2014年8月22日金曜日

鈴木信太郎(画家)       ・7日間の遭難から得たこと

鈴木信太郎(画家)   7日間の遭難から得たこと
昭和24年東京生まれ  30年ほど前から東久留米市にお住まいで、地元の川などを中心に風景画を描いています。
鈴木さんは大型連休中 5月3日 スケッチのために東京、埼玉、山梨にまたがる雲取山に向かいました。
しかし遭難してしまい7日間さまよいましたが無事生還しました。
夜中はラジオ深夜便に励まされ、特に遠藤ふき子アンカーの夜明け前の締めくくりの挨拶「いま苦しい状況でお聞きの方もあると思いますが、どうぞ一日で有ります様に」その言葉にじーんとなった、と言う事です。

体重は5kg減ってしまったが、2kgぐらいは戻った。
雲取山にスケッチに行ったのは5回ぐらい。  ここ3年間は雲取山周辺に行っている。
登山は20年間行っている 奥多摩、奥武蔵等に多く行っている
奥多摩駅からバスで行って、三条の湯(山小屋)にいって一泊した。
圏外と言う事で、携帯電話はつながらなくなっていた。
登り始めて直ぐに川に雪があるのに吃驚した。
5月4日 飛龍山(2000m以上)に向かう。 
 
尾根道に出るのに雪が溜まっているところがあった。
尾根道に出て、山頂に向かう道があるが、雪が残っていて道が見えなかった。
山頂まで行ったが、景色は見えなくて、昼を食べて直ぐに降りた。
雪がまだら状態で、道が見えにくかった。 段々コースから違うなと思った。
途中からクマザサの原っぱになり、自分の背丈より高いので、かき分けながらドンドン降りてしまった。
尾根道ははっきりしているので、そこには必ず出るはずだとの思い込みがあって、降りてゆけば間違いないんじゃないかと思ってしまった。
戻れなくて、クマザサの中で一泊しなければいけないと思って、そこで一泊した。

食料はパンが3個、レーズン半袋、チーズ等は有った。
熊の入る様な穴があり、熊の爪痕と思われる傷もあり、そこから離れて、寝る場所を探して寝た。
まっすぐ降りないで、横に行こうと思った。
大きな谷になっていて、谷が雪で真白に覆われているので横にも行けないと思って、谷沿いに降りていった。
河原にでて、その晩はそこで寝ることにしたが、食料は底をついていた。
寒さは、しのぎ切れないと言うほどでもなかった。(Tシャツ数枚あり、薄手のセーター、ジャンパー着て、その上に薄いレインコートを着用) かなりの寒さではあったが。

小さいラジオを持って行って、最初よく聞こえなかったが、2日、3日目当たりから受信がよくなる。
5月6日 河原から川沿いに下を目指す。
途中、頭から落ちる事があり、唇などを切ったりした。
不安感、あせりはあった。 水は川、沢があったので飲めたが、食べ物はなかった。
クマザサの芽の部分を食べてみたら、食べられるので、何本かは口にした。
リュックサックは邪魔になるので、5日目当たりで全部捨ててきた。
4時には明るくなるので、ラジオはよく聞いていた。
其れが励ましになった。
食べものが無くなって、口に食べ物が入らなくなると、其れなりの体のシステムが自動的に変わってくることが感じられた。

空腹でどうしようもないと言う事はなくて、何とか動けたことが不思議だった。
体温は低く保たれていた。  歩いていても汗をかくと言う事はなかった。
食べられないならば、食べられないなりの動き方に、モードチェンジする、そういう風になっていると感じた。
明日あたりには里に出られるのではないかと言う思いはあった。
夜なかに「カンカン」という音が聞こえた。 里が近いのではないかと思った。
8日目 5月12日になって、クマザサをかいて歩いていたら、山道に出ることができた。
圏外ではあったが、状況について家にメールを入れておいた。
これで生きて帰れると思って涙が出てきた。
電波塔が見えたので、携帯をみたら、圏内になっていて、直ぐ110番して、どちらですかと言われたところで電池切れになってしまった。 メールも送信された。

降りたところは最初に宿泊したところから7kmのところだった。(後での確認では)
里に下りた時に人家があったが、叩いたが人はいなくて、歩き始めたらすぐに警察が来てくれて、多摩の警察署に行き、直ぐに救急車で奥多摩の病院に入った。
所見では飢餓状態、脱水症状、内臓疾患との事だった。
最初に迷った段階で何故元に戻らなかったのかと、自分でも判らない。
経験した事のない、河原の夕暮れとか、山の感じとか、こういう風なことを描いてみたいと、山の中で考えた。