2018年8月9日木曜日

鴻上尚史(作家・演出家)         ・奇跡の特攻兵から見えること

鴻上尚史(作家・演出家)         ・奇跡の特攻兵から見えること
昭和33年愛媛県出身、早稲田大学在学中の昭和56年劇団「第三舞台」を結成し、以来演出家としてキャリアーを積んできました。
又エッセーや演劇関係の著書も多くTVやラジオの司会者としても活躍しています。
NHKの番組ではクールジャパンの進行役でおなじみです。
去年「不死身の特攻兵」というノンフィクションを出版されました。
作品には9回出撃し9回生還した特攻兵が描かれています。

「ローリングソング」8月11日から初日を迎えるのでてんやわんやです。
(作・演出:鴻上尚史 出演:中⼭優⾺ 松岡充 中村雅俊 /森⽥涼花 久野綾希子)
中山優馬、松岡充、中村雅俊がトリプル主演を務め、二十代のミュージシャン、四十代のビジネスマン、六十代の結婚詐欺師という夢に翻弄される三世代の男たちの物語が描かれる。
昨年「青空に飛ぶ」「不死身の特攻兵」2冊を出版 特攻兵をテーマにした話。
TVでアニメなどの戦争ものが多かった。
子供心に何故そんなことが起こったんだろうと、心の中に引っ掛かっていました。
本では8回出撃して8回帰って来たと紹介されていたが、僕は最終的には9回出撃し9回生還した特攻兵がいらしっていてそれが佐々木友次さんでした。
本で2009年に知りました。
特攻から帰って来た人間だけを博多に作った寮で軟禁して外出させないようにして特攻から帰ってきたことを隠そうとした。(陸軍の正式な記録には残っていない。)

2015年にあるプロデュ―サーと親しくなってそのことを話したら、佐々木さんは生きていますと言う事だった。(札幌の病院に入院中 92歳)
早速会おうと言うことになりました。
行ってみたら転院していて、看護師からは一切情報をもらえなかった。
息子さんの名前が判っていたのでインターネットで調べたら、ある会社の役職をしていることが判りました。
手紙を書いて連絡が取れました。
しかし父は喋りたくないということで、顔だけでもいいからということで会いに来ました。
糖尿病の為目が不自由でけがをして入院したとの事だった。
亡くなる3カ月前に会えてその後1カ月で5回お会いすることができました。

佐々木さんは小さいころから飛行機が好きだったそうです。
陸軍に入って21歳のとき陸軍最初の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」に選ばれる。
万朶(ばんだ)=多くの花の咲くの枝
海軍は「神風」
後期の特攻隊員は未熟なパイロットが選ばれたが、初期の特攻はベテランから選ばれました。
爆撃ではなく体当たりしろということで凄く怒ったそうです、プライドがある人々の存在そのものの否定だった。
隊長が我々の役目は敵の戦艦を沈めることであって、我々は体当たりして死ぬことではないんだと、だから何回も行っていいんだと言う話だった。
爆弾を整備兵が落とせるように工夫してくれて、1回目出撃して爆弾を落として小型の船を傷つけた。
米軍機が大挙来るので撃ち落とされるか、早く引き上げるしかなかった。
佐々木さんは戦艦を沈めたと報告されてしまい、軍神になって新聞にも出るし、ラジオでも放送され、天皇にまで報告されて大変なことになります。

戻って来た時には上層部は大変困ってしまった。(天皇にうその報告をしてしまった。)
求めることは次の特攻で死ねば帳尻が合うと言うことになる。
「次は死んでこい」と言われる。
2回目は夜間出撃で難しくて一機事故で爆発して出撃が中止になる。
3回目は出撃の時に儀式の好きな上官がいて、上官などが話をしているうちにアメリカ軍の空襲がきて爆撃で友人の伍長が亡くなったりしてしまった。
4回目は絶対死んでこいと言われたが、「爆弾を落として船を沈めるのが私の仕事です」といったが、「爆弾を落として船を沈めた後、お前は体当たりして死ね」といわれた。
途中でアメリカの編隊が来て、こちらの護衛機は数機で隊長機はUターンしてしまった。
特攻は一機だけで佐々木さんを死なすのはおかしいということで守ってくれたというのが4回目だった。
5回目はいきなり遠くの方に敵軍がいることが判って、特攻機は評判の良くない速度の遅い飛行機だった。
機銃とかは一切ない丸裸の飛行機なので引き返した。
6回目は爆弾を投下して輸送船らしきものを沈め、帰ってきたが沈没させたことよりも帰ってきたことをなじられる。
敵の船を沈めたと発表されて2回目の軍神になる。(戦死と扱われる。)
盛大な葬式が地元では行われる。

最初の海軍の特攻で商船を改造した防御の弱い護衛空母を一機の250kg爆弾を抱えた特攻機がたまたま撃沈した。
それが護衛空母ではなく「空母」を一機で撃沈出来たと誤解を起こしてしまう。
飛行機が突っ込んでいくということは爆弾を落とす速度よりも半分だし、アルミの機体なので特攻に反対した軍人が言っていたのは、「コンクリートに生卵をぶつける様なものだ」と言っていたそうです。
ベテランパイロット達は効果が無いことを主張していた。
特攻が続いたのはキャンペーンとしか思えない。
純真な若者たちが命を犠牲にして体当たりをしている、戦争に対して気合いが足りないのじゃないかと、内部向けのキャンペーンになっていたとしか思えない。
最初は特攻も多少効果が有ったがアメリカは直ぐに対応し、効果が激減した。

7回目離陸に失敗、8回目はたった一機で出撃、ここでたとえ戦艦を撃沈しても戦果確認機さえいないということだった。
9回目は機体不調で戻ってくる。
その後出撃命令が出るがマラリアにかかって戦況が悪くなりアメリカ軍が侵攻してきて山の方に逃げてゆく。
最後は山の中で終戦を迎える。
捕虜収容所を経て1946年1月に日本に帰って来る。
このまま帰ってもらったら困るので、山の中にいるころに殺そうかというようなこともあったようです。
佐々木さんは「寿命が有ったんだ」といっているが、岩本大尉に「死ぬな」と言われたこともあるし、父親が日露戦争で厳しい状況があり「人間簡単に死ぬもんではない」といっていたが、私が思ったのは佐々木さんは本当に空を飛ぶことが好きで、戦場に向かう時には「怖いと思ったことが無くてどきどきわくわくしていた」言っていて本当に飛行機に乗るのが好きだったんだと思いました。

日本に戻ってきても辛い目にあった。
この本が出てから、いとこの方から1年前から自分の経験したことを本に出したかったという事を佐々木さんが言っていたという事を手紙でもらいました。
タイミングとして奇跡的だったと思います。
生還した特攻の人たちがものを言いにくい状況がずーっと有ったと思います。
死ぬことを前提の命令が何故生まれたのかを検証しないといけないと思います。
命令する側命令される側、最近のスポーツ界の不祥事と構造が同じだと思います。