道下俊一(医師86歳) 北海道の赤ひげ先生と言われて
今から60年前 北海道大学医学部を卒業したばかりの道下さんは十勝沖地震で大きな被害を
受けた釧路市から80km東の浜中町霧多布に命ぜられ赴任した
昭和28年当時の霧多布はまだまだ不便な地域だったと言います
その後47年間、診療所を支え地域医療に力を尽くした道下さんは札幌市に妻とお住まいです
(1926年 - )浜中町名誉町民、浜中町立診療所名誉所長。医学博士。釧路国医師会顧問 1995年 - 僻地医療への貢献で吉川英治文化賞受賞
札幌に戻って来てから12年になる リタイアを考えていたが、北海道は医者が足りないため、
来た年から働いている
大動脈瘤の手術を2回している 新たに又大動脈瘤が見つかった
60数年医者をやっている 生れは樺太 父は教員だった
昭和23年に引き上げてきて、再度北海道大学医学部に入学した
25年卒業 小学校の同級生は多く戦争で亡くなった
(地震でやられたのできりたっぷに1年間行って来いと言われた) 第二内科
27年十勝沖地震が起きて霧多布の街を破壊した どんな環境か一切判らなかった
1年だったら良いのかなあとでかけた。(結婚していて妻からは反対されたが)
今では4時間で行けるが、当時は夜行しかなかった 釧路に付くのに10時間掛った
さらに浜中まで2時間掛った
霧多布は思ったよりも診療所の建物(明治元年に建てられてもの)が古かった
1年間兎に角頑張ろうと思った
看護婦が2人いた 人口が8500人 それに対してたった一人の医師という事
開業したが朝、患者は来なかった 昼頃に老婆が来て「どうせすぐに帰るのだ
ろうから、私達は医者を信用していないんだ」と言われた
老婆に手を見せなさいと言ったら、赤くはれ上がっていた。
新しい洗剤によるアレルギーだったようだ その洗剤の使用は止めなさいと言って、
夜になったらしっかりと洗ってこの薬を付けなさいといって帰した それが第1号
第2号は 釣り針を手に刺してしまって、切って取りだしてやった
1日 6~7人来た 内科が専門で有ったが、聴診器は一度も使う機会が無かった
手が痒い、腰が痛い、肩がこる そんな患者ばっかりだった
村の人達に近ずく為にわいしゃつを脱ぎ、ネクタイを外して、きりたっぷ弁をならった
会話が出るようになった
村を歩くときに知らない人に会釈したりしていたら、2カ月たったころに患者が増えてきた
往診するために救急車が無い 歩くのみ 8kmぐらい歩いた 待ってる患者の為に
吹雪であそこに行ったら今日は帰って来られませんよと言われた
湯担保を抱いて毛布をかぶり、馬橇に乗り吹雪の中を往診に行った
加藤一彦 高校生を雑用係として雇った 暇なときに漫画を書いていた 「ルパン3世」の作者となった
レントゲンの現像を担当して貰った ここに居たら雑用係のままだから、東京にいかなければ漫画家に成れないぞとはっぱを掛けて東京に行かせた
10年ぐらいたったら 一枚のはがきが来た 先生 米の飯が食べれる様になりました
編集長に認められ、週刊誌に書いたものが爆発的に日本中に受けて増刷増刷になった モンキーパンチのプロフィールを教えろと双葉社に言ったと言われますが、絶対に浜中出身だとは云わなかった
専属が切れて初めて 霧多布出身だと判ってから マスコミはモンキーパンチを取り上げるようになった
霧多布は 今は観光地 当時苦労したのは食べ物 28年ごろ
青物は殆ど店には無かった 缶詰めと卵 札幌に戻る気持ち 鼻歌交じりに荷作りを始めたら、直ぐに集落に知れ渡り、帰らないでくれと家に集まってきた
何とか帰らしてくれと私の方から頼み込んだ 夜 往診していた胆石を持つ婆さんが玄関に倒れ込んで来て、「帰らないでくれ」とほぼ絶叫の声をあげた
菊婆さんに俺まだ若いんだと 手を握って残ると言った
妻からはNOってどうして言えないと 涙をぼろぼろ流しながら、荷物をほどいたんです
仕方が無いなあと思うんですよ(妻の言 1年経ったときの話) まあ来年は帰れると思った
舟に乗って往診した帰りにしけに会って、一晩中流された事が有った (九死に一生を得た) 今では考えられないような人の情が有った
「カルテの裏側が判って、初めて本当の医療ができる」 カルテの表には食欲が無い、
咳が出る お腹が痛い と書きますね しかしカルテの裏側にその人の人生がある
夫婦関係の問題 親子の関係 兄弟の関係 最後には経済問題まで私はカルテの裏に
あると思います
有る少年に往診を頼まれて行ったら どぶ板踏みならして、薄暗い家に入って行ったら、
横に成っている病人見たら母親らしい人だけれども 私は聴診器を当てなくても
その人の病名がなんであるかという事に気付ついた 結核だと
その人に日の当る場所にいなさいとか、良い栄養の有るものを食べなさいとか
本に書いてあるような事は言えるか 直ぐに民生委員を呼んで、ケースワーカー呼んだ
療養所に入れた そしたら母親の顔が明るくなりまして
その子供も落ち着いて勉強して 後になったら北海道大学の理学部に入って良い技師になって、母親と一緒に暮らしているのを一つの経験として
カルテの裏側を解れと こないだも札幌医大の学校に行ったときに聴診器をあてる医者になれと、問診を十分に聞く医者に成れと言ってきましたけど
聴診器を当てない医者、患者の顔を見ない医者が若い人にやられているでしょう
患者との対話を如何してしないのだろうかと思う
私は会話を絶対十分にしたいと思っている