水谷八重子(女優) ・いつも輝いて(前編)
昭和30年に女優デビュー、その年レコードも発表し、歌手としてもデビューしました。
映画、舞台、TVと幅広く活躍しています。
平成7年に2代目水谷八重子を襲名しました。
去年芸能生活60周年を迎え忙しい日々を送っています。
正月は唯一のお休みですが、2日が初芝居の初日と決まっているので、前日も落ち着かない。
昭和30年に女優デビュー 芸能生活60周年 2代目水谷八重子を襲名してから20年。
襲名直後 良重と呼ばれるが判っていないと、ちょっとカチンと来た時もありますが、しばらく時がたつと「良重ちゃん」と呼ばれると、あの女優を覚えてくれていたんだと喜びに変わりました。
新派を次の世代に渡していかなければいけないと言う役目を背負ってしまいました。
新しいCDを2枚、本も出版しました。(そのうちの一枚は1978年のレコードのもの)
新しい一枚はスタンダードジャズを集めたもの。
1950年代の曲ばっかりを集めてみたものです。
解説は湯川れい子。
「先生のお気に入り」 ドリス・デイの声を聞いてこうなりたいと思った。
旗照夫さんと一緒に歌いました。 (曲が流れる)
1955年8月5日がレコードの発売日、歌舞伎座の新派公演初舞台が同じ8月5日でした。
親の七光りでと、ずーっと感じていたんですが、新派は新劇運動を母がやっていて、一番その時代の先端のものを取り入れていたティーンエージャーが私でした。
勝手にその役の衣装を選んで着たんだから、翌日違う衣装でいいのではないかと変えようとしたら、母から舞台のルールを勝手に変えてはいけないと厳しく怒られました。
小道具の扱いにしても厳しくしつけられました。(舞台は戦場だと教えたかったと思います)
初めての時代劇は長谷川一夫先生に預けられましたので、映画が最初でした。
時代ものの着物は初めてでした。
この角度が一番似合うだとかを映画では、いやでも学んで行きました。
女は女の線があるからいろんなものを巻きつけて平らにしてしまったら、女が女形のマネ事をしてどうする、女の曲線が着物の上からでも自然にみえるのが女優だと、長谷川先生から言われて、詰め物は一切しなくなりました。
LPレコードを「ATASI」というCDする。
新派の名作のヒロインを歌で綴ったもの。
越路吹雪さんから歌詩に私と書いてあっても「わたし」と歌うと色気がないので、「あたし」と発音しなさいと言われた翌日に母から私のセリフで「わたし」は硬いから「あたし」と言いなさいと言われたのが同時期だった。
そういう事で「ATASI」にしました。
女系図から「あなたがいれば」 (曲が流れる)
仕事の話は一切家に持ち帰らないので、家では母からは直接言われませんでした。
舞台の事を「お舞台」と母は言っていました。
国立劇場をお国の劇場と言っていましたが、歌舞伎しか出られないと言う事を知った時はしょげかえっていました。
母は「滝の白糸」で舞台に立つ事が出来た時は喜び輝いていました。
母は力んではいないのに良く通る声でした、ゾクっとくるようなセクシーな声でした。
声の質は母と似てると回りから言われます。