2014年8月10日日曜日

平田 周(個人学習塾経営)  ・長崎原爆、受け継ぐ命のバトン

平田 周(個人学習塾経営)     長崎原爆、受け継ぐ命のバトン
*台風情報のため中途から放送。
24万人のうち7万4000人が亡くなり、7万5000人が負傷しました。
爆心地に近い城山に住んでいた、平山さんの祖父、松尾あつゆきさんは妻と子供3人を失いました。
原爆で重症を負いながら生き残った娘、みち子さんとの二人だけの厳しい暮らしが始まりました。
その様子について、松尾さんが書き残した日記には、戦争によって引き裂かれる家族の苦しみが描かれています。
松尾さんの孫でみち子さんの長男にあたる平田周さんに伺います。

原爆が落ちた場所は長崎駅から北に2~3km離れたところ。 
「幸福のみことのり 妻を焼く火 いまぞさかりつ」  祖父が書いた句です。
祖父は奥さんと私の母と 母の妹1人 母の弟が2人 6人家族だった。
祖父は勤務中、母は魚雷を造る兵器工場で仕事をしていた。
4人は自宅にいたが、被爆して4人は亡くなった。
母は瀕死の重傷を負った。
それからは祖父と母はどん底の生活だった。
祖父の日記を5年前に私の手元で管理するようになって 30数冊あるが、今まで全く知らなかったことが書いてあった。

娘の看病で仕事も解雇され、その日その日を生きることに大変だった生活が続いている。
母は左に熱線を浴びて、皮膚がただれて指先まで垂れ下がっていた様で、逃げるのに邪魔でそれを引きちぎって逃げたそうです。
外傷としてはその傷が凄かった。  
後に皮膚の移植手術で、お尻の肉を腕に持ってきたりして、結果的にはケロイドが残ったが。
私は祖父には家に行って英語などを教えてもらっていた。
日記を見て母が祖父の懸命の看護があって、母が生き延びたことが判った。
それを読んだときには祖父には感謝、感謝だった。
祖父の看病がなければ、今の私はないのですから。
母からはすこしは聞いていたが、そんなにひどいとは思わなかった。

祖父はいっぱい句を残している。
「何もかも 無くした手に 4枚の爆死証明」 と言う句がある。
祖父は幼いころ養子に出されていて、養父母に育てられた。 
自分は実の親には捨てられたと思って生きてきた、と日記に書いている。 
結婚して、昭和20年に城山に強制疎開された。 6人で楽しい生活を始める。
せっかく築いた家庭を8月9日を境に壊されてしまって、4人を失ってしまった。
「何もかも 無くした手に 4枚の爆死証明」
この句は皆さんにお伝えしなければいけないと思う句です。
祖父は荻原井泉水主宰する同人に入って先輩には山頭火さんがいますが、日記に書いてあるが、山頭火さんたちは自分から寂しさを捨てた、捨てた寂しさと奪われた寂しさは違うと書いてある。
山頭火さんは長崎にも来たが、その時に祖父が案内している。

「身をよせにゆく 二人なら 皿も二枚」  
残された二人が親類縁者を二人がお皿2枚持って訪ねてゆく不憫さ、いままで本当に幸せな暮らしをしていた人たちが突然変わってしまう、この落差を この俳句は見事に表現しているのかなと思います。
原爆で亡くなられた方も大事ですが、残された人達の苦しみ、悲惨だったという事を伝えてゆく事も
必要じゃないかと思っています。
祖父からも、母からも詳しくは聞いていない。
母は頑張り屋さんだった。 
当時姉は看護婦になるために東京に出たが、私と弟を育てるためにきつい身体を酷使して働いた。 
今私がこういう年齢になって、大変だっただろうなあと思います。(56歳)
母が亡くなったのは55歳 診断は心臓死 永い間酷使した心臓が動かなくなったんでしょうね。
亡くなった日には弟は結婚していて、私が一番苦労をかけたんだろうと思います。
私は学校を卒業して、社会人になって長崎を出ました。
母を残して外に行くべきではなかったという気がする。
福島県の郡山に勤務していて、福岡への転勤が決まって、引き継ぎが終わった時に母の死の連絡があった。(結婚もきまっていた時期)

被爆二世は親から被爆体験を受け継いでない人が多い。
私も具体的な話は聞いていないが、日々の言動、戦争は絶対だめだと、母の意思はひしひしと伝わってきているので、原爆などはもってのほかだと、私の心の中にも刻まれている。
娘が2人います。 長女が結婚して孫がいます。
孫がこんなに可愛いいのかと、実際自分で手にするまでは思わなかった。
娘には祖父、母のことを話はしたが。

娘が全国中学生人権作文コンテストに応募、長崎県大会で優勝した作品。

「あの日以来生活も性格も変わりました。  ビデオの中で祖母がこう語っています。
祖母は今から55年前 15歳の時 学徒動員されていた工場で被爆しました。
城山に在った家は壊され、中学1年と4歳の弟、生後7か月の妹、母親も亡くしました。
自分の皮膚の移植手術を受けるほどのやけどを首と両腕に負ってしまったけれど、強く生き続けた祖母はその後、10数年間語り部として修学旅行の生徒に原爆の恐ろしさを語り続けました。
そして15年前55歳で亡くなりました。
今まで私は何度どなく戦争の映画や体験談を見たり聞いたりしてきましたが、いつも恐いと言う想いだけで耳をふさいだり眼をつむったり、してきました。
しかし、去年父が恐がっているばかりではだめだ、しっかり聞いて今から戦争をしないように伝えてゆく事が大切だと言って、一本のビデオを見せてくれました。
それが祖母の被爆体験ビデオでした。

その時初めて話をしている祖母を見、祖母の声を聞きました。
ほっぺのところがゆいに似ているねと母に云われて、そうかなあと嬉しくなりました。
それから祖母や祖母のお父さんが書いた体験談を沢山読みました。
そこにはやけどではがれた自分の皮膚を引きちぎったと言う事、やけどの跡が腐り何年も生死の世界をさまよってやっと生き延びたこと、それでも首から腕にケロイドが残り、赤血球の数が普通の人の半分しかなくずーっと病院に行っていた祖母の事、自分の妻や自分の子供達を自分の手で焼いて弔った曾祖父のことなど、本当は怖い地獄絵の様な事実が書かれていました。
しかし私はおばあちゃん ひいおじいちゃんに出会えたという気持ちが強く、おばあちゃんは私と同じ年ごろに必死で生きていたんだなあと、考えながら一生懸命に読みました。
かわいそうと言われるのが嫌で、何くそという気持ちでにらみ返していた、祖母はこういことも語っています。
又誰かが綺麗な手を取り換えてあげると言っても、私はそんなものはいらない、一緒に生きてきた手だからとも、 今の私が祖母と同じ状況だったら、多分自分のことだけ考えて、どうして私がこんな目にあうんだろう、今までの生活、今迄の私を返して、こう思うだろう。
でも祖母はだれを恨むのでもなく、自分が置かれた現実を見つめ、過去を振り返らず、之からどうしなければいけないのか、未来を見て生き続けたのだと思いました。
私は祖母をかわいそうと思ったり、同情する事は止めようと思いまいた。
前向きに生きた祖母を誇らしく思います。
今回祖母のことを書こうと思ったのは、本やビデオから55年前の真実を伝えてほしいと言う祖母からのメッセージを感じたからです。
唯ちゃん あなたと同じ年ごろの子供たちが、いえもっと小さい子供たちが、なにが起きたのか、どうして自分達が死ななければならないのか理由が判らず、命を落としてしまったのよと、私は祖母が頑張って生きてくれたから、ここにいられるのです。
これから私に、私たち若ものにできる事は生きたくても生きられなかった人達の分まで頑張って生きる事です。
最近、自分勝手な考えで、人を殺したり、自殺したり、むやみに人をいじめたりすると言う事を耳にします。
今の世の中は平和で有るはずだと私は思います。
けれども絶え間なく報道される事件の数々、私たちはこの平和な状態に甘え過ぎているのではないでしょうか。
平和を願い、生き続けた祖母たちのことを考えると戦争があったことや、苦しんだ人たちがいることを忘れそうになっている今の世の中に無性に腹が立ってきます。
今私たちがやらなければならないことは、2度と悲劇を起こさないよう、ずーとずっと祖母たちの願いを語り継いでゆく事、其れが苦しい状況の中で生き抜き、父へ そして私へと命を繋いでくれた祖母に対する唯一の恩返しだと思います。」

ゆいは今27歳で結婚して昨年子供が生まれました。
外国人と結婚してオーストラリアに住んでいます。
願わくば、孫に祖父の体験した事、母の体験したことを英語に書いてもらって世界に発信してもらっていけるのかなあと思います。 世界中に広げてほしいと願ってます。
被爆者が段々少なくなって、被爆二世、被爆三世とか家族の体験の継承を推進してゆくと言う事業が始まった。
被爆の継承にいろんな形があり、朗読、紙芝居、本にしたりしている。