2014年8月12日火曜日

雨宮剛(名誉教授)       ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(2)

雨宮剛(青山学院大学名誉教授)  我が体験、平和と和解を語り継ぐ(2)
英連邦戦没捕虜追悼礼拝 
フィリピンのバンダさんから教えても貰ったことは、私たち日本人は被害者であったと同時に、加害者でもあったと言う大変大きな歴史認識だったと思う。
日本人はとかく被害者で有ったことを大きく言いますが、加害者で有ったと言うもう半面はほとんど忘れてしまっている。
バンダさんは私の本当の恩人でした、その後の私の人生の諸活動、社会的国際的な活動はそこから出発していると思います。
戦争に勝った国々の人々に対して、私どもが加害者で有ったことは全く知りませんでした。
永瀬さんの仕事に大変興味を持って、イギリスで勉強した時に、愛想のいいご婦人だったのですが、私が日本人だと判ると、全く違った態度を示して、全く判らなかった。

後で親しい人に聞いてみると、戦時中に日本が英連邦の捕虜に対しての虐待をいまだに恨んでいる人が多くいる、多くの人は殺されて帰れなかった事を知ったことが、私の英連邦捕虜追悼礼拝に関心を持って、実行するに至った動機になりました。
追悼礼拝は1995年の戦後50年を機に 横浜市保土ヶ谷に在る、英連邦墓地で行われている。
今年20回になる。  1873人の方が眠っているという場所。 
一見、美しい公園墓地だが、むごい日本人残虐行為が原因でなくなった方々が眠っている墓地。
ジュネーブ条約 武器を捨てた捕虜は普通に市民だから、人間らしく扱えと言う条約を守っていさえすれば、無事に祖国に帰り愛する家族に会えることができた人々です。
戦争は絶対にいけない。  正義の戦争は無い。
いかなる理由があっても避けなければいけない。
平和的手段、外交的手段で避けなければいけない。

永瀬さん タイへの恵まれない子供達の支援、和解活動、平和活動をしてきた方、
英連邦捕虜追悼礼拝の呼びかけ人の一人。
きっかけになったのはオーストラリアのカウラ事件の教訓があると言われる。
カウラ事件で、オーストラリアで亡くなった日本兵を町ぐるみで、追悼していらっしゃる。
それに対する国際的答礼としてやらなければいけないという事で1995年 戦後50年を機に始めようとした。
カウラ事件→1944年 オーストラリアのカウラの捕虜収容所で日本兵捕虜1000人余りのうち、900人ぐらいが収容所で突撃して231人が亡くなり、オーストラリアの兵隊も4人亡くなった事件。
埋葬地をオーストラリア戦死者墓地の隣りの土地に整備して、桜並木でつないで、カウラ市民が毎年慰霊祭を行っている。
それに対する日本側の市民の活動として英連邦戦没捕虜追悼礼拝を始めた。
無我夢中で始めたが、20年続くとは思っていなかった。
若い世代で引き継いでくれる人が出てきて、ほとんど彼等に引き継いでもらっている。

被害者の国の家族、大使館の人に参加してもらっている。
国際社会へのメッセージが伝わりつつある。
日本のした負の歴史が広く理解されつつある。
私は子供のころ、将来は陸軍大将を夢見ていた。
1941年 昭和16年国民学校1年生の時 12月に戦争が始まった。
私は軍国少年の時代の産物でした。
戦争の認識が変わったのが、フィリピンのバンダさんの体験談、癒しと和解のメッセージのキャンプだった。 バンダさんに会えなかったら、今の私は無い。
日本軍の歴史の事を知っていたのでフィリピンには恐くて行く事がなかったが、1985年 私の教え子がフィリピンに海外青年協力隊として、行く事になる。
声を掛けてくれたので1985年 3月に出かけた。

私の希望通りの人に会えて、体験できたが、フィリピンの現実を知って、衝撃をうけた。
貧困が酷い、こんなに戦争の傷跡が深いと云う事を教えられた、その後2年間ぐらい思い悩んでしまう。
80%が貧困 70%ぐらいの子供が栄養失調 40%ぐらいの子供達しか初等教育が受けられない。
フィリピン大学 卒業生の就職がほとんどできない。(10%どうか)
帰って来てから、大学の教授の意味がない、教育なども意味がない、なんかフィリピンに役立つ技術があったら、何か助けられればいいかなあと、大学の教授をやめようと思った時期があった。
自分ができなくてもいい、この事実を次の時代の人に伝え、彼等に考えてもらおう、自分だけでは行き詰まってしまう。
次の世代に語り継ぐために、何かすべきだと、フィリピンに有志希望者の学生たちを連れてゆく、体験ツアーを計画するに至った。

一番大事な戦争の傷跡を訪ねる、体験者の生の声を聞く。
日本人に対する怒りをぶちまける様な人が一杯いた。 
生き証人から生の声を聞く事を第一の目的にした。
そして私たちの世代は何ができるかと言う事を考えてもらう。 こうしろとは言わない。
戦争責任を背負って、どういうふうに国際協力をしてゆくか。
許されて和解と言う最終ゴールに達するかという、計画を立てました。
1988年 2人だけでした。 フィリピンに対する関心が全くない。 マイナスイメージばかりだった。
二人もいるじゃない、とも云われた。(自費で出かけるツアー)
全部の体験を二人で、真正面から受けて、彼らのショックは大変でした。 なかば病気でした。
あまりにも衝撃が大きすぎて、精神的なアフターケアーが大変でした。想定外だった。 
焦らないで小さいことからしなさいと、諭した。
バタン半島での「死の行進」 体験者がまだいて説明してくれた。

学生が深い体験をするためには、3~6人まで。 
深い体験をして自分の心に刻んで人生を変える、どんな生き方をして行くかと言う所に深く影響する様な体験学習にしたいと考えた通りになりました。
フィリピン以外にもという声があり、タイが思いついた。
フィリピンとは対照的なところ。(独立国で植民地になった事はない、王国、大陸の一部になっている)
共通のこともある。  フィリピン、タイ両方体験した人もかなりいます。
タイでの体験 永瀬さんのゆかりの地を中心に、墓地の見学、少数民族が差別されているところ、孤児の教育している人がいて、知ったら拠点にして、お願いして宿泊費を無料にしてもらって、面倒を見てもらった。
タイは11回 フィリピンは16回 実体験する。

帰ってから、大量の知識、現実を見るので、レポートを書いて報告書を作った。
一つ一つの言葉が重い、言葉が磨かれてゆく、光ってゆく、宝石の様になってゆく。
私が一番衝撃を受けたし、一番学んだと思う。
其れがいろんな活動になってくる。
フィリピンの方たちとのかかわりも、アメリカの恩人に対して報告をして行った。
私の両親もクリスチャンで、信仰の深い両親でした、これが私の生まれながらにして与えられた遺産でした。
父は山梨県出身で、大変な理想家だった、信仰が深くて信仰をそのまま実行したい。 
もてるものは全員で分かち合う、という事をモットーとした、新しい村を築こうとした。
武者小路 実篤さんはトルストイの人道主義、ヒューマニズムで、新しい村を宮崎県に作りましたが、家との関係も少々ありましたけれど、父はヒューマニズムは駄目だと、最後は一線を画していた。

父も理想を実現できないで終わりましたが、離村して父は最後には一人になってしまったが、理想を持ったことは無駄にはならなかった、私が受け継いだ。
戦時中、激しいキリスト教に対する差別、偏見があった。
戦争がはじまると我が家は特高の監視下に置かれた。
聖書を焼け、神棚を置けと言われたが、両親は絶対に屈しませんでした。 是が私の遺産です。
権力に屈しない、信仰を曲げない。


追悼の言葉(雨宮道治 てる  両親)
「神様に言いつけられて、天使が海の底から一握りの砂を取ってくる事になった。
天使は波をくぐって砂を掴んできたが、浮かび上がってくるまでには砂は大方掌から流れてしまった。  天使はこれではと、また海にくぐった、やっぱり同じであった。
砂は掌から漏れてしまう。  彼は泣きべそをかいて神様に手を開いて見せた。
神様はそれでいいのだと神様はおっしゃった。」
行為そのものが大事、駄目でも努力する。 努力の過程が大事、意志力。
虚しい事はいっぱいあるが、でも続けてゆく、信念を貫いてゆく事が大事です。
そうすれば必ず、いずれは実る。 50年、100年経って理解されるかもしれない、そういった人がいたと言う事を伝えられるだけでもいいと思う。

「どんな時も人生には意味がある。  自分を必要とする誰かが必ずいて、自分に発見されるのを待っている。」・・・フランクル 「夜と霧」の著者
視点、目線を変える事によって、自分を必要としている人は一杯いる。
そういったことを発見する事は、教育ではないでしょうか。
その人に対して何がしかのことをして行くときに、人生は意味を持つんじゃないでしょうか。
お仕着せの人生ではなく、自分で発見して人間らしい自分しかできない人生を、歩むように絶えず言っていました。  その通りになりました。
永瀬さんが言っていました、雨宮さんの学生は皆厳しい難しい道を選ぶ、お仕着せの人生ではないからです。
名誉ある仕事を選ばないで、あえて人知れず良き技を、修行する人が沢山出てきたことは、彼等はクリスチャンには成らなかったが、クリスチャン以上に、クリスチャンです。 それを誇りにしています。
「信念を持って一生懸命取り組めば、必ず道は開ける」 経験からそう思う。
今私が取り組んでいるのは難民の支援です。