2018年7月14日土曜日

蓬萊泰三(合唱組曲『チコタン』の作詞家)  ・89歳、反骨の"ドラマ屋"人生

蓬萊泰三(こどものための合唱組曲『チコタン』の作詞家)・89歳、反骨の"ドラマ屋"人生
こどものための合唱組曲『チコタン』は昭和44年度文化庁芸術祭のレコード部門で優秀賞を受賞しました。
この歌を作詞したのは脚本家の蓬萊泰三さんです。
蓬莱泰三さんはこれまでNHKTV「中学生日記」、教育TV「できるかな」を初め多くのTV番組の脚本を手掛けて来ました。
若い頃の作品は関西弁にこだわったストーリーが多く、「中学生日記」では教育の在り方を問う作品をブラウン管を通して送りだしてきました。
子供の為の合唱曲の作詞にも取り組み劇的な展開の歌詞は多くの子供達の胸に突き刺さる作品として知られています。
これまでの65年、どのようなまなざしを子供達に向けてドラマや合唱曲の作品作り続けてきたのか伺います。

兵庫県加古川市生まれ、父親がメリヤス工場を経営していたが、第一次世界大戦後の大恐慌で倒産しました。
物心付いた時には工場で遊んでいました。
母親は呉服屋の店をはじめてそれで食いつないで上の学校に行かせてもらえました。
(今の姫路西高等学校)
兄が優秀で朝礼の時に全校生徒に号令を掛けていました。
勉強が嫌いでハーモニカを買ったが、譜面が無くて面白くなく、合唱を始めました。
それが合唱との最初の付き合いになりました。
旧制の姫路高校に入って合唱部に入って、いつの間にかコーラスの棒を振るようになりました。
戦争が終わったのは中学の4年か、5年で落第もしていて、浪人もしていて、同級生よりも2年遅れています。
神戸大学文学部に入りました。

合唱団があり入ったが馴染めなくて、旧制校で一緒に行った人もほとんど辞めてしまいました。
友達にテノールの人がいて、演劇研究会募集のチラシがあり友人と一緒に入りました。
NHK大阪が学校放送劇連盟での自作自演のコンテストをやっていて、6校位が参加、真船豊の本を真似て父親と息子の物語を書いて、出たら1位になってしまった。
色々新聞社など受けたが全て落ちてしまった。
或る人が知り合いの新聞社(神港新聞)を紹介してくれました。
入って1週間ぐらいでいきなりサツ周りに出されました。
新聞社が厭になりました。
或る時学校放送劇連盟の面倒を観て下さったNHK大阪のプロデューサーの女性から声を掛けられて、うちの劇団で募集しているということで受けました。
NHK大阪放送劇団に受かってしまいました。
人気番組「お父さんはお人好し」にも参加することになる。
5女静子の婚約者(岡野)として登場する。

子供のTVドラマを大阪で書かせてもらうようになって、昭和33年(1958年)「がんばれ土管隊」の脚本を手掛ける。
空き地にある土管を基地にして腕白坊主たちが遊んでいる姿を書いたものです。
関西弁で行いましたが、東京から標準語やるようにとの電話があり怒りを覚えました。
やりとりがあったが、関西弁でやることになりました。(東京に対する反抗心)
劇団を辞めることにしてしたが、NHKからは切られてしまいまして、2,3年は満足に食べられなかった。
昭和35年「がんばれ!ヒデヨシくん」、昭和43年「海から来た平太」、昭和44年少年ドラマシリーズ「幕末未来人」など幅広く活躍。
1974年から2000年まで26年間「中学生日記」、批判されたこともありました。
子供が色々問題を起こすのはその原因は、我々大人が作っているんだということが私の根本的な考え方なので、そういうことをやっている大人から見れば自分が責められているような気がするんだと思うんです。
だから不愉快なんだと思います。
1978年から1990年まで「できるかな」を担当。
山元護久さんがやっていたが急死してしまった。(『ひょっこりひょうたん島』など担当)
明後日の分が無いので書いてくれと頼まれました。
引き受けてみたら面白い番組でした。

1969年「チコタン ぼくのおよめさん」の作詞をする。
「なんでかな?
なんでかな?
なんでチコタン 好きなんかな?
なんでこないに 好きなんかな?

チコタン チコタン チコタン チコタン
・・・・」

最終章ではチコタンがダンプに轢かれて死んでしまう。
それまでの明るい曲から最終章では突然悲しい曲に変わる。

交通戦争 最後は「アホウ」と叫ぶしかない、子供の叫びと同時に僕自身の叫びです。
昭和59年 交響詩劇「海に落ちたピアノ」はイタリア賞。 
文化庁芸術祭賞、放送批評懇談会ギャラクシー賞、放送文化基金賞など。
私の根っこにあるものは敗戦の経験、通った旧制中学は県下で指折りの軍国主義的名門校でした。
或る朝突然、朝礼の整列が悪いということで配属教官が一人で殴った。
掌が真っ赤だったのを私が見て、なんだその顔はということでビンタを縦に一杯殴られて目じりが切れた経験があります。
抑圧されっぱなしの時代でした。
抑圧しているものは単純に見て行くと大人であると、最終的には大人に対する抗議のようなものが根っこにある訳で「アホウ」という叫びの言葉になるわけです。