2012年7月11日水曜日

三宅純(音楽家)         ・パリで培った音楽観を日本へ

 三宅純(音楽家)            パリで培った音楽観を日本へ  
(1958年1月7日 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、トランペット奏者
世界的なジャズトランペット奏者の日野皓正さんに見出され ボストンバーキュリー音楽大学に留学 1981年に帰国 日本で3000曲を越えるコマーシャル曲を始め映画 ドキュメンタリー 舞台 ダンス等ジャンルを超えて様々な音楽に係わってきました  
2005年突然パリに移住 作曲家音楽プロデユ-サー トランペット奏者としてパリに溶け込み多方面で活躍しています
今年のアカデミー賞にドキュメント部門でノミネートされたドイツの天才舞踊家を追ったドキュメンタリー映画 「ピナバウシュ 踊り続ける命」の音楽を担当されたのが三宅さん
3年前に亡くなったピナバウシュの追悼公演に今回来日しました

パリへの移住の理由  1981年 音楽大学に行っていてジャズ一筋で音楽家になろうとしていましたが 尊敬していたマイルス・デューイ・デイヴィスのカムバックコンサートが有ることを知って 聞いてから帰国しようとしていた 
コンサートを聞いて狂信的にのめり込んでいたジャズがその瞬間死んだと思いました  
その都度進化してゆくのがジャズだと思っていたが 彼には新しいものがなにも有りませんでした日本に帰るがTVで゙コマーシャルが流れていてこれがジャズより ジャズらしいと思った  
TDKのコマーシャルを担当してコマーッシャル業界と繋がった  
とんでもない発注が有りそれに巻き込まれた 楽しんで作曲した  
1995年にバブル崩壊  関西の震災 オーム事件 が有りそこで世の中が大きくシフトしたのを感じた  

アーティストとして活動してゆくと思っていたのに軸足が一色先に傾き過ぎていた  
そこで国を出ようと思った  出稼ぎは出来るとは思った 
その年に離婚することになり子供が高校を出るまでと思っていたら9・11事件が発生  
脱出先がアメリカというものが消えて仕舞う 
2005年にどうしようかと考えて 日本の島国の閉塞性は合わないと思って、世界のハブとしての街はどこだろうと思った時に自分の電話帳にフランス人の友達が多いこともあってパリ にした 先ず自分の立ち位置と場面を変えたかったので、どこまで通用するか 
舞台とかいろいろのジャンルで仕事をした 内容的には変わっていない  
ドキュメンタリー映画 「ピナバウシュ 踊り続ける命」 「ピナバウシュは常に世界の有名なダンサーを抱えている
人種を問わず人間が持っている感情 普遍性 を表現するために必然的にそうなった
映画の途中で亡くなってしまったが再度やることになった   
彼女は製作方法が独特で初演の日まで身体表現が固まらない 
音楽を書きおろすことができない
幕を開けて初めて判る場合が多い  
能動的に係われないだろうかと、リハーサルのビデオを見せてもらえないかと言ったが、リハーサルでも変わって行ってしまう
日本はまず仕事の発注を頂く時に、スケジュールと予算から聞かれる  
向こうはこういう企画が有って作品だけれども、貴方のこういうところが作品に合っていて、こうこうこうなんだけれどもどうだろうか から始まる  
海外はスケジュール、予算からは入ってこない  
経済よりも人生だろうと  バケーションに対しても日本は有給休暇を取って行うが  時期もフレキシブルに取れるし フランスはバケーションは一大大国
日本は豊かさを追求してこなかった 
 
仕事を休んで休暇を取っていると日本では取り残されてしまうような傾向が有る
先ずは横並びと言う感覚を捨てた方がいいと思いますね   
行動を起こす時にも隣のどなたかがそうしていないかとか そうしていないから自分もしないとか そういう意識が有るのではないか 日本だけとは云わないが 極めて少数派の感覚 ですね  グローバルに見ると、多人種なので横並びと言う感覚すらなくて 行動を組織の中で起こすにしても 個ですよね  
個人の感覚、価値観として私はこう信じこう考えるから   
こうしたい 考えが違うのが当たり前  それが根底にある    
いい方向に出ると統制が取れていいと思うが、地方に行くほど習慣的に教えられてきたことをそのまま受け入れ それが習性になっているということが前提に有ると思いますし 一種決め事みたいなものだけ が先ずは最初独り歩きしていて こうあるべきだという 日本はそういう情報に弱いのではないか
 
日本の若手のミュージシャン  小粒に成ってきているように思う  
技術的には優秀ではあるが生活感を伴っていないというか 勉強した物をやっていますという感じの方が増えてしまった感じです    
破天荒の人は押さえつけられるか  破天荒だったからミュージシャンになったという感じですかね 国外にはどんどんでるべきだと思います   
日本に居る時には大変だと思っていた感覚が当たり前のようにやっている  
高校を出てアメリカの大学に行ったことが 色んな人種に接することができた  
何でもありなんだなと思った 
父は音がするのが嫌いだった  4~5歳の時に 父が単身2年留学した  
其の時に母がピアノを購入した 重いのでそのままになった
それを勝手に弾いていた   学校でトランペットをブラスバンドの練習の終了後にやっていた 中学1年からトランペットを吹き始めた

日野皓正さんに17歳の時に合いに行って聞いてもらって駄目だったら駄目と諦めようと思った 日野皓正の地元に一緒に行って海で吹いた
途轍もなくレベルの差を感じてこれは駄目だろうと思った   
駄目な個所をいくつか指摘されて駄目だと思っていたら泊って行けと言われる
母親から電話がかかってきて日野さんが電話口に出てお宅のお子さんはアメリカの大学に行く事が決まりましたと告げた
僕聞いてませんけどと言ったが 父親とも会って説得してくれた   
日野皓正自体を父は知らないし認めないわけなので 内の家系から音楽家が出る訳がない  と言う    
最後に1年だけ行って来いという事になった  日野さんに合わなければ今の自分は無かった