高野進(東海大学教授・【特選スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言
(初回2013.12.13)
静岡県富士宮市出身 58歳、東海大学時代から頭角を現し、日本人選手が最も苦手と言われる種目の400mでオリンピック、世界選手権に3回出場、バルセロナオリンピックでは昭和7年のロサンゼルスオリンピック100mで吉岡隆徳さんが6位に入って以来、60年ぶりにオリンピック短距離での決勝進出を果たしました。
400mを44秒78は30年近くたった現在でも日本記録です。
現役引退後は母校の東海大学で指導、研究を続けるかたわら、日本ランニング振興機構を設立、理事長として子どもたちを中心にした、幅広い年齢の人達に走ることの楽しさを教えています。
日本陸連理事、北京、ロンドン二つののオリンピックの代表監督を務めた高野さんに伺いました。
湘南キャンパスには2万人の学生がいます。
7,8階建ての校舎が18在ります。
400mトラックの全天候型6レーン 公認トラックがあります。
19歳の時からここで練習してきました。
当時は土のトラックでした。
4年に一度のアジア大会では400m2連覇を含めて200,1600、リレーを併せて4個の金メダル、世界選手権大会でも3回連続で1991年東京世界選手権では日本の短距離界では初めて決勝に残って7位になりました。
400mの日本記録は自己更新を含めて10回以上出し、日本選手権400mは7回の優勝。
1984年ロサンゼルスオリンピック、23歳 初オリンピック。
開幕直前の競技会で日本記録45秒85を出す。
80~90人のエントリーがあったと思います。
準決勝の1組目で8位となり決勝に進出できなかったが、上出来だと思った。
1988年 ソウルオリンピック、27歳
一次予選45秒42で全体で2番目の記録で通過、二次予選も通過、準決勝第二組で44秒90(日本新記録)だったが、惜しくも決勝進出を逃す。
45秒00を2回くらい出していて、44秒台は壁だったが壁を破ったのは日本人として歴史を作ったなあと当時思いました。
1991年世界選手権400mで日本選手で初めて決勝進出、7位となり世界から注目を集める。
1992年バロセロナオリンピック
44秒90はもう限界かなと思って、1989年には400mを辞めて100mしか走らなかった。
1990年にアジア大会があり200mで代表で出て、これまでこの種目だけ金メダルを取っていないと言う事で、金メダルを取ることができました。(29歳)
ハイペースにシフトして400mも30歳で日本記録を出せました。
これが大きな自信になりました。
バルセロナオリンピックでは31歳になっていました。
教師としての仕事もある中で調整をしなければいけなかった。
世界選手権400m決勝進出で周りから注目されるようになりプレッシャーを感じるようになりました。
毎日トラックにカメラが来るような状態になり、メダリストになれるのではないかと周りが騒ぐようになりました。
自分ではファイナリストになりたいと言うようになり、ファイナリストと言う言葉が日本でも浸透するようになりました。
8月1日 一次予選余裕で通過、二次予選通過、8月3日準決勝1組で45秒09で4位
ゴール、ファイナリストとなる。
胸をなでおろしました。
決勝では8位だったが、力が残っていなかった。
決勝まで4回を5日をかけてやるので31歳の年齢では体力が限界で大変でした。
記録は45秒18でした。
400mを走り終わって1分後には全身に疲労物質が回ってきて、頭は痛くなるし筋肉は痛くなるし呼吸は乱れっぱなしで、30分ぐらいはまともには歩けなかった。
日本人としてスプリント種目で決勝に残ったと言うのは、個人としても嬉しかったが日本人としても嬉しかったです。
44秒78はトラックの中では日本記録として一番古い記録として残っているが、指導者としてはあまり喜べるものではない。
100mのタイムも上がってきているし、日本人のスプリント力も大分上がってきて400mもいずれ破ってくれるのではないかと期待しています。
400mは毎回死ぬつもりで走らないとだめです、自分のエネルギーを出しつくすわけですから、必死に逃げきるというそういうエネルギー系です。
今思うと荒業のような感じです。
苦労と言うふうには全く考えていなかった。
当時は日常の当たり前なことで生活習慣の一つになっていました。
振り返ってみると同じことはできないと思います。
小学校からずーっと走り続けてきたが、何故自分をそう言うふうに掻きたててきたのかと言うと、ゴールした後の先にいつも新しい光景があります。
新しい自分が待っている様な気持になってきて、スタート地点に立った時に、それまでの自分に別れを告げる気持ちになっていました。
400m走り終わると必ず新しい自分になっていると、それが次の自分に会うような気持で走っていました。
中学時代の同級生にったら多分別人だと思います、ほとんど人前では話せなかったし、スポーツもあまり好きではなかったし、オリンピックに出る様な選手になり、東海大学に勤めて学生に講義したりと言う自分は想像がつかなかった。
一方、どんどん自分自身の幹が太くなって枝葉が出て、色んな世界に自分の生きざまが広がっていくような、それがやってきて良かったことだと思います。
日本ランニング機構の理事長になっていますが、私の自身のライフワークとして走ると言う事は人類の挑戦なんです、ようやく2本足で立った時代から進化を重ねてきて、我々は走りながら進化をしてきた。
或る生物学者は「持久力を持った捕食者」と人間のことを言っているが、我々は狩猟採集時代に足の速い草食動物を追い詰めてしとめてきた。
その間に実はセオトニン、ドーパミン、アレドナリンとかが出てきて、やる気、粘り強さが人間自身に備わってきた。
さらに栄養素が運動することによって脳に送られていき、知能が非常に高くなってきた。
脳の成長には運動が欠かせないと言う事でランニングが欠かせないと思って、自分が走り続けてきたら、小学校、中学校時代あんなに駄目な人間だったのに、走り続けてきてまともな社会人になれた。
鍛えればいいと思っている人がいるが、ランニング技能が必要です。
走り方を疎かにしてしまうと一生直らない。
小学生時代のように脳が柔らかいうちに、ターゲットにしたアカデミーや色んな指導形態を取って走り方を覚えてもらっている。
寝たきりにならないように高齢者は元気でなければならない。
そのためには走ると言う運動も取り入れた方がいいと思っている。
散歩中に3歩走れば(10歩でもいいが)ずーっと走らなくても良いと思っています。
2,3セットやればいいと思う。
ランニング技能検定をやっています。
遅くてもいいから正しく走れるようにすれば、それも立派な目標となります。
日本ランニング機構を作った大きな目的の一つはランニングを技能として浸透させていきたいと言う事と、それを教える指導者を増やしていきたい。
日本人のファイナリストを筆頭に、子どもたちの走り方をよくする、高齢者の健脚、運動の指導など、これを総称してを日本人総アスリート計画と言う事で推進しています。