松浦常子(みかん農家) ・「視力を失って得た人生」
松浦さんは71歳、ミカン農家として生き生きと働いていた36歳の時に網膜色素変性症と診断され、いずれ失明すると告げられました。
将来への希望が持てず20年近く辛い日々を過ごしましたが、インターネットを通じて同じ境遇の人たちと出会ったことで生きる意欲を取り戻したと言います。
その後愛媛県に患者会を設立、地元宇和島市でも視覚障害者の交流会を開催するなどして、仲間の輪を少しずつ広げています。
そうした体験をつづった手記「私が歩んできた二つの人生」がNHK障害福祉賞を受けました。
「私が歩んできた二つの人生」は私が晴眼者であったら知らなかった世界ですが、別の世界を知って別の人生が生きられるという事が判りました。
一生懸命ミカン作りをしてきたときと、ミカン作りを辞めて同じ障害を持ち同じ悩みを持つ人たちと歩み始めて、二つの人生だなと思いました。
真っ暗かなあと思ったら白くて何も見えない感じです。
有難いことにほんのぼんやりとは見えるんです。
見えなくなってきたのが判ったのは40代後半ぐらいです。
36歳の時に網膜色素変性症だと言われたときには何にも感じていませんでした。
コンタクトをしていて目にゴミが入ってごろごろしていたので病院に行ったら、目の奥に重大な病気があります、網膜色素変性症という事でまず夜見えにくくなり段々視野が欠けていって最後にはいずれ失明しますと言われました。
そのうち失明してしまうのかと、いつも頭に隅にありました。
子どもは長男が中学1年、次男が4年生、娘が1年生の時でした。
夫はそれほど深刻にはとらえていなかったと思います。
50歳になってミカンの取り残しをしたりまぶしく感じたりして、夕方には見えにくくなりました。
人から具合はどうといわれて、段々人に会う事も嫌になってきました。
地域の婦人会もその時期に辞めてしまいました。
そのころJRPS(日本網膜色素変性症協会)を知りました。
東京に本部があり当時28支部ありました。
情報を知りたいと思ってネットで調べましたら、JRPSが判ってここに入ろうと思いました。
その日のうちに会員登録の手続きをしました。
私一人ではなく同じ思いをしているのがこんなに沢山いるんだと思えて気が楽になりました。
愛媛県では休会中だったので、本部から西日本ML(メーリングリスト)を紹介されてそちらに入りました。
不自由な思いをぶつけました。
周りからいろんなアイディアを出してくれたり、障害者手帳を申請した方がいいとかアドバイスしてくれました。
障害者2級でした。
色々な情報を得ることができました。
便利グッズをいろいろ紹介させてもらいました。
愛媛にもこんな交流の場があればいいなあと思いました。
友達から「無ければつくればいいんじゃない」といわれてそれでは作ろうと思いました。
まずは仲間集めをしないといけないと思って、新聞に載せてもらおうと思いました。
電話を頂いたりして何人かの仲間ができました。
立ち上げるのには学術会員が1名必要という事で、会員が30名以上とか条件がありました。
愛媛県大学のロービジョン外来を受診して、その医師に協力してもらえないかどうか伺ったら、快く引き受けていただけました。
会が発足したのは平成19年でした。
最初は40名足らずでしたが、今は103名になりました。
大きな柱が病気の治療法の確立ですので、病気について知ろうという事で医療講演会などはよく開催します。
情報を得るのにはパソコンを習いましょうという事で、月に一回午前中に学習して、あと点字を習う方もいて、午後はいろんなことをやります。
最初来られる方は沈んでいますが、そのうちに笑えるようになります。
中学生の頃にパール・バックの『 大地』という本を読んで、土に生きるという事はいいなあと思ってミカン農家に嫁ぎたいと思いました。
ミカン農家が斜陽になりミカンだけでは食べていけないような時代になり、ミカンの温室栽培をやり、品種の改良などもして、いちご栽培、ブロッコリー栽培したりして何とか苦労しながら続けてきました。
今は夫が一人でミカン栽培はやっています。
申し訳ないとは思って感謝しています。
豪雨で被害を受けて1か月以上断水にもあって大変でした。
全国から励ましを一杯頂きました。
人と人とのつながりをつくづく感じました。
ミカンはこれからは剪定作用があり、4月末5月ごろに花が咲くころに成ったら消毒作業などもあります。
今はスプリンクラーで楽にはなりましたが。
色んな人とかかわりあいながら、全国の皆さんにいろんなことを発信していきたいと思います。