池内計司(タオル会社社長63歳) 四国今治から世界へ
愛媛県今治市で従業員30人の会社を経営して30年になります
地場産業のタオル製造が元気を無くしている中で、環境に配慮した高品質のタオル作りに
勤めて独自のブランドを50歳の時に立ち上げました
オーガニックタオルの第一人者として池内さんは世界中で知られるようになりました
池内さんが中学校になった頃から イタイイタイ病や四日市喘息 水俣病等の公害が社会問題になり、これらの問題が池内さんの環境に対する原点になっています
環境に優しい物つくりを強く意識してお仕事をされている池内さんに様々な困難をのりこえて世界から認められるようになった30年の道のりをお話して貰います
愛媛県今治市は、100年以上の歴史をもつタオル産地です
日本におけるタオルの歴史は、明治5年頃、英国から輸入されたのが始まりとされます
江戸時代から白木綿の産地であった今治では、明治19年にタオル生産を開始。以来、今治は全国一のタオル産地として知られてきました
今治タオル ブランド タオル会社は500社あったものが100社に減ってきた
風で織るタオルと呼ばれる 最大限の安全 最小限の環境負荷
2002年から100% 風力発電で賄う 私で2代目になる 30年になる
凄い劣等感の強い人間なので、幼稚園は初日で止める
小学校に上がった時に唯一字が書けない少年だった(心に残る)
両親は気にしていなかった 自信が無いだけと言って先生に頼んだ
中学、高校は進学校 親元を離れて高校は下宿 自由な学校だった
東京の大学に行く (文系)一橋大学
オーディオが好きでジャズ喫茶(新宿、吉祥寺)によく通った 就職は松下電器産業
ステレオ事業部希望したが、生産実習はステレオ事業部で何とかそこに入った
当時51事業部中49位だった
営業企画に配属 部長から10年間のプログラムを決められてその通りに実施された
26歳の時に結婚(今治出身の女性)
或る時に辞表を提出した ステレオの音響が優れていると回りから評価され、日本国内、アメリカ、ヨーロッパ市場で専有率一位となる
自分(大きな組織のすみっこにしかいないのに)でオーディオの世界を動かしている様な錯覚を持っていた
その後ビデオとか全世界に出て行くが 先ずオーディオだと思っていた
当時理系のトップレベルの人がオーディオに係わっていた(当社にかぎらず)
アメリカは優秀な人間はナサに行っていた時に日本では皆オーディオをやっていた時代が何年か続くんですね
70年代後半から80年代の前半あたりは日本のオーディオは世界に差を付けた
マニア向けが中心にやるべきと思っていたが、それに対してオーディオ担当のトップとは考えが合わないような時代が発生するようになる
決断して止めようかと思った
12年目(1982年)で会社を辞める (他社からのオファーは無かった) 子供2人いた
1983年2月11日に親の会社に入る予定だった(会社の30周年) 2月4日に親が突然亡くなってしまった (1月28日に脳梗塞で倒れる)
葬儀の席で社長を受け継ぐことを発表することになる
タオルの事については全然知らない状態だった
タオルの織り設計が判らない社長なんていけないと思ったので、友人からコンピューターのソフトの提供等あり、最高のツールになった
1年後位には同年輩のタオルに従事した人よりは誰よりも絶対詳しいと思ったですね
タオル会社がすることは基本設計と織る事と最後の検品執行 糸を染める、生地を染める、刺繍をすると云うのはアウトソーシング(他の会社に委託)
輸出専門だったが1970年にオイルショックで輸出は急激に減って国内に転換をするが20%はまだ輸出が有った(輸出する数少ない会社だった)
商社を介して輸出していた 当時は500社有った 不景気感は有った
一気に生産する織機が出始めて生産過剰の状況だった
ダンピングは有り、どれだけ差別化できるかが、実力に係わってくる
1987年ごろからCAD導入時期となる(社長となって5,6年後)
バスタオル、フェースタオル、ウォッシュタオル 問屋さんから発注があってから作る
デザイナーが驚くような再提案をしようと思っていた
タオルハンカチの業界に売り先転換してしまって 1990年代後半からは池内タオルハンカチ工場と回りから いわれる様になった ハンカチの方にビジネスを変え始めた
自分達の作ったものは海外で直ぐ作られて見本をつくっているような状況になってしまった
海外で直ぐ作られてしまうようなものをつくる我々がいけないんだと、もうそういうものを作るのは止めようと、時間を掛けて会社を変えてゆく
ハンカチ業界にシフトする