2016年1月15日金曜日

鈴木隆史(アルミ鋳造会社社長)   ・難民や外国人と会社再建を

鈴木隆史(アルミ鋳造会社社長)   ・難民や外国人と会社再建を
東京八王子に工場があります。 鈴木さんは42歳 女性の管理職も男性に交じって働いています。
人手不足に悩む中小企業を魅力ある職場に変えたいと10年余りかけて、取り組んできた事でした。
数年前から日本だけでなく世界を舞台に営業活動を始めました。
会社が成長する事が人材確保を可能にし、活力ある中小企業に変革できるとの信念からでした。
しかしその道のりは平坦ではありませんでした。
困難を乗り越え新しい事に挑戦し続ける鈴木さんに伺いました。

20から70歳台までいますが20歳台が40%位です。
アフリカからから3名来ていますが、2013年から来ています。
難民として日本に来た人たちです。
年間5000人難民申請しても、年間11人しか認定が下りないという国なので、認定待ちの方の中から、働いてもいいと許可が出た人達です。
指導はスタッフが教えています。
3人のうち一人は正社員で、2人は研修中です。
祖父が会社を立上げ、父の代で研修制度を利用してインドネシアから来た人3名受け入れました。
父が亡くなり、リーマンショックで正社員をリストラしなくてはいけなくて、彼らを残して、日本人を5人リストラしました。
苦労して育てた3人はそれぞれ鋳造とは違った職種に行ってしまい、そういう思いをしてまでやってきたことに何の意味があるのかと疑問符を感じました。
いまいるスタッフはそれなりの経緯があって雇用しているので不安は無いです。

いまは7割が海外と取引しています。
ダイバーシティー 多様性、 外国人、女性、障害者、高齢者を積極的に雇用する経営。
企画、人との会話が好きで会社を継ぐ気が無かった。(サービス業に就職)
4年目の夏、アルミの鋳物を作るプラントを父が設備導入するが、職人からは脅威となり、職人からは手伝ってもらえず父が一人でやっていて、母から助けてくれるように言われたが、突っぱねた。半年間説得されて、半年後に折れ諦めの境地で入りました。
職人は教えてくれるわけではなくて、初日の晩は風呂で泣きました。
当時私以外はすぐ上が40歳台だった。
20年後はどうなるのかと思って、友人等にアルバイトに来てもらって、うちの会社の駄目なところを書いてきてもらった。
一つずつ潰してゆきました。
典型的な3Kの仕事場でした。

2年目から営業に出されました。
95%は車両業界(車)で、安全基準が変わる、消費税が5%になるので軽自動車の替え変え時期になっていて、バブル崩壊後だったが、仕事は沢山取ることができた。
23,4歳で手取りで80万円ぐらい貰っていて、俺って凄いと勘違いしました。
人生そのものをなめていた瞬間でした。
1999年を境に50から60人いた従業員が3人に減って、売り上げも1/20になり、事実上の倒産となる。
私が代表取締役になり新たにスタートしたのが2000年でした。
母もガンで亡くなり、精神的支柱も失う中で、どん底の時に結婚しましたが、妻から今が底だと思えば後は上がっていくだけだと言われて、底に蓋ができたのかなと思いました。
いろんな業種に展開してゆくうちに回復してゆきました。
2008年に父が交通事故で亡くなって、リーマンショックとなってしまいました。
負債を含めると数億円と言う事実も発覚して、人生初めて夜逃げしようと思いましたが、従業員も20人いるので逃げるわけにもいかなかった。
負債は年金事務所、税務署に行って地道に返してゆく計画を出したり、リストラという事でインドネシアから来ている3人は残して、5人を解雇しました。

或る交流会でパン屋さんを紹介するという事で、話しているうちに、タイ焼きの型屋さんを探しているという事で、タイ焼きの型をやらせてもらって、利益は出なかったが固定費は稼げたのでなんとか一命を取りとめたという様な感じでした。
負債もあるし廃業はできなかった。
或る大手メーカーがコールドプレートの開発をするところを探していて、是非やらしてほしいという事で行ったが若い社長だしということで相手にされなかったが、自分たちで材料を調達して作って持って行ったら、できるという事で、試作をやらしていただいて共同開発をさせてもらった。
これで高付加価値の鋳物を実現できると思って、V字回復の基になりました。
今も主力で作っています、半導体の装置の中に基板が入るが、そこで熱が出るので空冷では追いつかず、水冷のコールドプレートをそこに使っています。

タイの工場見学をさせてもらって、わたしに分厚いファイルを差しだしてQC(品質を維持する本)をやれば、原価もさがるし、競争力も付くという事で、日本でやってきた単価の競い合い、納期の競い合いがまさにここで行われるのではないかと、海外に生産拠点を持つ事は止めようと思いました。
ヨーロッパ、シリコンバレー等に視察に行きました。
シリコンバレーに製造業、町工場が5000から6000社あることを知らなかった。
9割が中国、韓国、台湾でショックだった。
中国の工場を見せてもらったが傷だらけの製品だったのにはカルチャーショックを受けた。
2年先まで仕事が埋まっているという事だった。
日本はいくら品質が良いと言ってもビジネスでは完全に負けている現実を目のあたりにした。
言葉の壁、マインド 心の距離を感じました。
会社全体の意識改革が必要だと思いました。
外国語が話せる人を探しましたが、たまたま難民でした。(難民支援協会と知り合えた)

ミャンマーの人が最初に来たが、1年半で辞めました。
文化の違い、通勤時間が長い等で辞めました。
現在はカメルーン、エジプト等から来ています。
従業員は何故日本語を話せない外国人を雇うのかと大反発でした。
英語の環境作りがまず必須だったが、雇う事に奔走した専務と軋轢があった。
専務が辞めさせてくれと言ってきたが、これをやらないと先に進めないと思って、従業員全部やめさせても専務は辞めさせないと言って、一緒にやってきた工場長が辞めただけで済んで専務は辞めずに済んだ。
英会話をやり始めて、意識改革のスタートをきれました。
海外の大学と直接契約をして受け入れています。
3年前、韓国の学生をインターンで受け入れて、新卒で雇うことになり、インターンシップもありだなと思いました。
日本に興味のある若い人に体験してもらって、賃金も払って仕事をしてもらう。
就業中に外国人が日本語を学び、日本人が外国語を学ぶような形にしています。
難民はトータル9人雇いましたが、3人いるので3勝6敗と言っている。