本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】滝廉太郎
講談師 神田蘭
滝廉太郎は明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人。
23歳と10カ月で肺結核で亡くなる。
講談による紹介。
代表曲、「花」、「お正月」、「箱根ハ里」、「荒城の月」など沢山ある。
「荒城の月」はヨーロッパでも親しまれていて、ベルギーの修道院ではおよそ30年前から聖歌として歌われている。
ドイツでは世界的ロックバンドスコーピオンズ迄もがライブで歌ったことがある。
滝廉太郎は現:東京都港区西新橋で明治12年に生まれる。
滝家は江戸時代に、豊後国日出藩の家老職を代々つとめた上級武士の家柄。
父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、神奈川県横浜や富山県富山市、大分県竹田市などを移り住む。
横浜では幼い廉太郎はキリスト教に触れ教会に行って聖歌やパイプオルガンの音を聞いていたのかもしれない。
姉が二人いてヴァイオリンやアコーディオンを習っていて、彼も幼いころから楽器に触れていたそうです。
大分県竹田市に移り住んだころからオルガンを習い始めて、またたくまに才能を開花させてゆく。
音楽家を目指し上京、15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学する。
ピアノと作曲を勉強して17歳で「日本男子」という曲を発表。
首席で卒業する。
数々の唱歌、童謡を世に送り出す。
明治の前半は文部省の唱歌は西洋の音楽に日本語の歌詞をただ当てていただけだった。
日本語の曲を作るべきだと言うことで、彼が作り始めた曲の特徴は西洋音楽の旋律を取り入れつつ日本語が違和感なく乗っかっている。
明治34年廉太郎22歳の時に文部省音楽留学生としてドイツのライプツィヒ音楽院に入学する。
入学から5か月で肺結核にかかり、翌年帰国する。
大分の両親のもとで静養するが、23歳という若さで亡くなってしまう。
彼が病床で最後に作った曲が「憾(うらみ)」。(残念に思う、心残り、未練)
廉太郎の父は大久保利通の近くで仕事をしていたが、大久保利通の暗殺と共に上手くいかなくなり、中央での出世をあきらめざるを得なかったようだ。
父は廉太郎には立身出世を希望していて音楽活動には反対していた。
従兄弟の滝大吉は建築家で廉太郎に音楽をやらせたらどうかと廉太郎の父を説得した。
音楽留学生としては第3号で幸田露伴の妹2人が第1,2号で幸田延が東京音楽学校教授となり、廉太郎はその弟子になる。
彼が残した曲の半分以上がドイツ留学前。
ラファエル・フォン・ケーベルにピアノを私淑。
ケーベルは夏目漱石も教えていて、東京帝国大学では哲学を教え、芸大ではピアノを教えている。
同級生にもう一人の妹幸田幸がいたが、ピアノが物凄く上手くて、ピアノは諦めたというふうな話もある。
廉太郎の幼い頃の横浜での教会音楽の影響は大きかったのではないか。
彼の音楽を海外で聞いたかたはブラームスに似ていると言うそうです。
「荒城の月」を作る時に日本の旋律から変えた。
「花」は日本の曲では初めて西洋の音階で作られた。(「花」はモーツアルトぽい)
「荒城の月」の春高楼の花の宴 宴の「ん」にシャープがついているが、海外に紹介する時に山田耕作はそれをとってしまっているが、このシャープがこの曲の一番大事なところ魂だと思う。
シャープが付いたほうがその時の情況が浮かぶような気がする。
*「荒城の月」
1.春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ
2.秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ
3.いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかつら 松に歌うはただあらし
4.天上影は替わらねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月
*「箱根ハ里」(「箱根の山」)
1.箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は苔(こけ)滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士
*「花」
1.春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂のしずくも 花と散る
ながめを何に たとうべき
2.見ずやあけぼの 露あびて
われにもの言う 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳を
3.錦おりなす 長堤に
暮くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとうべき
「お正月」作詞は東くめで滝廉太郎の芸大の同級生。
「若くして友は逝けども 荒城の月の光は世に輝けり」 東くめが偲ぶ歌を残している。