島田妙子(児童虐待防止機構理事長) ・虐待を生き抜いて今できること
島田さんは子供の頃両親から虐待を受けた経験をもとに、虐待する大人の心を救いたいと全国で講演するなど、虐待防止の活動を精力的に行っています、
島田さんは神戸市の出身で4歳の時に両親が離婚、二人のお兄さんと共に父親に引き取られました。
その後7歳の時に父親が再婚、その再婚相手からの暴力が始まり、更に実の父親までもが加わって命の危機を感じるような虐待に発展します。
虐待を受けた当時の気持ち、現在の活動についての想いを伺いました。
小学校2年生の時に父が再婚をして継母と新しい家族として生活していましたが、或る日宿題をやっていてもうすぐ終わるころに「ちょっと来て」と言われて、「ちょっと待って」といったら、継母が凄い顔をして「なんで呼んだら直ぐに来いへんのや」といって、私の腕を靴べらでパーンと叩いたんです。
それまでは理不尽に叩かれたことはありませんでした。
後で聞いた話ではその後に謝るつもりでいたそうですが、「なんやその目は」と言う言葉を言ってしまった。
その日から暴力が続いて行きました。
一晩中寝たらいけないとか、ご飯を食べたらいけないとか、寒空のベランダに出されたりとか、おかしなことになってしまいました。
父に言いたかったが、父も大事だと言う思いがあり、言う事は一大事だと思って、父に言うと継母が何かされるかもしれない、でも心の中では早く気付いてほしいと思いました。
父に対しても「これはしつけや」と行った日から、なんとなくきつい言葉だったり、お湯を湯沸かし器を使っていたるするともったいないといって、後ろから蹴られたりしていて、それを父も気付いていて、父はそれを見たくないから帰りが遅くなるわけです。
そうすると継母もイライラして、今日はこの子はこんなんだったと父に言って、父に対しても攻撃が激しくなって、「あんたが怒らないから私がやってるだけや」といって、毎日叫ぶようになりました。
当時父も31歳で、或る日父親のプライドを傷つけるような言葉を発して、父は車のカギを床にバーンと投げつけました。
これで助かると一瞬思ったが、その時に取った行動は私たち3人を殴ったんです。
その後に表に飛び出して行きました。
その後父は「なんやその目は」と言って兄を殴りました。
その日から崩壊してしまいました。
今だから虐待と思いましたが、当時よその家にもある様な事で、それよりもちょっと酷い感じだと言う事があって、我慢はしていました。
そんな中で虐待に対して麻痺してしまうような感覚がありました。
直ぐ上の兄は早く大きくなったら働いてアパート借りて住もうという未来の話をしてくれました。
小学校5年生の時に、父は酒を結構飲んでいて、雪の降る日に父が包丁を持って素っ裸の私を追いかけて外まで出て行きました。
凍りつくような寒さだったので風呂にはいっていたら、父が風呂の戸をパーンと開けて入ってきて、髪の毛を掴んでお湯の中に沈めて、私は「これはあかん」、と思うと同時に「このまま死んだらこんな生活は終わるのではないか」と思いました。
直ぐ上の兄がなんとか止めに入りました。
暫くしてから父は無表情でしたが、継母に向かって「もうええやろう、これで気が済んだだろう」って言って、私は吃驚しました。
いつか優しい父に戻ってくれるのかと思って我慢をしうていたのに、だれに気を使って毎日私たちを殴って来たんだと、怒りの感情が物凄く起こりました。
「もう死にたい」と兄に言いましたら、「何言ってんねん、もうちょっとや妙子、親父は死んだと思え」と言われました。
中学1年位までは親を無視して喜怒哀楽の感情を無くして淡々ときました。
中学2年の時に、担任の女の先生(27歳)が「あなた そのあざはなんや」と聞いてくれました。
或る時父から初めて首を絞められました。
その時に上の兄が父を突き飛ばして助けてくれました。
父はガラスの灰皿を取って兄の頭を殴ったので、脳しんとうだったのかもしれませんが、私の中でもう兄は死んだと、もうこの家は絶対無理だと思いました。
父は病院へ行くと掴まってしまう事を恐れて、父は継母にバスタオルを持って来いと言って、裁縫道具を取りだして兄の頭の傷を父が縫ったんです。
この時父は泣きながら縫っていましたが、もう限界でした。
兄は「お前たちを裏切るようで悪いがもう家を出て行く」と言って出て行きました。
私ももう無理だと思って先生方に今までの6年間の事を言いました。
先生は親を呼び出して、「誰が見ても虐待は判る、もう言い訳は絶対許さない。」と言って下さいました。
今後暴力の形跡があったら即刻警察に連絡してこの子らは返しませんからと言って下さいました。
私は帰りたくないと思っていました。
もし帰りたくないのなら私の家に連れ帰ります、と担任の先生が言って下さいました。
その日で2000日に渡る虐待の日々が終わりました。
父と継母とはそのまんま別れました。
中学3年生の卒業まで養護施設にお世話になりました。
この2年間があったと言う事はその後の私の人生に取って物凄く大きいんじゃないかと思っています。
この2年間で身長が20cm延びました、食事の栄養、言葉の栄養、心の栄養だと思います。
結婚して3人の子に恵まれました。
虐待の連鎖はないと思っています。
私は虐待生活が終わってから沢山の愛情に恵まれましたので、自分は絶対優しいお母さんになると決めていました。
息子は発達に障害があると言われて言葉がうまく伝えられない分、甘えてしまうと言う事がありました。
或る時息子が暴れて、抱っこしながらも心の中ではいい加減に私を困らせるなと目が怒っていました。
黙れと、息子の口を押さえたことがあり、息子の顔を見て手をパッと離していたたまれなくなって、布団をかぶって情けなさ惨めさでワンワンと泣きました。
その後膝に迎えて「ごめんなさい」と言って、氷が解けたような感覚があり、抱きしめて泣きました。
それがなかったら虐待の道を進んでしまったかもしれません。
父は6年間暴力をふるって罪悪感を感じて、その後自殺しました。
だから今はそういった感じで活動をしています。
虐待については第3者の力は必要だと思います。
頭にカチンと来た時にアドレナリンが発生して、アドレナリンが強い感情を起こして当たり易い相手に向かってしまうのでアドレナリンをやり過ごす、長くても6秒と言われている。
6秒をやり過ごす、その後怒るか怒らないかを決める、叱っておかないといけないと思った時にはゆっくりと丁寧に穏やかに叱る。
虐待をされてきたことは封印してきました。
本当に優しかった直ぐ上の兄が急性骨髄性白血病に38歳でなりました。
骨髄移植もしました、結局白血病は治ったという言葉を頂いて、リハビリを開始した直後に肺炎にかかってしまって、治ったら自分の辛かったここのことで何かやりたいので手伝ってほしいと言われて、2週間後に亡くなってしまいました。
私は生きている、何でもできると思って、虐待防止は事が起こらないようにすることで通報は対処だから、通報しないようにできればいいなあと思いました。
講演では父の虐待の話をするので辛い思いをしていましたが、今は役に立っているんだと思っています。
(父は養護施設に「悪かった」と一言電話をして自殺してしました。)
大切なお子さん、夫婦、親子を大切にして欲しいと思っています。