でさえ広島、長崎に原爆が落ちたことを知らなかったんです。
プレスコードということで一切原爆に関する書物、材料を公表したらいけないということがあって世に知らせなかった。
昭和29年、第五福竜丸の被爆をきっかけにして、広島、長崎の研究が始まりました。
昭和30年私は鹿児島から広島に来ましたが、被爆という概念、知識が何もなかったです。
当時、帽子を深々とかぶったり、夏でも長袖を着ている人がいて、ケロイドを隠しているんだなということはありましたが。自分から被爆者ということは言っていませんでした、隠したがるんです。
被爆者だと企業に雇ってもらえないというようなことがありました。
大学の友人も被爆者で、みんなと一緒には風呂には入りませんでした。
亡くなる前に実は被爆者であるという書類を書いてくれないかと私に言ってきましたが。
学生時代はかけ離れた問題でしたが、昭和37年に広島大学が被爆内科という外来を作って、被爆の病棟を作って、その頃から被爆者を診察するんだと切り替わりました。

その後55年以上に渡り関わることになりました。
胃液の検査から始まり外来の診察、入院患者の診察、夜には研究と言う様にめまぐるしい毎日でした。
教授は2つのテーマを準備していて染色体を鎌田が研究しろ言うことになりました。
遠くで被爆した人は染色体異常が少なく、近くで被爆した人は沢山の異常がありそこに驚きました。(それまでは判らなかった。)
半径500m以内で被爆した方で奇跡的に生き残った78人の方を調査するプロジェクトが昭和47年に広島大学の研究所で始まりました。
その人達の健康管理をするように言われました。
どの程度染色体異常があり、どの程度の影響を受けているのか、どういう病気が潜んでいるのか、どういう病気が表になってきているのか調べて行ったわけです。
昭和50年になって初めて被爆者に骨髄性染色体異常があるという事を話したという経緯があります。
データがでたが社会に発表するまでに5年のギャップがありました。
言っていいかためらっていました、子供への影響があると受け取り易かった。
研究すればするほど被爆者にマイナスになるようなデータしか出てこない。

被爆者は「ピカドン」という、ピカッと光ってドンという音がするが、500m以内で被爆された方はどなたも「ピカドン」を感じなかったとおっしゃいます。
異句同音に目の前が真っ暗になり気をうしなって、目が覚めた時には目の前が真っ暗で薄明かりが段々見えてきたという証言をされています。
外に出ると火が回ってきて竜巻みたいに炎が舞うわけです。
防火用水には傷ついた人がその中に入って何人もいる訳です。
助かったその人たちは奇跡としか言いようがありません。
その時の事を理解してくれる人が居ないので言ってもしょうがないと思われる方が多いんです。
首のない人、内臓が出ている人、目の玉が突き出て顔がただれている人、そういったことを言ってもなかなか信用してもらえない状況ですから喋りたくない。
喋りたくない期間がある。
或る方は65,6年目にして初めて語ってくださいました。
娘さんを見て合点がいきました、生きて行くためにはそういう外国の人と付き合いをしなければいけない状況が有ったということです。

家も親も兄弟も失って原爆孤児になるとかいっぱいありました。
一人一人によって色んな出来事がある訳です。
原爆孤児として住み込みに入り24歳で結婚して、流産をして離婚をして再婚した後に又流産して、家庭らしきものを持った後に病気が出て最初甲状腺、次が大腸がんで、髄膜腫などで、2年前に亡くなっていったという方がいました。
後半生は貧困と病気、病気の連続だった。
50%の細胞が染色体異常があり病気になり易い状況でした。
その方の人生は生涯に渡っての虐待が続いている、身体的、精神的、社会的に虐待が続いている人生になっていると考えていいと思います。
それを生じさせる放射線、原子爆弾は決してあってはならないと思います。

一旦放射線によって傷ついた染色体、遺伝子を治すすべは持ち合わせていません。
私の役目は明日への影響を明らかにして行くという事で、明らかにされたら嫌なことを私が探求して言っているということになるので、それはよかったねという受け止められ方はないわけです。
そういう意味では私自身は悲しい研究の連続であると思います。
つまびらかにしたら被曝者にとってネガティブな事ばかりですから。
逃げ出す訳にはいかない、やるしかない。
放射線の影響を一般の人に説明して行くこと、役立つこともあるが、放射線が暴走すると身体に悪影響をしてしまう。
その悪影響の最たるものが原爆です。
伝える人間が放射線の事をその影響を理解していないとうまく伝わらないので、少しでも役に立てれば嬉しいと思う。