横山秀夫(作家) ・ラジオ深夜便のつどいin前橋
横山さんの代表作の一つ「64」が海外で翻訳されて、広く親しまれています。
今年ドイツミステリー小説海外部門で第1位に選ばれるなど欧米各地で高い評価を受けています。
そして横山さんは7年振りの新刊「ノースライト」が発表され話題になっています。
東京都出身、62歳、大学卒業後1979年上毛新聞社に入社。
以後12年間記者として勤務、34歳の時に「ルパンの消息」が第9回サントリーミステリー大賞佳作を受賞したことを契機に退社、作家活動に入る。
1998年に「陰の季節」で第5回松本清張賞を受賞し、その後も次々に話題作を発表しました。
講演会、「物語でしかかけない真実、群馬の記者時代が出発点だった」と題して伺っています。
「ノースライト」では、主人公は家の設計をする1級建築士、子ども時代はダムの工事現場で働く両親に連れられてあちこち点々と渡りをしていたという設定です。
ノースライトとは主人公の青瀬が自信を持って作り上げた家の特徴を表しています。
北側から家の中に注ぐ柔らかい光のことです。
その家族が家の完成後に入居していない。
ブルーノ・タウトの作品に良く似た椅子だけが置かれていた、と言うのがミステリーになっている。
ブルーノ・タウトは群馬県にゆかりのある有名なドイツの建築家。
「旅」と言う雑誌に連載を始めたのが、10何年も前でした。
高崎市のマンションに一人で借りていて 2,3年部屋にこもって書いていました。
心筋梗塞で入院したが戻っても、同様な状況で、最期まで一生ここから出られないのではないかと言う様な思いでした。
人間がそこに住むと言う事はどういう事だろう、みたいなことを深刻に考えていました。
定住しない生き方などを考えて建築家の方々の話を聞いて「ノースライト」と言う作品になりました。
記者時代に群馬県はくまなく回りましたし、愛着が深くて、記者をやめたときには東京に帰るという選択肢もありましたが、群馬県に住むことになりました。
書くことは特技だと子ども時代から思っていまして、上毛新聞に入れてもらいました。
最初は警察担当の記者でしたが、聞いた途端に飛び出してしまうことから、あだ名が「かっ跳びの横山」と言われたようです。
横山は事件記者になるために生まれてきた様な男だと、言われる様な記者であったことは確かですね。
段々と齟齬が生じてきて、34歳の時に辞めました。
自分自身に正義感、使命感と言うようなことが足りないと言う事に気付いたことが一つ。
犯罪者を紙面で断罪したりすることが、はたして資格が自分にあるのかと言うのが疑問の一つでした。
もう一つは新聞、メディアは人の心を世の中に伝えるのが苦手なメディアなんだと言う事を痛感したと言うのが二つ目の理由でした。
真実、事実は点のような研ぎ済まされたものでないといけないと言うような感覚に陥るが実際には真実、事実と言うものは面積があるものと言うふうに私は考えます。
小説では人間の心理を追うと言う意味では、小説の主人公は羨ましいなあと思ったりします。
記者と違って作家になってからは何かを書く為に誰かに取材に行くと言うことはめったにしない。
事実と想像をふくらまして書いた事の段差をいかに無くして一つのものとして見せるかと言うのが小説の或る意味技術であると思います。
割れる様な食器を買ってくれなかったとう事を書くだけならば、ノンフィクションで書けばいいと言う事で、人の気持ちが絡んだと言うことになればいくら事実を積み重ねても真実にはならないと言うのが、私の記者をやった最終結論です。
映像は人間を見せているが、人間は悲しいかな演技する動物です。
人間は相手の人の期待に応えようとする動物で、なにを自分に期待しているかはひしひしと感じるものなので、カメラも取材陣も無いたった一人だったらどういう状況で居るかという事は考えます。
小説の中には13歳の少女が出るが、雑談で聞いたりするが、最終的には自分以外の人は想像の産物だと思うところから始めます。
父親の側から見た13歳のひな子と言うのが一つの造形としてああいう形で現れいると言うことです。
追い詰められた時にひょっと頭に周りに現れる、あれあれとか、そうなると前と矛盾してしまうんじゃないのと本当に言うんです。
自分の意識と繋がっているんだと思います。
更に追い詰められるとその「ぴよぴよ」がいっぱい出てくるわけです。
ぴよぴよ云うんで「ぴよぴよ」と名付けたんですが。
意識下と意識の表層が繋がっているんだと思います。
「ノースライト」の時には最期の一回だけ出てきました。
自分の頭の中にある事だけで全てを担うと言うそういうやり方なので、逆に広く様々な情報は自分の耳に目には入れる様にしていて、後は常識を疑うと言う事が一番重要ですかね。
自分以外の人間が自分とは違う人間だと言う事を、発見するまでの過程を書くのがミステリーだと思っているので、自分の物差しで人を計ろうとしているのですが、実際には違うんだと言う事を気付くという過程がミステリーだと言うふうに自分では思っています。
エネルギーと言う事であるならば、おそらく負のエネルギーの方が人間の心の中のエネルギーとしては強いと思う、悔しさ、恨みとか負のエネルギーは正のエネルギーよりも圧倒的に強いと思う。
負のエネルギーですらエネルギーなんだから正のエネルギーへの転嫁装置を作ることが、
思っていたことの一つですね。
負のエネルギーを負のエネルギーとして放出したら、結局自分に返ってくるのはその何倍もの負のエネルギーだと言うことですね
正のエネルギーに変えて行くのは自己点検ですね。
自分がどういう状況にあるかと言う事を、知っているか知らないかと言う事だと思います。
組織の中にいると染まっていくことがあるかもしれないが、おかしいなとか、辛いなと思った時には自己点検することだと思います。
気が付かないまま負のエネルギーを膨らましてゆくと負の雪だるま人間になってしまう、それこそ恐ろしい。
「64」は組織と個人の小説で、個人が組織体を認めたうえでどう生きて行くかと言うのが一つの大きなテーマで、欧米人の個人主義が進んでいる、欧米の人達がはたして主人公の気持ちが判るか懐疑的だったが、自分たちにもそう言った事が底流にあると言っていました。
普遍性と言うことに対して、深堀して物語を作っていきたいと思っています。
(記載不足で上手く纏められなくて、理解しにくい所が多々あると思いますが、ご了承ください。)