穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
この一年多くの変化もなく、父と八丈島に行って山に登ったりしてきました。
健康に気を使いながら過ごしてきました。
3月という事で春の歌を選びました。
昔からひな祭りやお人形の歌はたくさんありましたが、楽しいとかハッピーとか愉快な歌は見た記憶がないので、不思議に思って岩波現代短歌辞典を開いてみたら、ひな祭りの項目に、近代にいたるまでの女性に忍従を強いられた生き方の象徴としてひな人形が連想されるからであろうと書かれていて、又「嬉しいひな祭り」という童謡があるが、タイトルは嬉しいだが、曲が何故かさびしい感じです。
そういう事かと思いました。
「われにふかき 睡魔は来たる ひとりづつ 雛人形を醒まして 飾り終ふれば」 小島ゆかり
一人づつ目覚めさせて飾ってゆくと、今度は自分がなんだか眠くなってしまったという歌で、彼女たちと自分がどこか深いところで繋がっているのかもしれなというそんなことを感じさせる歌です。
「雛のある部屋に足し算教えつつ雪ふるように切なさがふる」 東直子
お母さんが娘に足し算を教えているような光景が浮かびます。
切なさという事で女性から女性へのつながりがあるようで、ひな人形にも三人官女、五人囃しとか七段飾りとか数が一杯出てきます。
深いところで数というものがつながっているのかもしれません。
ふわっとした切なさが全体に流れている様ないい歌だと思います。
「屋上でサンドイッチを食べていた卒業なんて信じなかった」 加藤千恵
高校生が屋上でサンドイッチを食べているとなんだかどの時間がいつまでも続くような感じがする、勿論そんなことはないのは知っているが、卒業なんて信じないという感じがあるのかなあと思います。
なんか普遍的な感じがします。
屋上で、というのは自由があるぎりぎりの線というところですね。
「海だけのページが卒業アルバムにあってそれから閉じていません」 伊舎堂仁
伊舎堂仁さんは1988年生まれ、卒業アルバムの歌で、修学旅行、臨海学校とかでいった海のページが入っている。
みんなが一杯写っている写真よりも海だけのページが青春のきらめきのピークにあるような不思議な感じ。
その感覚が判る様な気がします。
心の中のページをいつまでもきらめきのページを閉じたくないような、今も心の中に広がっているようなそんな歌だと思います。
「まとめると穂村さんからくださいを斎藤さんからそれ本当を」 最近の作品 伊舎堂仁
「桜花いのちいっぱいに咲くからに命をかけてわが眺めたり」 岡本かの子
岡本太郎の母親、桜と対決するような凄い歌です。
桜の歌はいっぱいあるが以前は人間の向こうにある大きなものという様な自然の捉え方がそうだったんですが、近代に入って私というものを強く意識するようになって、桜対自分のような、当時としては衝撃的だったんだと思います 。
「水流にさくら零(ふ)る日よ魚の見るさくらはいかに美しから ん」 小島ゆかり
人間は桜が地上から水に落ちて行くのを見えるが、凄いのは魚の視線を想像している。
水がレンズの様になるかもしれないし、我々にはないアングルだから新鮮な桜の歌だと思いました。
「桜という母の歌集にポトリと春の涎を垂らしてしまう」 小島なお
桜という題名の本に外では桜が咲いている時に、眠くて涎を落としてしまった。
面白い季節感の捉え方です。
母親は小島ゆかり。
「ひな壇に誰もいなくてきらきらと笛や刀が散らばっている」 穂村弘
空想ですが、誰もいなくて何があったんだろうと、不穏な世界を描きたかった。
時空のはざま的なところがあります。
「母のいない桜の季節父のために買う簡単な携帯電話」 穂村弘
母が亡くなって父のために簡単な携帯電話を買いに行くが、買う事が母の不在感を逆に感じさせる。
華やかな季節だがでも父は一人。
「節分の豆をつまんで子どもらに三粒、五粒手のひらに湯気」 リスナー原沢源治?
大人だけでは盛り上がらない、子どもがいるとイベント感が盛り上がる。
子どもたちの生命力の湯気では。
クローズアップがいいと思います。
「ふためいて270度回転す今晩は鍋今晩は鍋」 リスナー松村麻衣子?
パニックしている状態を270度と言う角度で表現しているのが面白いです。
(短歌の漢字ひらがななど間違っているかもしれません)