2016年1月20日水曜日

中本忠子(元 保護司)      ・ばっちゃんと食べて話そう

中本忠子(元 保護司)        ・ばっちゃんと食べて話そう
81歳 広島市で保護司として活動していた中本さんは保護観察中の少年と向きあっていた時に空腹が非行に走らせることに気付きました。
少年に食事をさせ弁当を持ち帰らせるうちに中本さんの家には行き場のない少年が集まる様になりました。
少年たちは中本さんを「ばっちゃん」と言う様になり、手料理を食べさせながら少年たちと話を続けました。
中本さんと一緒に食事をしながら気持ちを通わせ学校に戻ったり、仕事に付いて成長した少年たちは 100人に昇ると言う事です。
どの様な気持ちで少年たちと向き合ったのか、少年たちはどう変化していったのか、中本さんが得たものはなんだったのかを伺いました。

今も食事を作って少年たちと話をしています。
土、日、祭日は給食がないので、昼前から来ます。
平日は夜だけ学校の帰りに来ます、夏休み、冬休み、は昼と夜と、あくる朝弁当を持って帰る子もいますが大勢ではありません。
手伝いをしてくれる人がいるので一人では無理です。
私の子供は3人いますが、もう孫も6人います。
昭和55年に保護司になりました。
中学校の役員をしていて、中学校、警察関係からも押されて、やってみようかと思いましたが、別世界の様で戸惑いもありました。
少年院に入る前の子供達、仮退院の子供、大人は保護観察付きの執行猶予の人を担当、仮出獄は満期までを保護司が担当します。

子供達の環境、貧困から来た非行が多かったと思いますが、これらの子は立ち直りは早い。
溺愛とか放任で育てられた子は非常に難しい。
親が食事を作らない家庭の子は更生する確率が少なかったと思います。
食べるのが一番、腹いっぱい食べることをモットーにやってきたら、万引きは無くなりました。
シンナー少年を受け持った時は空腹であるためそれを紛らわすために、シンナーを吸うという事が判った段階で、ご飯を食べてもらう様にしたらシンナーは止めました。(段階的に)
具体的には家に来てもらって有るもので食べてもらって、弁当を持って帰らせるようにしました。
お婆さんとの生活だったのでお婆さんもその弁当を頂いた様で感謝の電話が来ました。
他の子にも自分の体験を話した結果、その様な子供のたまり場になったわけです。
集まる数が増えて、最終的には私の居場所がない様な状態になり、私はいらいらしたりして、子供に当たる様な時もあり、もう帰れという様な声を掛け、友達の家が溜まり場となり、食べものを作ってそこに私が通う様になりました。

私の家は狭いのですが、一番多く来たのは12人のときです。
大変なことがたびたびありました。
丼物、カレー、はやしライス等を作りました。
親が食べさせてこなかったために、好ききらいが多い子も結構います。
ご飯は9合炊きの釜で3回炊きますが、足りないときにはソーメン、うどんを作ったりします。
カレーは足りないときには、水をどんどん増したりしますが、それでも子供達はそれを食べます。
満腹になると子供達は気持ちが落ちつきます、いらいらしない、切れない。
切れた子は空腹ですし、お腹がすいていると犯罪に結びつく事は長年の経験で判ります。
初めの7から8年は自前だったので経済的に大変でしたが、広島市にお願いをし3年は駄目だったが、共同募金を自分たちで集めてバックマージンとして貰う方法で運営をしています。
周りから食材を送って貰ったりして、助かりました。

家にそういった子が来るので地域からクレームが来ることが心配だったので、先に地域の事に精を出して力を入れるが良いと思って、みんなが嫌う清掃、地域の役員を請け負った。
段々支援の輪が広がってきた。
或る子が私に数珠みたいなものを買ってくれたが、指輪も買ってくれる様なことを言ったが食事を作るのには不具合があるので断った、口紅はどうかと言ってきたりした、自分の親が綺麗に着飾っていると、1週間ぐらい帰らない、私が同じようにしていると帰らないのではないかと、親と私とをだぶって考えたようだ。
後にこの子が「春を売るという事はどういう事」と聞いてきた。
言い様がないので「つくしが春になると出てくるので、あれを佃煮にして売るのかな」と言ってごまかしたが、誰が言ったのかなあと思ったが、「お前の母さん 春を売る」と言われた、との事だった。
しかし、意味はわからなかったようだ。
月日がたってその子も成長して、自分のお母さんの仕事の内容が判ったようだった。
親の職業も判ってきて哀れさを感じるが、初めは暗い子だったが、今はとっても明るい子に成っている。
親子が仲良く人に迷惑をかけなければいいという様に、今は思っています。

親が刑務所に入ると、刑務所に面会は行かなければいけないし、差し入れなどもある。
面会に行きたい人がいるが、行きたい人は面会の許可が下りない。(そういうたぐいの人なので)
中で孤独になり、孤独になると人を怨む気持ちが強くなり、凄くひがみ根性が出る。
それをしないがためには、逮捕されたら面会に行くようにしている。
貧困が大きな課題にはなるが、孤独感を感じ取る人はなかなか立ち直りが難しい。
差別なく受け入れてあげられるような地域社会にしたいというのが私の狙いですが、人の心はなかなか変えることは難しいところはある。
子供と親を離すことは出来ないから、狙いはどうしても親と子をひっ付けたいと思っている。
中には親から早く逃げた方がいいという様なこともある、親が子供を食い物にする場合などがある。(行政に言ってでもお願いして離す方法も取っています。)
年もとってきたので個人ではできなくなってきたので、NPO法人になる。
いままでは親子に気を使えばいいという事だったが、皆さんに気を使わなくてはいけなくなり、非常にてんてこ舞いをしています。
先に進みづらい、組織で動かないといけない、みんなの足並みで動く。
子供達は「まった」がきかない、そういった組織になると決まるまで時間がかかる。

保護司として35年間やってきたが、全く知らない世界を見せてもらっている、それを体験させてもらったということはありがたいです。
わたし自身が成長し、いろんなことを知って、勉強させてもらったと思います。
或る子が少年院に入って、介護の勉強を受けて、「ばっちゃんを見てあげるからね」と言う事を聞いて、嬉しく思った。
出てきて介護の仕事をしている、介護は給料は安いが、電話で「ばっちゃん 足大丈夫」とかいろいろ気を使って心配してくれる。
子供達はみんな恩を感じてくれていると思う。
どの子でも見棄ててはいけない。
ずーっと子供達との付き合いが続いています、良かったと思う。
「ばっちゃん おれ税金を払えるようになったよ」、と言って 「ばっちゃんの年金おれのではらってあげる」という様な事を言ってくれます。
①嘘をつかない
②挨拶をする
③時間を守る 
ここに来るのに、これさえ守ってくれたら、少々のやんちゃは目をつぶってあげると言っている。