2014年8月24日日曜日

本岡典子(ノンフィクション作家)   ・ノンフィクションと向き合うパワー

本岡典子(ノンフィクション作家)  ノンフィクションと向き合うパワー
兵庫県 1956年生まれ 58歳  先日婦人誌で90歳を越える健康なご夫婦をインタビューした企画が話題になりました。
子供の頃戦争特派員になりたかった本岡さんは関西学院大学を卒業後、放送局でアナウンサーとして働きます、
その後、現場で取材して、ノンフィクッションを書きたいと、放送局をやめて多くのものを取材し、ノンフィクションライターとして活躍しました。
2011年には「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生あいしんかくらこせい)」を出版し、評判になりました。
現在は現代ルポルタージュや歴史ドキュメンタリー等様々な現場を取材しています。
ノンフィクション作家として多くのものを取材する本岡さんのパワーの秘密などを伺います。

高齢者 100歳近い元気な夫婦のインタビュー 戦争取材をする中で90歳を越えてかくしゃくとした人に出会って、必ず元気な人のそばに素敵な奥さんがいらしゃるという事が多かった。
愛情表現は自然で仲むつまじい夫婦が多かった。
取材する中で、二人いることでお互いがいい意味で影響し合って、其れが長寿に結びつくのではないかとヒントを得て、其れをきっかけに今取材を進めて、来年には本に纏めたいと思っている。
それぞれに現役でなにか社会的な仕事をしていたり、社会貢献している、生き甲斐を持っていらっしゃる。
NHKの「今日の料理」を47年間担当した堀江泰子先生と堀江正夫さん 食生活が大変バランスがいい、充実している。
若い時に戦争を経験している、職業軍人だったと言う方もいて、若い時に心身を徹底的に鍛えていらっしゃる。
60代から新たに足腰の筋力を鍛えている。
そういったところが共通している。

取材で注目したのは、夫婦と言う関係性の中で、お互いがいい影響をしあう事で寿命が延びるのではないかと、元気に長生きしたければ夫婦の関係を巧くやってゆけば、大変大きなメリットがあるのではないかと、取材している。
長寿の夫婦はマイペース、干渉しあわない、対等で自由度が高い、其れがストレスレスな関係が長寿に結びついていると思いました。
夫婦が仲良く元気で100歳を越えるにはどうすればいいか、ヒントになる物を出版したいと思っている。
どうしてノンフィクション作家を選んだのか?
古いうちに育った事、子供の頃はベトナム戦争の時代だった。 
そのころのTV、新聞記事を読んで真実を伝える仕事をしたかったのが小さなころからの夢だった。
小学校3年生の時に1枚の写真に大変感動した記憶がある。
5歳ぐらいの男の子がうどんを食べている写真、その子がきりっとした澄んだ目で見つめている。
男の子の誇りみたいなものを感じて、懸命に生きている子供や、その人たちの姿を伝える仕事に就きたいと、その写真をみて、思いました。
戦争特派員になりたいと言うのが小学校の夢でした。
その思いは変わらず、ジャーナリストになりたいと、大学で新聞を学んで大学を卒業しました。

500年続いた家で、江戸時代、元禄時代に建て替えをして、築300年を越える重要文化財の家に中学まで住んでいた。
奥座敷に一人、目をつぶって、自分自身でいろんな物語を造る様な子供でした。
家も大きくて、敷地も広かったので幼稚園に入るまでは外に出た事がなかった。
3人兄弟の真ん中だったので母が下の子にかかりっきりだったので、父のそばにいることが多く、父が時事問題に興味を持っており、父の影響が凄く強かった。(農林水産省に務めていた)
大学は出たが女性の就職先のない時代だった。
ジャーナリストになりたかったが、TV局のアナウンサーに卒業後1年半で入ることになった。
アナウンサーの仕事を続けているうちに、自分の心になじむ物をやってみたいと思う様になった。
全国紙にエッセーを連載して、其れがきっかけになり、自分のお金で東南アジアに旅行して、アヘンの取材をして、地元の新聞社に売り込んだりしていた。

一番新しい作品は「流転の子」中国のラストエンペラーの一族の弟一族の物語で、清朝の最後の血を引く最後の皇女、女性の半生を描く。
書くきっかけになったのは阪神大震災時、愛新覚羅嫮生さん(福永こせいさん)が100m近くに住んでいて、お互いに糸を引きよせ会うと言う様な形になり、この物語を書くと言うきっかけになった。
「ラストエンペラー」を見て、めいに当たる方が阪神界に住んでいることを知って、いつかは必ず書いて見たいと思う様になた。 
取材を始めたのが映画を見てから20年後の事です。

夫は新聞記者で、9.11があったころ特派員で南アフリカ、ヨハネスブルグに住んでいて、映像を見たときに、ヨーロッパ、アメリカ、日本の視点ではなく、アラブ、アフリカの視点で物をとらえるることができる様な子供に育てたいと言う想いがあって、直ぐに二人の子を連れてヨハネスブルグに行きました。
世界が大きく急展開しているのに、変化をアラブ、アフリカの場所にいて其れを知りたい、子供たちにも感じてほしいと強く思いました。
ヨハネスブルグに住んでいたが、そこを拠点にさまざまな国に行って、何かに抱かれているとか、何かから生かされているというか、そういう視点をいつも持つ事が出来る。
アフリカに行ってからは子供達は絶対に食べものを残さなくなった。
感謝をする、生きているだけで幸せになれる子供達、幸福度が高い子供達になりました。

アフリカでの経験(2年3カ月)、阪神大震災の経験で愛新覚羅嫮生さんと連絡を取る事になった。
日本人であることは、勿論ベースですが、それよりも地球に生きる同じ人間であると言う目線をもつことができたと思います。
アフリカにいると自分が豊かなものをたべていると、それは誰かの犠牲の上に成り立っている豊かさではないかと考え、おろそかにはできないという想いがある。
愛新覚羅嫮生さんとはどんな人物か?
清廉なたたずまいの人で、品格の或る美しい言葉でゆっくり話される方です。
語り口が静かで、壮絶な流転の話をされるが、あまりにも静かな語り口が、むしろ一族がどれほどの悲劇を中国、日本で受けたかと言う事を感じる話し方でした。
愛新覚羅嫮生さんは74歳 福永こせいさん 日本人と結婚して5人の子供を育てた。
満州国の愛新覚羅溥儀のめいに当たられる方。
父は「ラストエンペラー」 溥儀の実弟愛新覚羅溥傑(ふけつ) 母は天皇家の縁戚 公家の名門嵯峨侯爵家の令嬢嵯峨浩さん(流転の王妃と呼ばれる)
子供は二人 一人は19歳で亡くなる。 嫮生(こせい)さんは2番目の娘、清朝の直系を継ぐ最後の女性。
 
何百時間インタビューする。 断片的な記憶しかなく其れをベースにしながら物語を展開するので証言者、歴史的資料探して、裏付けをしながら進めてゆくという気の遠くなるような作業でした。
気が付くと150年の物語ができ上ったという感じです。
取材をする中で、日本の戦争は終戦で終わったが、満州は日本の敗戦から地獄が始まった。
亡くなられた方、生きて証言してくださった方の魂に導かれて、不思議な力によって、書かされているというそういう物です。
亡くなられた方々が私の周りに寄り添っていると言う様な感じで、涙があふれてくる4年間で、精神的には血を吐く思いで書いた作品です。
夜なかに書く事が多く、睡眠を削って書きました。

取材の中で一番心を動かされたのは、5歳の女の子が生きて日本に戻ってきたと言う事、其れは人を生かしたのは人の力で有ったという事。
一番伝えたいのは、国と国は争うが、人と人は助け合う事も出来るし、命をつなぐことができると言う事を伝えたかった。
凄惨な旅を支えたのは共産党軍の名もなき兵士だったり、やせ衰えた日本人の捕虜だった。
赤痢でがりがりやせ細ったこせいさんの為に中国の兵隊が生卵を買ってきて食べさせたり、持っていては軍規違反になるふとんを運んでくれたりした。
マイナス40度の満州の冬をこのふとんを失わなかったことで生きることができた。
日本人も捕虜として食べるものも着る物もなったが、自分の服を脱いでこの震える少女に着せてあげて命を守ってあげた。

生きるギリギリの場所で敵とか味方とか中国人、日本人、何人ではなくて、ひとの情、命のリレーで小さな命が繋がっていったという事実を、書いていきたいと思った。
流転の朗読講演会をやっていて、人間、そこにいるのは何人であるとかではなくて、人間は国境を越えて真心で通じあうことが出来るんだと言う事が判ったという風にいってくださって、私はそういう事を大切に、人間の愛と言うものを書いていきたいと思っています。
伯父の亡くなるまでの200通の書簡が見つかって、青年士官の姿と家族の深い愛情と言うものを感じて、伯父につながる人たちから大切な言葉を託されたと思っていまして、取材を進めているところです。
次のテーマは太平洋戦争、真珠湾攻撃、潜水艦、海軍兵学校68期をキーワードにして取材を進めているところです。