2017年12月5日火曜日

玉地任子(医師)             ・人生を全うさせる“希望の力”

玉地任子(医師)        ・人生を全うさせる“希望の力”
73歳、精神病院で勤務した経験から、末期がん患者の心のケアの必要性を感じホスピスで働き始めました。
やがて患者が自分の家で過ごす時間を大切にしたいと、平成6年当時は珍しかった在宅ホスピスをスタートさせます。
しかし、仕事に打ち込んでいた時に夫が末期がんと診断されます。
自身もがん患者の家族となり、妻そして医師として支え続け夫を看取った後、再び医師として患者の心のケアに取り組んでいます。

自分の夫を含めて、がん患者さん200人のがん患者さんを看取りました。
19年やってきたクリニックを閉じました。
前から夫がスキルス胃がんで肝臓に転移していたことが分かった時点で、もうそれは決めていたことです。
最後の患者が自分の夫になるわけですから、複雑な気持ちもありました。
実際夫が亡くなって、もやもやした感じがよどんでしまい、一人になった時に本当に自分の夢の終わりがこれでいいのかと思って、もう一度がん患者さんに関われたらいいなあと思うようになりました。
大事な夫を亡くした遺族として、前よりももっと深く患者さん、家族に共感できるのではないかと、そんな気持ちがだんだん強くなって横浜のクリニックに伺いました。
そこには治療法が他にない、再発して何かやりたい、そういうようながん患者さんが多くこられています。

医師が患者さん、家族と向き合って点滴を40分位してますが、その間に患者さん、家族の話をじっくり聞くようにしています。
治療の副作用、不安、死ぬのが怖いとか、痛みのことなど様々ですが、それを聞いて、助言できることは助言すると言う様な事をやっています。
主治医の先生とのコミュニケーションに悩んでいることのアドバイスなどをしています。
ここに来る前と帰る時では心に希望が持てるような気がしますと、患者さんからは言われます。
希望は生きる力だと思います。
医学は日進月歩なので希望持ちましょう、頑張りましょうと声かけをやっています。

栃木県宇都宮市生まれ、4歳の時に兄は小学校の一年生で、頭が痛いと言って帰って来て一日で亡くなってしまいました。
母が肩を震わせて泣いている姿を見てかわいそうで怖くて、強烈な印象として残りました。
野口英世の偉人伝を読んで、父に野口英世の生家に連れて行ってもらいました。
大学は名古屋市立大学医学部に進みました。
精神科の臨床実習に各科回りますが、患者さんの話を聞いて、言葉だけで患者さんの苦しみを解きほぐす精神科の教授の仕事に魅せられてすごいと思いました。
来た時と診察室を出る時では全然違って、言葉のマジシャンみたいに感じ、迷いなく精神科に進みました。
ある女性の患者さんが診察室に車いすで来られて、他の整形外科などに行っても原因が判らなかった。
話を聞いていて長い間お姑さんを看取った後で、歩けなくなったということだったが、色々な話を聞いて、帰る時にはその人は立てたんです、そういうことがありました。

夫と結婚して、北海道の精神病院に勤めました。
27歳の時に運命の本に出会いました。
「死ぬ瞬間」というタイトルでアメリカの精神科の女医、エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kubler-Ross)という方が、がんの末期患者さんにインタビューしてまとめた本です。
序文「絶望的な病人に接することにためらうのではなく、進んで彼らに近づき彼らの最後の幾時間かの間、より多く彼らを助けるようにさせられればと望むのみである」、これは私の進む道だと思いました。(昭和47年の時)
このころは日本ではほとんどがん患者さんには告知されていませんでしたが、向こうでは本当の病名を伝えて心のケアまでしていることに心を打たれました。
心のケアを出来るような精神科の医者になりたいと大きな夢を持ちましたが、そんな時代はなかなか来なかった。
昭和50年に神奈川に移って来ましたが、患者さんに本当の事を伝えて心のケアと言うような時代ではなかった。
昭和57年日本で初めて浜松三方が原病院にホスピスが出来て研修させてもらいました。
絶対必要だと思いました。
埼玉県上尾で宗教にとらわれないホスピスが出来て研修させたもらいました。
平成4年になってホスピス病棟が出来て、自分の夢のスタートとなりました。(ホスピス病棟長)

当時はまだホスピスと云う言葉が知られていなくて、スタッフもなかなか育てられない状況でした
厚木で理想的なホスピスを作ったらどうかとのオーナーからの誘いがあり、平成6年に「ホスピスヒューマンネットワーク夢クリニック」を開業します。(元厚生病院のオーナーだった人)
そこの市長と二人で立ち上げました。
開業して2カ月たたないうちにオーナーの資金繰りが失敗して、後は二人でやってねと言われてしまいました。
いろいろ見てきたが、在宅の患者さんの表情は全然違います。
患者さんでも家では食事、洗濯などをして凄いと思いました。
在宅ホスピスで頑張ろうと市長と話をしました。
当時は在宅ホスピスはなかなか理解してもらえなかった。(誤解偏見があった)
厳しい状況の中、夫に支えてもらえたから出来ました。

夫は元気で東京の病院に通っていましたが、平成23年5月、お寿司を食べていたら、喉になにかつかえる様で苦しいと言った4日後に、スキルス胃がんで肝臓に転移していると言われてしまいました。
必死に出来ることはしないといけないと思いました。(在宅治療)
夫は9月に亡くなるが7月まで仕事をしていました。
昼夜逆転があり、寝ようと思う頃夫が目が覚めて、いらいらしたり背中さすったり足を揉んだりして、私を寝させてくれませんでした。
穏やかだった人が凄い形相になったり、耐えられなくなり、亡くなる前の2カ月は凄く苦しみました。
悩みながら(もやもや感があり)も穏やかな別れをしました。
がんと分かった後も、主人は仕事をしている時には何ともないように患者に優しく元気に仕事をしていて、吃驚しました。

70代の大腸がんの女性、18歳まで北京で育つが、私が出会ったころは壁伝いに歩いているような人だったが、中国の事になると元気にしゃべり続けるのでもう一度中国を見せてあげようと思って家族と同伴して中国に行って、昔住んでいたあたりを車いすに乗せて見てきたがとっても喜んで、日本に戻って自分ではもうできないと中断していた中国文学の翻訳を3冊目をやり遂げて旅立っていかれました。
希望を持つ、楽しい事をすると言うことは患者さんにとってはすごく大切です。
余命3カ月と言われた40代の肺がんの男性、在宅が凄く気にいって、病院、看護学校での講師にして下さる処を探して、彼が在宅の素晴らしさを語ってくれて、生きがいになって3か月が2年以上生きられました。
追い込まれた患者さんでも心ときめいたり、楽しかったことなどあると思うので、小さな幸せ探しみたいなことも私の仕事だと思っています。
余命短いから何もできないと言うような人でも、まだやることがある、まだ楽しめることがあると言うと、なんか人って蝋燭の炎の様に、なえた心が膨らんでぱっと輝く時があるんです。
人間の命って凄いと感動させられ、わたしも勇気をもらいます。
がんの末期状態の人に関して、まだ楽しむことがある、まだ出来ることがあると言うことを知った時に、活力が出てくるのでもうダメと思わない、何か希望(小さな希望でいい)を探してほしい。