2012年4月28日土曜日

江宮隆之(作家)         ・浅川巧 白磁の人

江宮隆之(作家)  浅川巧 白磁の人
浅川巧(あさかわ たくみ、1891年1月15日 - 1931年4月2日)は工芸・陶芸の評論家。
朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した
江宮隆之 1948年生まれ 山梨日日新聞で記者を務める 
山梨の人の評伝、歴史小説  時代小説多数手掛ける
1891年山梨に生まれた浅川巧は林業を学び 秋田県大館営林署に就職 
23歳で当時占領下に有った韓国に渡り朝鮮総督府の林業技師として働き始めます
山々に植林をするかたわら朝鮮の焼き物 白磁等の生活工芸品の研究、収集を始めました
民芸工芸品で名高い柳宗悦等に影響を与えました  
朝鮮民族美術館を景福宮内に設立 朝鮮民族美術館は現在も韓国民族博物館と名を変えて
運営されています

日本から独立して反日運動が激しくなる時代に現地の言葉や風習を学び生活に溶け込もうとした
浅川巧 現在も朝鮮を愛し朝鮮の土となり韓国の人に慕われています
青磁は気品があるが見る側も気を使ってしまう まるで女性を扱うように 
 しかし白磁は静かでおおらかで自己主張をしない まるで大切な友達に会うような感じだ
と博物館の館長が言ってくれた  その説明を聞きながら丸で浅川巧さんの様だと思った
浅川巧さんは山梨県の山村に生まれました 生まれる前に父は病気で亡くなりました
お祖父さんに育てられました お祖父さんから尊い事を教えてもらった  
仕事には尊い事いやしいさなんかないんだよ どんな理由が有れ人を差別してはいけないんだ
自然を大事にして共に生きる事が大事なんだよ 、

その土地に有る文化を大事にしようよ と言うようなことをお爺さんから教わった様です
山梨県立農林学校で林業を学び 23歳で朝鮮に渡ります 兄さんがいます 
7歳年上の伯教(のりたか)さんは美術を学んでいて一家で朝鮮に渡りました
日韓併合が行われたばかりの頃です ソウルにいって総督府の山林課に働く事になる 
当時は中国、ロシア、日本が木を切り出してあかっちゃけた山になっていてしまった
山を緑にすることに従事する 伯教さんは町を歩いていて白磁にふと目が行った 
その美しさに傾倒してゆく  学術的な面から研究した
其れに対して浅川巧は使う韓国人の生活面から白磁の見方をした   
「韓国の善」と言う本を浅川巧は出している 韓国人、日本人双方から愛と智慧の書と言われた
「朝鮮陶磁名工」と言う本も出している 

人々と共に暮らせ 当時ソウルにおける日本人は日本語で過ごしていた  
日本人が強制的に日本語を話すように仕向けていた
浅川巧さんはそのことに対して不思議さを感じた 
なんで自分の国なのに自分の国の言葉を話さないのか
自分の友達にハングル語を教えてもらいたいと読み書きしゃべる事を一生懸命勉強して半年で
出来るようになる
言葉を学んだことが種子の露天埋蔵法という世界的な発見につながる 
韓国に落ちたどんぐりの実は韓国の山の中だと発芽するんだと言う事を部下が韓国語で
話していることに対してそれにヒントを得て気が付く   露天埋蔵法を発見する 
林業をリードしたものでった  韓国の山は徐々に緑になるきっかけになった

上から目線で当時の日本人は韓国の人と付き合っていたが浅川巧さんは同等な対応をしていた
韓国の文化は素晴らしいものであることを柳 宗悦に教えたのが兄さんと浅川巧さんなんですね
柳 宗悦は民芸運動(民衆的芸術)を始めた  柳 宗悦は白磁を悲哀の色と規定した  
これに対して浅川巧さんは清浄無垢の色だと言っている 
この清浄無垢の白い色が朝鮮民族の心の有りようだと言うのが私は正しい指摘だと思います
白磁を含めて韓国の工芸を後の世に広めます と同時に浅川巧さんは白いワジチョノリと言う韓国の
民族衣装を着て、ボクリという履き物を履いて マングーンという帽子をかぶって
長煙管で煙草を吸ってまるで韓国人の様に暮らした   回りの状況に左右されずに暮らした  
人間として普通に生きた

今だから実行できるが当時100年前にはその様には出来なかった
浅川巧はキリスト教徒ではあったがキリスト教徒であったからその様にしたかといえばそうではないと思う 
同様なキリスト教徒が浅川巧さんと同じようにしたか
と言えばそうではなかったから 宗教観を越えたものが浅川巧さんをしてそうさせたものと思う
1931年 40歳で亡くなる 韓国人が集まってきて棺を担がせて下さいといってきた
浅川巧さんの友人で文部大臣にもなった安倍 能成(よししげ)は「人間の価値」と題して中学の
教科書にも載りました 
 
浅川巧さんは官位にも権勢にも学歴にも風紀にも寄らず
その人間の力だでけで堂々と生き抜いていった存在は人間の生活をも頼もしくさせる  
こういう人の損失が社会、朝鮮に対して大いなる損失であることは言うまでもない 
私はこれをさらに人類の大きな損失だと言う事に躊躇しない 
人類に取って人間の道を正しく勇敢に踏んだ人の損失ぐらい大きな損失は無いからである
日本が韓国を併合して35年間も支配したと言う事は 日本と韓国の両方にもっとあってよかったと
思う信頼や尊敬、友情と言う形にはできない心の問題を失いました 
その後長い間理解しあえない時間が流れました  
100年経って今浅川巧の心を間に挟むことによって 失われた信頼、尊敬、友情を再び手にできる
そういった場所に立っている様な気がします
   
浅川巧さんは韓国で二人目の子を亡くしてしまいました
 生れるとすぐに亡くなってしまいましたが、悲しみを追いやって奥さんにこの様に話しました
今度の事は悲しいことだがそれはそれで良かったかもしれない 
この子が朝鮮の土になって日本と朝鮮のかけ橋になってくれるかもしれない
いずれ僕たちも朝鮮の土になる  この子が朝鮮の土に眠るのが意味があるのだ と我が子の
死をこんな形で 受け止めると言うのは巧さん以外を知りません
又浅川巧さんの周辺にいた人達の心です その人達にいくら浅川巧さんが誠実な生き方をしても 
巧さんも韓国を植民地化した日本人の一人であることには間違いない事実です
その浅川巧さんを見る韓国の人達の気持ちは複雑であったと思います 

この韓国の人達と浅川巧さんは一対になっているのではないかと私は思います  
韓国の人達が浅川巧さんを受け入れたと言う事があって初めて成り立つことです
当時の韓国の人達の「許す」と言う心の事を私達は忘れてはならないと思います  
寛容さを忘れては韓国と浅川巧さんとの事を語ることはできないと思います
1945年8月15日以降 日本人のソウルに留まっていた人の家は襲われました 
それまでの報復をされた訳です
浅川巧さんが亡くなっても奥さんと娘さんは住んでいましたが、同じように襲われそうになりましたが、
浅川巧さんが住んでいた家だと判るとおとなしく帰ったそうです
1964年6月加藤松林人(画家)が浅川巧さんの墓を訪れようとしたが場所が判りませんでした  
林業所の人達が手分けをして何日か掛けようやく探したが 
林の中に転がり落ちていた墓を発見した その時に韓国の人が言ったそうです  

実の父の墓が壊れていたような悲しみを感じたとお墓を修復してくれました
今から48年前の事ですが 浅川巧さんの事が新聞に載り名が広がりました
4月2日の浅川巧さんの亡くなった日には日本と韓国の合同慰霊祭が行われています
今韓国の山は大きな木で緑に覆われていますが 韓国の人がこの木の37%は浅川巧さん(達が)
が植えたんですよと言っていました
日本と韓国の新しい友情ができつつあります  
「種をまく浅川巧」 浅川巧が卒業した学校で演劇を演ずるそうです
1984年に浅川巧さんの墓に韓国の人達が設置した記念碑に刻まれた言葉  
「韓国が好きで 韓国人を愛し 韓国の山と民芸に身を捧げた日本人ここ韓国の土となる」