2020年3月21日土曜日

臼井真 ほか(神戸市 小学校音楽教諭)  ・「被災地をつなぐ"しあわせを運べるように"」

臼井真 ほか(神戸市 小学校音楽教諭)・「被災地をつなぐ"しあわせを運べるよう
に"」
"しあわせを運べるように"という歌をご存じですか?
25年前の阪神淡路大震災の直後、神戸市の小学校の音楽の先生臼井真さんが作詞作曲した歌です。
神戸の小学生に歌い継がれその後新潟、東北、熊本など地震の被災地に伝わりました。
この"しあわせを運べるように"という歌を通して震災に向きう神戸と福島の先生と子どもたちを取材しました。

希望の歌として子どもたちに歌い継がれています。
阪神淡路大震災から25年、歌を通して繋がった神戸と福島の教師と子どもたちの物語です。
神戸の小学校の先生森田明美先生は阪神淡路大震災が発生した当時、"しあわせを運べるように"を作った臼井真先生と同じ神戸市立西灘小学校に勤務していました。
以来25年"しあわせを運べるように"を通して震災学習に取り組んでいます。
授業では歌詞の意味やどんな思いを込めて歌うのか、震災を知らない子どもたちに震災の意味を考えさせます。
2015年夏、森田先生と当時の教え子たちは福島県を訪れました。
東日本大震災の後、福島県二本松市で"しあわせを運べるように"を歌ってる小学校を訪ねました。
福島と神戸の合同で特別授業が行われました。
二本松市の小学校の音楽の先生、佐藤敬子さんはビニールに入った土を子どもたちに見せました。
前年神戸に行って神戸の園芸店で購入した土を福島の土だと言ってビニールに入った土を見せました。
子どもたちは静かに見つめるだけで、近づいたり触ったりすることはありませんでした。
その時から1年、ふたたび子どもたちの問い合わせます。

5年前当時中学1年生だった伊藤まりなさん、福島の土を怖く感じたといった男の子の申し訳ないという気持ちの涙をこらえるよ言うに語り始めました。
「・・・判っているのに心がついていかない。」
先生:普通の反応だと思う。 涙の色までわからないといけない。 涙の色を判っていますか?
想像することはできると言ったが、想像することは難しい。
バスの中で当時小学6年生だった二人こどもが「涙の色」について語っていました。
その後神戸の子どもたちが訪れたのは全町避難を余儀なくされた福島県浪江町の人たちが暮らす避難所でした。
話を聞かせてもらい"しあわせを運べるように"を歌いました。

神戸と福島の子どもたちの福島での震災授業、神戸の子どもたちは2日目原発30km圏の南相馬市に向かいました。
小高は当時震災から4年半が過ぎていましたが、避難指示が続いていましたが、日中は自由に立ち入ることができました。
子どもたちは話を聞きたいと街を歩きました。
理髪店の加藤さんに質問します。
子ども:福島の未来は?
加藤:一番難しい質問だが、でもみんな頑張っている。
帰りのバスの中で加藤さんとのやり取りについて子どもたちが語り合っている。

2016年3月福島の合宿から戻った子どもたちは卒業の日が近づいていました。
"しあわせを運べるように"を通して歌詞の意味やどう歌うかを考える震災学習は、人の気持ちに寄り添う時間でもありました。
卒業から9か月後、2016年12月 中学1年生になった子どもたちが神戸市立西灘小学校の森田先生の元に集まっていました。
南相馬市の小高で開かれるイベントで福島の子どもたちと一緒に"しあわせを運べるように"を歌う事になりました。
集まった子どもたちは自然と福島の話を始めました。
1年ぶりに福島を訪れる。
津波で流されて更地だったところには除染された土や廃棄物が山のように積み上げられていました。
理髪店の加藤さんの店に向かいます。
来られなかった子が加藤さんの夢を見たという事などを話す。
その後二本松の子どもたちとの再会もありました。
クリスマスの夜に"しあわせを運べるように"を一緒に歌います。

一緒に歌った二本松市の小学校の佐藤先生は歌で福島を勇気付けたいと、二本松に新しい合唱団を作っていました、「福島"しあわせを運べるように"合唱団」です。
幼稚園から高校生までおよそ40人が参加しています。
最初「しあわせを運べるように」という歌詞が受け入れられなくて複雑な気持ちだったという村田あまねさんがいました。
家を流され避難しなければいけない状況でどいうやったら強い心を持てるんだろう、という様な気持ちでした。
村田あまねさんは家も流され曾祖母、祖父母の3人を亡くし、今は二本松で避難生活を続けています。
合唱団入団当初は自分の体験を誰にも話す事はできませんでした。
村田あまねさんと友達は小高を訪れました。
誰もいない学校、更地になった自宅跡、寂しいはずの景色があまねさんには違って見えました。
あまねさんの心に溢れたのは、あの日の前にあった8年分の思い出でした。
友達は新潟、仙台、関東など全国各地で暮らしています。
あまねさんは懐かしい同級生の前で合唱団の仲間たちと"しあわせを運べるように"を歌いました。
故郷の思い出を胸に寄り添ってくれる新しい仲間と"しあわせを運べるように"を自然と歌えるようになっていました。

去年12月阪神淡路大震災から25年経とうとしている神戸の街に、「福島"しあわせを運べるように"合唱団」の姿がありました。
佐藤先生は福島の子どもたちに今の神戸の姿を見せたいと思ったのです。
村田あまねさんも一緒です。
訪れたのは神戸の長田区の商店街でした。
商店街の復興を先頭になって進めてきた伊藤正和?さんに話を聞きました。
「・・・被災者だが心に被災者になっては駄目、みんなの街はみんなが作り上げていばいい・・・」
神戸の佐藤先生と福島の森田先生はもう一度一緒に授業をすることにしました。
前回の子どもの話「福島に行って震災を学ぶことの意味、得たものが凄くあったと思います。・・・その人の涙の色までわからないとその人に寄り添ったとはいえない、と佐藤先生に教えてもらって凄くいい言葉だと思って一番胸に刺さった言葉です。・・・人を思いやる気持ちとか大切なことを教わったと思います。」
加藤さんとの出会い、話を話す子もいました。

臼井真:「地震にも負けない強い心」と書いたのは、自分自身が負けそうだった。
亡くなられた人の事を思ったらやっぱり強い心で前に向かって生きていかなければいけないと、街に対する愛情もこみあげてきて神戸の街は怪我をしたが、死んではいない、絶対よみがえるんだという思いを込めて「生まれ変わる」という歌詞も書きました。
命の大切さ、未来に向かって行く時にいろんな人にみんなの持っている幸せを運んでほしいと思います。
村田あまね:小高で被災しましたが、自分の中での恐怖があったりするが、その日からの自分の心を震災と向き合うために歌っています。
福島の未来かなあと思う神戸の25年を迎えた神戸の人たちの笑顔を思い描いています。