2014年8月15日金曜日

相田一人(美術館・館長)    ・あんちゃんの戦死とヒグラシの声

相田一人(相田みつお美術館・館長) あんちゃんの戦死とヒグラシの声
詩集「にんげんだもの」を出版された詩人で書家の相田みつおさんは平成3年に67歳の若さで、お亡くなりになりましたが、彼が残してくれた様々な心に響く言葉は時代を越えて多くの人たちに勇気と希望を与えてくれます。
独自の世界を切り開いた相田みつおさんを動かした原点は、戦争で亡くなった2人のお兄さんと深くかかわっているようです。

父がそういう体験を原点に持っていたことは、意外と知られていない。
その点をぬかしては父の作品世界は成立しないだろうと思っている。
1924年 大正13年栃木県足利市で生まれる。  平成3年に亡くなる。
兄が二人いる 父は6人兄弟の3男  兄とは歳の離れた兄弟だった。
父は集中して筆を取って書くわけですが、疲れてくると気分転換に渡良瀬川が流れていて、二人の子供の手を引いて、釣りをしていたが、その時に自分の子供時代の思い出を語り出していた。
兄と一緒によく釣りをしていた思い出を話してくれた。
兄たちに対して、尊敬、感謝していた。
祖父が、家紋の刺繍など 刺繍の職人だったらしい。
父の兄たちは家が貧しいために、学業は優秀だったが、進学をあきらめて刺繍の職人なる。

3人で働くようになって、多少豊かになって、父から言われ足利中学に進学するようになった。
戦争に兄 2人が行って、兄 ゆきおは僅かで中国語が堪能になって、憲兵に抜擢されて、北京大学の学生たちと仲良くなり、柔道を教えていたりしていた。
兄ゆきおの仕事は反日分子を密かに摘発する任務だったらしい。
兄ゆきおから父宛に手紙が来る。 読み終わったら処分するようにと記載されていた。
自分が今やっている仕事について書いてあって、調書を書くときに、学生が危険人物だと書いたとすると、翌朝裁判もなしに処刑されてしまう。
優秀な学生たちで有り、将来中国をしょって立つような人たちで、自分にも弟たちがいて、とてもじゃないが処刑できないと悩む、自分の所に連れてきた学生は、全部無罪釈放にした、と書いてあった。 軍規に違反しているわけです。
判れば処刑されるし、家族も非国民と言う事なってしまうので、内緒で弟のみつおにだけは知らせておきたいと手紙をよこした。

あの手紙は残しておきたかったとずーっと父は言っていた。
恐しくてその場で父は手紙を燃やした。
昭和16年8月30日 戦闘に巻き込まれて、銃撃戦のすえに、撃たれて亡くなる。
電文が家に届いて衝撃を受ける。
そのころから、生きること、死ぬことを真剣に考えるようになった、と父は言っている。
当時名誉の戦死 英霊になったと言う事で、祖母は毅然と弔問客に対して対応していたが、夜になると、勲章も名誉も何にも要らない、お前さえ生きていればよかったと、泣き叫んで、すさまじい嘆きだった。

長男 たけお も亡くなる。
詩 「3人分」
「3人分の力で頑張れば、どんな苦しみにも耐えられるはずだ。
3人分の力で踏ん張れば、どんなに険しい坂道でも越えられるはずだ。
3人分の力を合わせれば、どんなに激しい波風でも何とか乗り切れるはずだ。
そして3人分の力を合わせれば、少なくとも人並みぐらいの仕事は出来るはずだ。
例え私の力は弱くても。
苦しい事ににぶつかるたびに、私はいつも心の中で そう呟いてきました。
3人分とは 一人は勿論 この自分。 気の小さい、力の弱い だらしのない この私の事。
後の二人は戦争で死んだ二人の兄たちの事。

豊かな才能と体力に恵まれながら戦争のために若くして死んでいった二人のあんちゃんの事。
学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の話すら咲かすこともなく、青春の硬いつぼみのままでしんでいった二人のあんちゃんの事です。
私の仕事はいつもこの二人のあんちゃんと一緒。
だから私の仕事は3人分で一つです。
二人のあんちゃんはいつも私の胸の中に生き続けてきました。
戦争が終わってすでに38年。 ずっと私の胸の中に生きてきました。
これからもそうです、私が生きている限りそうです。
そうでなければ、戦争のために自分の死とは全く関わりなく死んでいった、肉親の魂は浮かばれませんから」 

父は何かと言うとおじさん達の話をする。  身直にいる様な感覚を持っていた。
父は人間の強い面、弱い面 両方含めて人間を肯定する立場だった。
弱い面を平気で晒し出す人だった。
30歳ぐらいから独特の書体で書き始めた。
10代から本格的に書を始めて、20代はいろんなコンクールに入選。
父は書家であると同時に詩人、で有るので、自作自演 
「つまずいたって良いじゃないか にんげんだもの」 自分の想いを伝えるために、詩に合わせて独特な文字を作り上げていったのではないかと思う。

父が筆を取っている時は、周辺の空気がびりびりしていたので、子供心にそばに行ってはいけないんだと思いました。
文字の変遷はそばに居ながら判らない。
失敗の紙の山がたくさんあった。
(書の表現で、相手の心に食い込むようなそういう表現て、いったい何なんだろうな と思います)
どんなに詩なり短歌に感動しても、作った人の感動と、自分の感動とは一致しない。
言葉と書の間に隙間ができてしまう、嘘が交じってしまう、 自分で作ったもので有れば、書との間に隙間、嘘がない。
それが見る方に 強い印象を与えるのではないかと思う。

書の余白 大きな紙に書いて、トリミングをするが、mm単位で行っていた。
言葉の余白にも気を使って、全てを表現しないで、見る方に自由に解釈を委ねる。
そういったものが一体となって更に見る人にアピールしていくのだと思います。
「夢はでっかく 根は深く」  逆方向(上と下)のものが一つの作品に纏められている。
「幸せはいつも自分の心が決める」 この言葉に辿り着くには凄い時間がかかっている。
「道は自分で作る 道は自分で開く 人の作った道は自分の道にはならない」
「自分にとって一番大切なものは自分の命なんだよ だから全ての他人の命が皆大切なんだよ」
「どんな理屈をつけても戦争は嫌だな 肉親二人 私は戦争で失っているから」
肉親を失った眼から戦争を振り返ると、大変悲惨だった。

(人の痛みの判る人、其れを強く感じる こんな人がいっぱいいてくれたらと思ったりするが)
憂い  今の時代はあまり聞かれなくなったが、相手の悲しみ、苦しみが判る人が「憂い」を持っている人、其れが優しい人なんだと父は言っていました。
ゆきおあんちゃん(次兄) 優しい人だった。
たけおあんちゃん(長兄) 厳しい人だった。
次兄は心臓に銃弾を浴びて即死だったと思われて、其れが祖母にとっては苦しまずに済んでくれたのでせめてもの心のよりどころになっていたが、戦友から手紙が来て、心臓から少し外れて、苦しんで2時間後に亡くなったとの事だった。
2時間の間にいろんなことを話したようで、最後に言った言葉が「戦争と言うものは、人間の作る最大の罪悪だなあ」といって24歳で亡くなった。
相田みつおは命の詩人と言われるが、原点になったんだろうなと考えて良いのでは。

「ひぐらし」 詩 (挽歌)
「ヒグラシの声 あー今年もヒグラシが鳴きだした。 
ヒグラシの声は若くして戦争で死んだ二人のあんちゃんの声だ。
そして二人のあんちゃんの名を死ぬで呼び続けていた悲しい母の声だ。
そしてまた ふたりのあんちゃんの事には一言も触れず、黙って死んでいった寂しい父の声だ。
あー今年もヒグラシが鳴きだした。」

祖父は二人の死に関しては、一言も話さなかったが余りにもショックだったために、言葉に出す事ができなかった、と思う。
戦争は二度と起こしてはいけないと思う。
繰り返し繰り返し語り継がないといけないと思う。
美術館に訪れる人が、人間の命の大切さ尊さを、ちょっとでも感じて頂ければ嬉しいと思います。