2018年8月10日金曜日

笹本妙子(放送ライター)         ・平和への橋わたし

笹本妙子(放送ライター)         ・平和への橋わたし
21年前笹本さんは自宅近くにあるイギリス連邦墓地での戦没捕虜追悼礼拝の記事を目にします。
笹本さんはそこが日本で亡くなった戦争捕虜たちの墓地であることを知りませんでした。
墓地に眠るのは1942年から45年までに日本国内で死亡したイギリス、カナダ、オーストラリアなどの捕虜1720人です。
こんなに多くの人たちが何故ここに葬られているのか笹本さんはそのいきさつを調べ始めます。
16年前笹本さんは捕虜問題に関心を持つ人達に呼びかけて捕虜収容所の実態を調べます。
南方から日本に辿りついた捕虜はおよそ3万6000人、全国130か所の収容所に入れられ、鉱山、工場、造船所などで働かされます。
そしておよそ3500人が栄養失調や病気で死亡したとされています。
笹本さん達は調査とともに元捕虜やその家族との交流活動を積み重ね、消しがたい憎しみを解消することにも努めて来ました。
平和への橋渡し、笹本さんに伺いました。

POW(prisoner(s) of war 戦争捕虜)研究会という会を作って、英語でもホームページをだしていまして、頻繁に問い合わせがあります。
捕虜の御家族がたずねてみたいとか、しょっちゅうあります。
情報を提供してその人が何処に収容されていたのかと判ると、一緒に同行して収容跡地にご案内したりしています。
すべてボランティアでやっています。
英連邦戦死者墓地と言いますが、この墓地の存在を知ったのは40年前になります。
或る日、墓地に踏み込んでみたら無数の墓碑がならんでいてほとんどの人が1942年から45年に亡くなった人達でした。
なんでこの人達が戦死者として埋葬されているのか不思議でした。
図書館に行って調べに行ったが判りませんでした。
1997年にたまたま新聞での戦没捕虜追悼礼拝が行われたという記事を見ました。
埋葬されている人達は捕虜だったと書いてあり吃驚しました。

主催している方々が3人いました。
泰緬鉄道で通訳をやっていた長瀬隆さん、青山学院大学の雨宮先生、国際キリスト大学の斎藤先生が呼びかけ人になって戦後50年1995年から追悼礼拝を始めたということなんです。
雨宮先生のところに話を伺いに行ったら5時間に渡って話していただきました。
ビデオも見せていただき大変なショックを受けました。
日本が捕虜に対して想像を絶するような酷い事をして沢山の犠牲者が出て、元捕虜たちが日本に対して激しい憎悪を抱いているという事を初めて知りました。
イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダなどとはずーっと仲よくしてきたと私は思ってたんですが、激しく恨んでいる人たちがいることに物凄いショックを受けました。
日本軍は証拠を残さないという事で焼却されてしまったようでした。
捕虜の体験記の日本語訳などの本をたまたま見てすこしずつ判ってきて、本の訳者の人に連絡して教えていただいたりしました。
段々広がってきて、或る時田村良子さんに出会って、私よりも早く墓地とのかかわりを持っていました。
彼女は英語が堪能な人で願っても無いパートナーが出来き調査に取り組みました。

捕虜問題に関心をもっている人達が何人かいることが判り、POW研究会を立ち上げることにしました。(2002年)
日本国内に130か所捕虜収容所がありますが、発足した当時は20人ぐらいで数えるほどしか収容所のことは判りませんでした。
国会図書館にGHQ(占領軍)の資料が沢山所蔵されていることを福林さんが見つけました。
その中に130か所の収容所で亡くなった人の名簿が見つかりました。
どういう人がいつどういう原因で亡くなったかも書いてありました。
データベース化して会のホームページに英語にもして公表しました。
日本には3万6000人位連れてこられたということです。
死因は脚気、栄養失調、赤痢、マラリア、肺炎、工場での事故とか悲惨な状況でした。
味方の空襲や原爆でも亡くなっています。
墓碑を持たずに一つの棺の中に遺骨が多葬されている納骨堂があります。
九州の門司で亡くなった人達でした。
捕虜の輸送船が入港する門司港からの人達でした。
食事もろくに与えられず、トイレもバケツが与えられるような過酷な状況で、たどり着くかどうかで亡くなった人もいて一緒に火葬して一緒に埋葬したために識別できなくなってしまった。

1942年リスボン丸 イギリス人捕虜1800人を乗せて日本に向かう途中、上海沖でアメリカの潜水艦に攻撃されて沈没して半分が亡くなる。
捕虜は船底から脱出するが、仲間を蹴落として生き残ったと言う人がいて、彼が戦後大きなトラウマになって罪悪感、捉われている時の恐怖の時間などに苦しむわけです。
広島につれていかれて焼跡の片付け作業に駆り出されて、素手で黒こげの遺体を掴んで作業したと言っていました。
広島に行ったことを話したら医者から「あなたはきっと子供は生まれないだろう」と言われて、実際彼には子供に恵まれなかったと言っています。
彼が日本に来た時には断片的だったのでイギリスに行って詳しく聞きに行きました。
私たちが頼りにする資料は外国の資料からしか求めようがないです。
捕虜の体験記、来日した人達からの証言、外国に行って得た証言などから調査してきました。
元捕虜の人たちは日本に対して激しい憎しみ、怒りを持っています。

元捕虜の人も平均年齢が95歳になっているので日本に来られる方は少なくなって子供、孫世代が来ます。
収容跡地、墓碑などに案内して彼等の話を聞いたりします。
新潟県に直江津捕虜収容所があり、オーストアラリア人が300人位収容されていて60人が亡くなっている。
戦犯裁判で直江津捕虜収容所から8人の日本人が絞首刑になっている。
直江津の人にとってはタブー視されていたが、元捕虜の人から地元の高校に手紙があり、直江津ではお世話になりましたと言うことで、手紙がもとで収容所のことに地元の人が調べ始めて、双方にも犠牲者を出した歴史を放っておいてはいけないという事、運動が盛り上がって、収容所跡地に平和公園を作り、モニュメントを作り、捕虜の慰霊碑、日本の絞首刑の人達の慰霊碑の両方を作ったんです。
オーストラリアとの交流が展開されてきたが、日本人の慰霊碑に関してはだれも近づく人がいない。
日本人の慰霊碑を建てることはオーストラリアからは凄い反対が有ったそうですが、日本側が押し切って建てたそうですが、捕虜側から認められなかった。

外務省がアメリカとオーストラリアの元捕虜を日本に招へいするプロジェクトをやっていて、ヒルさんが再び来て日本人の碑にも自ら献花したそうです。
周りは吃驚したそうです。
ヒルさんに何故献花したのかを問い合わせると、「彼らも彼等の家族遺族も悲しい思いをしただろう」と言ったそうです。
そう思う様になるまでには長い年月がかかっているんだろうと思います。
憎しみをいかに解きほぐしていくかということはなかなか難しいことだと思います。
泰緬鉄道で通訳をやっていた長瀬隆さん、通訳として或る拷問に立ち会った。
そのなかにいたローマックスという人が戦後もずーっと恨み続けた。
通訳の声を通して拷問された。
長瀬さんはタイに行って贖罪の活動をやってきた人だったが、或る時ローマックスさんはそのことを新聞で知ったが、妻が私の夫はあなたを許してはいませんと手紙を送ってきた。
長瀬さんはショックを受けるが、ロ-マックスさんに手紙を送り続けるが許すという言葉は出てこなかった。

或る時ロ-マックスさんが日本にやって来た時に、旅を共にしても思いは変わらなかった。
最後の夜に自分の部屋に呼んで初めて赦すというふうに言ったそうです。
長瀬さんは理不尽であると思ったが、日本軍の一員であると思って責任を果たさなくてはいけないと思った。
お互いに生生しい傷があるからお互いに赦しに至らない、和解がいかに難しいことかと思いました。
戦争中のことは時間が経って赦すことは出来るけれども忘れることはできない。
戦争は無残なものむごいものだと皆さんおっしゃいます。
戦争で何があったか掘り起こして記録して次の世代に伝えて行くことが、私たちの役割、責任ではないかと思っています。
戦争は絶対に起こしてはいけないことだと思います。