2016年4月9日土曜日

岸野亮哉(僧侶)        ・”いのちのあかし”を伝えたい

岸野亮哉(僧侶)        ・”いのちのあかし”を伝えたい
41歳 京都にある寺の副住職で東日本大震災の発生直後から被災地に入り、支援活動を行ってきました。
今も月に一度は被災地を訪ねています。
避難生活を続ける人々が心にためている想いを聞き取っては記録してこれを広く伝える活動にとり組んでいます。
大学で仏教を学んだあと、写真家としても活動しました。
海外で起きた災害の被災地や内戦で混乱する紛争地域にも出かけ現地の様子を記録してきました。
困難な中で生きている人々の想いを多くの人に伝えたい、東日本大震災の被災地に通い5年の歳月で見えてきたものを伺います。

夕がたごろ会議が終わって、東京の映像で、煙が上がっている映像があると言う事でTVを見たのが地震を知った瞬間でした。
東北地方を中心に沢山の方が困っておられて未曾有の災害であることを知った時に、温かい食事をしてTVを見ている状態ではないと思いました。
副住職なので予定がなかったので、取り合えず現地に入って何をするべきか、向かおうと思いました。
友達と一緒に車に乗って東北の方に向かいました。
翌日の昼過ぎには福島の100km手前の高速道路に入口あたりまでは着きました。
車の中のTVで爆発の映像を見たので、今後どうなるか判らないので、引き上げてきて13日には京都に一旦戻ってきました。
阪神淡路大震災の時に現地に何度か入ったこともあるし、2004年12月にインド洋津波の時にセイロン島に2005年2月に入ったこともあるので、現地に入って何をするべきか、考えた経験があるのでそれで入ったと言う事が大きいです。

阪神淡路大震災の時は京都から神戸は車で行けるので1995年2月、ワンボックスカーに物資を積んで運びましたが、その時の光景は忘れないです。
ボランティアでとある中学校に紙芝居をしに行きましたが、今回の東日本大震災が起こる前後に箱の中から一通の手紙が出ていて、「紙芝居は面白かった、次の日曜日も来てくれるのか?来てくれたら一緒に写真を撮ろう、返事待っている」と言う事が書いてあった。
あの子だと思ったが返事を書いたかなあと思ったが、自分で出した記憶がなかった。
結局どこに住んでいるのか判らず、申し訳ないと言う思いと同時に、岩手に行く大きな力になっている事には間違いがないと思います。
その時の反省をし、今回はそういったことがないようにしようと言う事を、もし本人にあったら伝えたいと思います。
仮に相手が手紙を書いた事を忘れていたとしても、わたし自身許されることではないと思っています。
人間不信になったのではないかという原因を作ったのかもしれないし、そういった罪の深いことをしたということの反省は本当にあります。
彼女から頂いた手紙を手帳に挟んで何時も現地に行くときには持って行っています。

地震発生から8日後3月19日に避難所になっている陸前高田の寺に行く事が出来た。
40人ほどが避難していて、持ってきた支援物資を渡しました。
停電していて、真っ暗で道も所々で通行止めになっていてよく到着できたと思います。
ガソリンを少し持ってきたことを伝えると歓声が上がり、これは凄いことになっていると思いました。
友達に募金を募って3月は何回も往復しました。
間もなく60回になると思います。
友人から「岸野さんあなたしかできないことがあるだろう」と言われて、地元の和尚さんも安置所のお勤めをしたいけれども出来る状況ではない、忸怩たる思いがあるに違いないと思って、安置所のお参りをさせてもらいました。
最初は頼まれたわけでもないので、他の地域のお坊さんが安置所に行って手を合わせることがどうかなと思うこともありました。
一番衝撃を受けたのが、身元不明の遺体が沢山あって、数え切れない。
聞くと305という事でした。
今回の震災で一体いくつの命が亡くなったんだろう、と思いました。
家族を探している人もいるんだなあと言う事を知った時に、ここにいらっしゃる方からすれば大切な方なんだなあと思いまして、手を合わせるときは、探しておられる方の分も手を合わさせてもらったと思います。

荼毘に付される前の身元不明の棺へお経をあげていた時に喪服を着た家族の一団を目にして、この出会いが被災した人たちの話を聞く活動の入り口になりました。
或る家族が、身元不明の御遺体と聞いているのに、なんで喪服なんだろうと思って、えっと思ったが、娘さんが花を持っていたが写真がないという事でした。
携帯の中に写真があることが判り、棺に携帯を置かれて、荼毘に付しました。
先方から話をしてくれて、棺に遺体番号が付いてましたが、一個人として名前がありどこに住んでいてどういう風な人柄だったのか家族の方から聞く事によって、偶然の出合いではあるが、一人亡くなった事はこういう事なんだと思って、亡くなられた方を記録する事は大切なんだろうなということは、家族とのやり取りの中で実感しました。
一の関の五輪寺を拠点に9月から東北の被災地を回っています。
5年間毎月の様に京都から通い1週間ほど被災地を回っています。
吉田さんは60歳で視力を失い、家と生活を流されました。
現在娘と一緒に住んでいます。
死にたくない人が無理やり死んで、私たちは生かされたというか、生きたんだからね。
先がどんなことが待っているか判らないから夢もあるわけです。
聞いていて将来への不安が見え隠れする。
仮設住宅、家の再建で、環境が大きく変わるので、又一から人間関係も作っていかなくてはいけない。

高校生の時からの彼女のことを聞いていて、自分達の悲しみ、苦しみを知ってほしいからしゃべるのではなく、岸野さんに話をすることによって、それを通して減災や防災の事を考えてほしい、なにか話を聞いている人にとって役に立ってほしい、役に立つ事が一つでもあれば私はしゃべりますと言ってくれました。
今回の災害は2万人の命が亡くなった一つの災害ではない、一人の失われた命が2万人いる。
その死を悲しんでいる人は更に沢山います、という事を彼女が高校3年生の時に話してくれました。
口に出すのもおぞましい、という方もいると思います。
こういう悲しい思いをするのは自分達だけでいいんだと、他の人にはだれにも味わってほしくないと言って下さる人もいます。

大学生の時に体験した阪神淡路大震災、海外の紛争地に出掛けた写真家としての体験。
様々な国や地域へ向かったのは悲しみや苦しみを抱える人々に宗教は何ができるのかを自らの体験で確かめて、将来僧侶として人生を歩む自分自身を磨きたいと考えたからでした。
9・11テロ事件の時、この寺にいましたが、これは本当のことなのかとおもいました。
人々の幸せを願うはずの宗教が、違った宗教、異なる考え方を持つ人に対して排除、暴力をふるっていいのか、イスラム教の人とはそういった教えを持っているのかとの思いがあったが現地には行けなかった。
2003年3月イラク戦争、イスラム教の人達の生活、考え方、文化を知りたくて、2003年7月に3週間行ってきました。
画家のグループと知り合いになって、2週間一緒にいろいろなところに連れていってもらいました。
その中で決してイスラム教徒の人達は何も他者に対して排他的な人達ではない。
ウサーマ・ビン・ラーディン、サダムフセインはどうかと聞いたところ、真のイスラム教徒ではない、なぜなら人を殺したから、イスラム教徒は人を殺したらいけないとはっきり言っています。
キリスト教徒もバクダットにいますが喧嘩をする訳でもない。

岩手の仮設住宅で80代後半の人から話を聞いた時に、戦争中に陸前高田の機銃掃射があったと言っている。
釜石には製鉄所があり艦砲射撃があることは知っていたが、なんでだろうと思った。
郷土資料などを調査するとそういった記載があり、急に戦争が身近になった。
母方の祖父は昭和16年に戦地に赴き、生きて帰ってきた。
母が生まれ、もし祖父が戦死していれば私の命はない。
戦争体験の話を聞いて、自分だけ生き残って申し訳ないと言って、命があって、70年もたつのに未だに苦しんでいる。
この方々の話を聞いて、自分の人生にも繋げていかなければ行けないし、語り継いでいかないとその方々に申し訳ないと思いました。

小学校4年生で震災にあい、この春中学を卒業する大阪あゆみさん?から京都の小学生に向けたメッセージの収録
「私は震災を経験して命の大切さを感じることが出来ました。・・・
私は小学校4年生で被災に遭い、小学校1年生だった友達が家族全員亡くなってしまったと言う嫌なことがありましたが、それを通して命の大事さを感じたり、常日頃いっしょにいる友達が急に居なくなったら自分はどういう気持ちになるんだろうという事を深く考えることが出来ました。
みんなに大切にほしいのは、友達と、挨拶と、回りに自分の事を優しくしてくれる人、陰で自分を支えてくれる人を大切にしてほしいと思います。」

東北の被災地、戦争を体験した人達を回って記録した話が多くの人々の心の支えになることを願っています。
東北から変わると思っています、新しい思想、哲学、宗教等根本的な物の考え方価値観を変えてゆく様な人々になってゆくんじゃないかなと思います。