2019年5月24日金曜日

萩谷由喜子(音楽評論家)         ・オペラ史を彩った明治の女性を追いかけて

萩谷由喜子(音楽評論家)       ・オペラ史を彩った明治の女性を追いかけて
昭和29年生まれ、幼い時から音楽や舞踊を習い、立教大学を卒業後音楽教師やライターを経てオペラや女性音楽家の評伝を書き続けています。
明治150年プッチーニ生誕160年と言う年に当たる去年、「蝶々夫人と日露戦争」を出版しました。
世界の三大人気オペラの一つプッチーニのこのオペラは、明治の長崎を舞台にした物語ですけれども、沢山の日本の旋律が多く取り込まれています。
この曲を作るにあたってプッチーニは当時イタリア公使夫人だった大山久子から様々な協力を受けオペラを書きあげたと言うことです。
華やかなオペラ史の陰で埋もれていた女性たちの活躍を、これからも掘り起こして伝えたいと言う萩谷さんに伺います。

大体、年にオペラコンサートを合わせて300公演位いきます。
去年、「蝶々夫人と日露戦争」を出版しましたが、蝶々夫人の知られざる一面が結構出てきています。
「蝶々夫人」に関わった大山久子さんという女性のことに気が付いたのは1998年なんです。
蝶々夫人のオペラの中には沢山日本の旋律が出てくることには気が付いていましたが、プッチーニが何故取り入れることができたのかは、それほど疑問はありませんでした。
大山久子さんのお孫さんが書いた文章に出会って詳しくやりたいなあと思いましたが、20年近くかかってしまいました。
2017年からラストスパートを掛けてようやく書き上げました。

立教大学の経済学部を卒業しましたが、日本舞踊と邦楽をピアノなどはやっていました。
友人の紹介で音楽評論家の志鳥栄八郎先生の門を叩きました。
その後先生のアシスタントをやるようになりました。
祖母がお稽古事を沢山やってきた人で、日本舞踊、長唄、三味線、を習い歌舞伎にも行ったり邦楽、ピアノなどもやり、邦楽と洋楽が融合していきました。
大学卒業後、お琴の先生、ピアノ教室も15年やりました。
志鳥栄八郎先生のもとで音楽評論の勉強を並行してやりました。
最初の評論は「五線譜の薔薇」と言うタイトルでした。
女性音楽家10人の評伝集と言う事で、本を出版しました。

幸田 延(こうだ のぶ)と言う人の事を書きたくて妹の安藤 幸(あんどう こう)の姉妹のことを次に出しました。(2003年)
幸田 延の兄は海軍軍人・探検家の郡司成忠、作家の幸田成行(露伴)、弟に歴史学者の幸田成友。
幸田 延の資料はあまりありませんので自分で書こうと思いましたが大変でした。
書き始めたころは幸田 延のピアノ教室のお弟子さんがまだいました。
幸田 延が亡くなったのは昭和21年でした。
「幸延会」(こうえんかい)という先生を偲ぶピアノの同好サークルを半世紀以上続けて来ました。
その方たちに取材ができたことはラッキーでした。
伝説のヴァイリニスト、諏訪 根自子(すわ ねじこ)、ピアノでは田中 希代子(たなか きよこ)の評伝を出しました。

諏訪 根自子は或る時から突然活動を停止して、又晩年になってバッハの無伴奏全6曲のレコーディングをして、どうしてブランクのある方が一番難しいバッハの無伴奏全6曲の録音ができたのか、これも謎だと思うし、戦中ヨーロッパでナチスドイツのゲッベルス宣伝省から頂いたと言うストラディバリウスの謎など、自分で突き止めたいと思って書きました。
そしてようやく書きたいと思っていた「蝶々夫人と日露戦争」を去年出版しました。
越後獅子、君が代、さくらさくら、お江戸日本橋、など全部で8曲でてきます。
プッチーニは日本に来ていないし不思議だと思っていました。
ジャポニズム、日本文化への憧れの風潮が高まりますが、音楽の流出は判らなかった。
イタリア公使夫人だった大山久子から様々な協力を受けたと言う事が判りました。
それ以外にもパリ万博でミラノ公演をした川上貞奴もプッチーニは見ているんですね。
大山久子はヨーロッパの語学が堪能だったので、プッチーニは直接日本の音楽に関することを聞くことができました。
プッチーニは明治37年に「蝶々夫人」を初演する。
原作は4年前にです。
蝶々夫人は元々はアメリカの新聞記者の方が日本に滞在歴のある姉の話をもとに書いた短編小説ですが、デーヴィッド・ベラスコと言う劇作家が戯曲にしてその戯曲をロンドンで上演した時にプッチーニが見て、これだと思ったのが始まりです。

プッチーニの異国趣味の最初が「蝶々夫人」でした。
その後アメリカの「西部の娘」などを書くわけです。
最期は中国の「トゥーランドット」ですが、広く世界に題材を求めてゆきました。
生涯に12作で、数としては少ないが、一つ一つに対して磨き抜いたものを提供したと思います。
大山久子はイタリア公使大山 綱介の奥さんですが、幸田 延とは東京女子高等師範学校の小学校の同級生でした。
幸田 延はその小学校に日本に最初に洋楽を教えに来たルーサー・ホワイティング・メーソンに見出されました。
大山久子も長唄、お琴を習っていました。
二人は将来に渡って親友でした。
大山久子はプッチーニに日本のことを教えるにあたって資料を提供してもらったのが幸田 延でした。
当時は日露戦争で緊張していた時代でイタリア公使大山 綱介は政治の世界で、大山久子は文化の方面で尽力しました。

「蝶々夫人」は本当に旋律が美しいと思います。
日本の音楽の旋律をそこに自分のペーストを加えて源曲が判らない位に使ってしまう。
「豊年節」をオペラのなかで子守唄にしてしまう。
他にもドラマチックに変貌させる曲が色々あります。
いろいろ突き詰めて行く面白さがありました。
大山久子に関してはイタリアでの取材もありましたが、日本でも関係者から色々提供していただき資料、表紙の写真、本の中の写真なども提供させてもらって感謝しています。
凄く向上心、勉学への強い意欲とか、自分が学んだ事を後進に伝えて行きたいと言う両方の気持ちを取材を通じて当時の女性たちに対して感じました。
津田梅子が最初の女子留学生として、アメリカに留学するが、一緒に永井繁子が留学して彼女がアメリカでピアノを勉強して日本に帰ってきて、幸田 延も教えました。
今書きたいと言う人、戸田 極子(とだ きわこ)さんと言う方で、岩倉具視のお嬢さんで、戸田氏共伯爵夫人となりウイーンでブラームスとお付き合いがあった方です。