竹内静代(東京大空襲体験者) ・「私は東京大空襲を生き延びた」
竹内さんは75年前の昭和20年、13歳の時に空襲を受けました。
昭和19年第一東京私立高等女学校(現在の深川高校)の2年生だった竹内さんは毎日軍需工場で働いていました。
年が明けると空襲は一段と激しくなり2月下旬の空襲で家財と家屋を焼失、3月10日に東京大空襲に見舞われました。
この空襲でおよそ10万人が焼死したと言われています。
竹内さんは戦後中学校の教師になりました。
子どもや多くの人たちに空襲や戦争を伝えていたつもりだが、戦争の風化は止まらない、今こそ当時の出来事を正確に伝えることが大事と、講演会や若い世代との朗読会を通して戦争と空襲を伝えています。
戦争に負けて75年経ったというのは、本当に75年あったのかなあと言う思いがあります。
1945年の1年間はいつまでたっても忘れられない一年です。
色々なところで自分の体験を話すのですが、防空壕といってもイメージできない、それ以外にも言葉が通じなくなってきている。
大事なことを消してゆくような風潮があるような気がしてそれが怖さにもなります。
昭和18年11月から勤労学徒動員で藤倉電線という工場に勤めていて、11月の末頃から空襲が激しくなっていきました。
昭和19年元日から空襲があり着の身着のままで寝起きしていました。
2月25日は雪が降っていて、午後空襲がありあっという間に木造の家が焼けてしまいました。
防空壕から出てみると家が燃えているのが見えてバケツで消火活動しましたが、全く無理で逃げようという事になりました。
母が台所に仕掛けてあった釜を取りに行ったら、炎が入ってきて頭などを火傷しました。
母と火のトンネルをくぐって雪の原っぱまで逃げていきました。
非難している人が沢山いました。
飛行機の爆音とともに機銃掃射もあり凄く怖かったです。
何棟も何棟も家屋が大きな音と共に崩れ落ちて行く姿も目に入りました。
焼け出されて2月に14歳になり、3月9日午後10時30分ごろには13,4人は入れる共同防空壕にいました。
様子を見るという事で叔父さんが入り口を開けてみると、砂町銀座の方が真っ赤に燃えていました。
防空壕にいた人達は気が付いたらどこかに逃げたらしくて、私たち親子3人だけでした。
逃げて行く間もいろんななものが飛んできました。
荒川放水路にかかっている葛西橋まで行きました。
母はみんなが逃げて行く方向に逃げようと言いましたが、父は橋を渡って暗い方に逃げなければ駄目だという事で、強風の中揺れる橋を渡って逃げていきました。
これが助かった大きな原因でした。
一つの2mぐらいの収束焼夷弾に50cmほどの焼夷弾が38本が入っています。
高度800mぐらいのところで38本がばらけて落ちてきます。
2時間半の空襲でそれを36万発落としたと言われています。
3月11日父の実家の出雲に帰ろうという事になり、飲まず食わず眠らず、東京駅まで歩いて行きました。
焼け焦げた原っぱがずーっと続いていました。
防火用水に頭から突っ込んで焼け死んだ人、コンクリートの建物から上半身出して焼け死んだ人など目にしました。
歩いていると焼け死んだ人たちが一杯いて、焼けこんだ匂いが鼻を突きました。
やっと東京駅に着いた時には夕方でした。
最初は焼け死んだ人は熱かっただろうなあとか可哀そうとか思っていましたが、そのうちにただ目に映っているのを見ているだけ、何の感情もないそういう感じでした。
終戦は出雲で迎えました。
ラジオの放送は聞いたが、ガーがー言っていて何の話だか分からなかった。
戦争が負けたと言われたが、勝つまでは・・・といわれてずーっときたので、負けるという語彙が私の中には無いんです、理解できなかった。
祖母が大事にしていた叔父の弁当箱を、教室に出さざるを得なかったことがとっても残念でした。
終戦の直前、先生が戦争で鉄砲球などに使うから金属を持ってくるように言われ、何もなくてふっと思ったのがアルミのお弁当箱で、それは叔父の形見で祖母が大事にしていたものでした。
母はとんでもないという事でしたが、祖母に言って「持って行かないと非国民になってしまう」と言ったら、悲しそうな顔をしていたが出してくれました。
あくる日先生のところに持って行ったら、はいと言って受取ってくれたが、それから10日ぐらいして戦争は終わってしまいました。
弁当箱を金づちでぺしゃんこにしているときに祖母は涙を流していたが、どうしてあの時に「おばあちゃん ごめんね」と一言が言えなかったんだろうと思います。
今でも胸に突き刺さるような辛い思い出です。
今でも戦争を語り継ぐ会をやっています。
本を3冊作りました。
戦争の悲惨さをあちこちで「ひつじの会」3人で語っています。
75年続いてきた平和は絶対に手放してはいけないし、あんな思いを若い人には絶対させたくない。
明日に先生に教えてもらえる、明日に友達と会える、明日という事がとっても大事に思えたんです。
明日のことを何気なく考えるという事はなんて幸せなんだろう思います。
あの頃は明日が判らなかった、明日が死ぬか生きるかわからない毎日でしたから。