2020年3月11日水曜日

山田洋次(映画監督)           ・「震災を語る~映画監督 山田洋次」

山田洋次(映画監督)  ・「震災を語る~映画監督 山田洋次」
山田さんは現在88歳、最近では映画「男はつらいよ」の50作目を手掛け今も精力的に作品を生み出しています。
これまで日本が震災に見舞われるたびに被災地に心を寄せてきた山田さん、25年前の阪神淡路大震災が起きたときには兵庫県神戸市の被災地で「男はつらいよ」の撮影を行い、東日本大震災の後は岩手、宮城、福島に何度も足を運んで被災した人たちの声にも耳を傾けてきました。
震災と原発事故から9年、今東北の被災地をどう見ているのか、山田さんが考える復興とは何か、山田さんが見据える被災地の希望とは何か、伺いました。

TVで見た恐ろしい映像を見たときの衝撃は、日常生活の中に理解できない突然刃物でぶった切りに入ってきたような、そういう思いを日本中の人がみんなしたわけで、強烈な記憶は今でも生々しく残っています。
震災に出会った人にとっては昨日のことのような思いがしているのではないかなあ。
あの日は家にいて大きい地震だなあと体験したぐらいでした。
「東京家族」を4月にクランクインする予定でしたが、1年間延期しました。
数日してスタッフルームでこのまま撮影をしていいのかどうか、3月11日以降日本が大きく変わっていくのではないかと感じていました。
3月11日以前の脚本で撮り続けていいのか、違うのではないかと、この国が大きな変わり方をするとすれば、その時点でこそその映画を作らなければいけない、今この映画を作ることは一旦中止した方がいいのではないかと大決断をしました。
物語をもう一遍構築しなおそうと考えて、その映画を再開した訳です。

早い時期に海沿いの街を茫然と歩いてみたりしましたが、「陸前高田に黄色いハンカチが翻っていますよ」と、家を流されてしまった大工さんが若い時に見た映画を思い出して、これはくじけられるかという事で流された敷地の庭に柱を立てて黄色いハンカチを何枚も下げて、のっぺらぼうになってしまっているんで道行く人の目印になっているんですよと言う話を聞いて吃驚して、「黄色いハンカチ」の作者としては嬉しかったというか、感動したというか、見に行きたくなって見に行きました。
柱とか黄色の布地を寄せ集めでできていて、「幸せの黄色いハンカチ」のリメイクをやってた放送局に頼んでそこで使っていた本格的なものを譲ってもらって、その横に柱を立ててもらって黄色いハンカチを取り付けて、大工の菅野さんもとても喜んでくれました。
今でも菅野さんとは手紙のやり取りをしています。
当時見た被災地の光景はただ茫然と見ていました。
街が消えてしまって、亡くなった人も多くいて、何百年という歴史も一緒に消えてしまった訳で、隣近所とのコミュニティーも全部消えてしまったわけです。
回復するのには100年も200年もの歳月が必要になるんだろうなあと思います。
これから先大変なんだろうなあと思います。
人の横のつながりと縦の時間軸のつながりがあって初めて街が成り立つという事を詩人の田村隆一さんから聞いたことがあります。
一つの街として形成するのには少なくとも3代の年月が必要なんだと、いう事を聞いています。

人と人との間には時々どうしようもなくトラブルが起きることがある。
そのトラブルを何とか乗り越えようとする、乗り越えたときには新しい人間関係が生まれる。
それが家族であり地域でもあるのではないのか、そんな体験を追体験を観客は寅さんの映画の中でして思わず笑ったり涙ぐんだりする。
寅さんは迷惑をかける男だから寅さんの失言によって家族が大混乱する。
大喧嘩して最期にはお前なんか出て行けという事になるが、あの寅さんという邪魔者が大変必要な邪魔者なんです。
寅さんがいるからもめ事を起こして、再生しようとする努力をすることによって生活経験を積んでゆくわけです。
前は変なおじさんさんおばさんがいたりして、みんな苦労しるという体験を知っていたから、だから寅さんの家族と一緒に笑ったり泣いたりできたんじゃないですかね、段々そういう体験が少なくなってきているのではないか、日本の家族の家族関係が段々希薄になってきているからね。

僕たちの国は果たして幸福な国かという大きな課題をみんなが考えるようになったのは、大震災前とはずいぶん違うのではないか。
問題は幸福な国、幸福な社会に向かって僕たちの国は進んでいるんだろうかという検討は必要なんじゃないかと思います。
家族、隣近所との絆が大事なんだなという事、コミュニティーはそういう力を持っているのだと気が付いたという事はあると思います。
阪神淡路大震災の時に、寅さんの撮影に来てくれと言われて、寅さんのロケーションをやったことがありました。
街の人と人との厚いつながり方、具体的な暮らしの上でも精神的な支えあいという上でもみんな求めていたし、100年、200年かけて作り上げてきたのにそれが消えてしまっている。
建物道路は立派になっても、そっちの方はどうしたら回復できるのだろうとか、行政はどう考えているんだろうかとか考えさせられました。

地域のつながりを作るのは難しい、年月がかかるわけです。
これからに日本で地方が豊かになってゆくという風にはどうしても思えない。
都心に集中して行ってしまう。
被災地を含めて日本の大きな課題だと思います。
地域を纏めるのは若い人の力が必要だと思うし、子どもが沢山いないといけない、子どもを通して親たちがが仲良くなってゆくので。
避難指示が解除される中で、戻れる状態にはなりつつあるが、違うところで生活のスペースができているので、若い人が戻れない戻らないという様な状況があります。
家族、隣近所のつながりは目に見えないことで、目に見えないものを回復するという事は大変難しい問題はあるが、しかし回復しなければいけないと思うが、家族の繋がりが薄れていって回復しづらいというのは被災地だけでなく日本全体の問題だと思います。

浪江町では2万人いた人口が今戻ってきている人は1000人ぐらいです。
地域がどんどん消えてゆくというか、地域における人と人との温かい繋がり、コニュニティーが消えつつあるような不安感を抱いているようなときにあの大震災が起きてしまった。
一層そういったことを考えざるを得なくなった。
役所でお互いに名前を呼びあうとか人間臭い努力が沢山沢山必要なのではないかと思います。
日本中の人がもっともっと東北の人たちに関心を持たなくてはいけないし、応援しないといけないのではないかと思います。