2019年5月2日木曜日

吉井澄雄(舞台照明家)          ・照明家(あかりや)人生を語る

吉井澄雄(舞台照明家)          ・照明家(あかりや)人生を語る
東京都出身86歳、劇団四季の創設時のメンバーの一人でもあります。
60年以上に渡り国内外1500の間、演劇、オペラ、コンサート、舞踊作品の照明デザインをして来ました。
舞台上で時間や季節を自在に操り、人間の感情をも表す光と影の魔術師です。
1997年に紫綬褒章、2003年に勲四等旭日小綬章を受章されています。
日本を代表する多くの演出家、俳優、舞台美術家、建築家の人達と仕事をしてきた吉井さんの軌跡は、そのまま戦後日本の演劇劇場史と通じています。
吉井さんにそのあかりや人生について伺います。

劇団四季の創設時の10人のメンバーの最期の一人になってしまった。
いまは老人ホームに入っています。
オペラに行ったり、会合に行ったりほとんど毎日外へ出ています。
旧制中学の時に演劇部に足を踏み込みました。
当時は学校では女性が居なかったので、隣りの女学校に借りに行って演劇をこなし、女形はやらずに済みました。
公演は普通は学内でやりましたが、早稲田の大隈講堂でもやりました。
或る時に劇で頭が真っ白になり、セリフがどこに行ったかわからないし、お客の顔は見えないし、僕は役者の才能はないと思いました。
劇団「方舟」というグループを作って、日本語を綺麗に話すと言うために和田精さん、(日本音響効果の草分け)のお宅に勉強に行こうと言う事で和田精さんの家に行きました。
その時には照明の仕事をやっていましたが、上手くいかなくてきちっと勉強したいと言ったらそれは遠山静雄さん(日本の照明のパイオニア)だと言う事でを紹介して貰いました。

そのグループ全員が照明の勉強の為に行きました。
遠山宅では「舞台照明」というテキストを基に、光学、物理学、電気工学、色彩心理学、劇場史などを学びました。最初は大勢いた仲間が一人減り、二人減り、最後まで残ったのは、僕だけでした。
当時主導権を持っていたのは大道具の係でした。
照明をコントロールする部屋が客席の後ろに来たのが1963年以降です。
操作はレバーが沢山並んでいて、あっちへ行ったりこっちて行ったりしてレバーを操作して、全体を動かす時にはモーターを使って一気に動かすと言う事をやっていました。
仕事の場としては日比谷公会堂が一番多かったです。
そこで思い出に残っているのがパリから7人ぐらいのダンサーが来た時の事が記憶にあります。
僕は照明器具の処に命綱を付けてまたがって、フォローしていました。
赤いバラの花を用意してカーテンコールの日に天井裏から落としたら、彼女は気が付いて上を向いて手を挙げてくれて、それが一生の思い出になりました。
僕の家は西武新宿線の中井駅近くにあったので、帰宅時、高田馬場駅で終電車を待つホームに並んでいると、いつも長身の青年が声をかけてくるんです。それが、同じ沿線の上井草に住んでいた浅利慶太さんでした。
数年してから劇団四季と言う劇団を作るから一緒にやらないかと声がかかりました。
浅利さんはアヌイ、ジロドゥなどのフランス演劇を教わっていたんです。
1953(昭和28)年の7月14日パリ祭の日、創立メンバー10人が集まって劇団四季を旗揚げしました。
ジャン・アヌイの「アルデール又は聖女」で旗揚げ公演しました。
全員がただでやっていたので生活には困っていました。
餓えて生きていけないと思って、一時期、開局直後のテレビ局で働いていました。
映像感覚の勉強になりましたし、最新の調光装置はトランジスタの一種で、最新の照明の技術資料に触れることができました。
舞台に半導体を中心にした新しい照明設備が出来ればいいとずーっと思い描いていました。
料理番組などの照明をやっていると自分はなにをやっているんだろうとの思いはありました。
トランジスターを入れた調光装置を劇場に作ればコンパクトにできて、照明室を客席の後ろに持ってこれるし、女性でも操作できると思って、日本生命の大阪の本社にいって話して、それが取り入れられて日生劇場がオープンしました。
こけら落としは1963(昭和38)年でしたが、何より驚いたのが、開場1年半前頃から、次々と送られてくる演目ごとの舞台装置製作図面、模型舞台、材料見本、写真の数々です。
大変苦労しました。
自分たちの劇場やオペラについての知識や経験も、組織のあり方も、いかに貧困かということを思い知らされました。
上演されたオペラ「フィデリオ」と「フィガロの結婚」は古今未曾有の名演で、今も鮮やかに記憶されています。
照明家人生の大きな転機だったと思います。

日生劇場で一番印象に残っているのは越路吹雪さんとのリサイタルでしょうね。
僕の照明の原点は3つあって
①劇団四季 演劇の基本をそこで得た。
②ドイツオペラで音楽と光を結び付け得たこと。
③越路吹雪さんとのリサイタル 自分の照明の技法を作り上げることができた。
視覚的なもの、時間的な移り変わりを越路吹雪さんとのリサイタルの中で自分の照明の技法を作り上げることができた。
薔薇の花びらの色ごとに越路吹雪さんの衣裳に数秒ごとにあてて行ったりしました。
蜷川幸雄さんとの仕事も印象的でした。
浅利慶太さんとプッチーニの「蝶々夫人」をやったのが1975年だったと思います。
照明について私の方法について話(モノクロからカラーへそして明るく、最後の自決の時、白装束に白い布が引き抜かれて深紅になることで表現)をして、行いました。
舞台に出ている俳優さん、歌い手、踊り手、そう言う人達の演技、躍り、歌にまず寄り添う事。
演出家が思い描いている、視覚的な表現を実現すること。
演出家、作家が思い描いたであろうドラマの時間を照明が表現すること、この3つが照明の大事な役割だろうと思ってます。