2015年5月7日木曜日

坂上和子(NPO法人・理事長)   ・病気の子ども達が輝く遊びを届けて

坂上和子(NPO法人遊びのボランティア理事長)     ・病気の子ども達が輝く遊びを届けて
もともと保育士でしたが、夫の病気でやむなく仕事を止めました。
子育て中心の生活をしていた時、元の同僚から声が掛かり、病院や家庭に出向く訪問保育士の仕事を始めます。
病気でも遊びを通して成長する子供たちの姿に心を動かされたと言います。
その後坂上さんは病院で子供達を楽しませる遊びのボランティアを始めました。
現在はボランティアからNPO法人の組織にして、新宿区を中心に東京と千葉の合計6つの病院でコーディネーターをしています。
6月で活動25年目を迎える坂上さんの道のりは決して平坦ではありませんでした。
こんごは入院している子供達に遊びだけでなく、入院生活そのものをよりよくしたいと活動している坂上さんに伺いました。

子供のベット数が27ぐらいあるが、その中で遊べる状態の子供が何人いるか教えてもらう。
現在ボランティアが70人いるが、4グループに分かれて、赤ちゃんがいれば保育士や育てた経験のある主婦などが、伺う。
病院のベッドで本を読んだり、歌ったり、おもちゃで遊んだりしています。
小学生ぐらいだとトランプなどしたり、遊んだりしています。
様々な年齢に合わせたおもちゃ、ゲームなどをしています。
30万円の助成を頂いておもちゃなどを買っています。
遊びを通して成長してゆく姿を見るという事はとてもこのボランティアのいいところであり嬉しい気持ちです。
母親からも凄く喜ばれています。

コーディネーター 学生、先生、音楽、絵、編み物等が得意な人、いろいろスキルをきちっと掴んでおき、子供とボランティア双方がマッチングする様にする。
病気の状態等を考えて優先順位を決めて、看護師、ボランティア、子供の様子を見て3者をコーディネートするのが私の仕事です、この仕事は現在私だけです。
30年前主人が入院 子供が小さく、子育て、介護、仕事をこなすのが大変で、子供が夜泣きをしたり、不安を体で表す様になり、体力も気力も限界に来ていて退職するしかないと思った。
天職だと思っていたが、保育に関する本などもすべて処分した。
国立国際医療研究センター (ボランティアを始めた)が 家の近くに有った。
小児がんで入院している子がいて、(悪性リンパ腫)1回行こうよと言われて、「ゆっくん」のところに行く事になる。
母親と親しくなるなかで、交流が始まるが(弁当を持って行ったり)、「ゆっくん」は亡くなってしまった。
2年半の付き合いだった。
この経験が凄く大きかった。

「歩みの家」(障害児の通園施設) 在宅訪問の非常勤の募集が有り、ある看護師から勧められる。
手話の学校にも行っていたので、一旦断るが、保健所、病院行ったりして子供や母親を助ける仕事で、地域とつないでゆく仕事であり、受けることにした。
週に3日 訪問保育士として仕事を始める。
発達の遅れの有るお子さんに対して、遊びの様子を見ながら、母親と障害の受容ができるように、保育園につなぐという仕事、病院などにも入って行った。
対象は長期であるというのが条件で、生まれた時からずーっと保育器にいる人がいた。
おもちゃで遊んだりするようになり、話をするようになり、友達と眼を合わせてにっこり笑う様になり、社会生活ができて、母やも感謝してくれました。
遊びを通して人と交わることが重要だと思います。

保育士、セラピスト等仲間がいてボランティアを立ち上げました。
婦長さんは、歩みの家の先生と遊んでいる子供達は普段の様子と違う、嫌いな薬を我慢して飲んだり、ストレスを発散している笑顔を見て、母親自身も明るくなったと言う事で、是非お願いしますという事で、遊びのボランティア誕生しました。
95年に「病院で子供が輝いた日」を出版して、読者から来てほしいと頼まれた。
1日2つの病院を回って、帰宅が夜10時を回ることがあったり、自分の子供に対して、家庭にしわよせがあったり、2000年に離婚したが、そのようなことが原因だったかもしれません。
46歳で大学に入学する。
人生仕切り直しをした。 
離婚を期に財産を4分割したら300万円有って、何かに投資できないかと思った時に、大学に行きたいと思って、昼夜開校制の明治学院大学、社会福祉学科に行く事になった。
働きながら大学に通う事にしました。

中高年で勉強するのは楽しいものだなあと思いました。
社会福祉士の資格が取れたこと、NPO論でボランティア活動をNPOにしてゆく授業があり、それがNPO設立につながって行って、大学に入ってよかったと思う。
2006年にNPO法人を設立。
提出する書類、会計もきちんとしなければならず、仕事量が大変多くて、難しくて、家計も大変で貯金通帳も10万円も切ってしまって、大変だった。
交通費200円も払うのが大変で、自転車を利用して賄ったりした。
雨の中自転車で家に帰って来て、タオルで顔を拭いたりしたが、雨なのか、涙なのか判らないほど
泣いたが、泣くだけないたらすっきりして、雨がやんで夕日が射してきてとっても美しい夕焼けだった。(涙ながらに話をする)

学生の時に「夜と霧」を読んで、ユダヤ人の人たちが収容所で憔悴しきっている生活をしていても夕焼けをみて、なんて綺麗なんだろうという風に語り合うシーンがあるが、それを思い出して、絶対に私には明日があると、その時は何のこれしきと自分に言い聞かせて、自分の人生の第3幕は始まったと思います。
大学の先生が、今後2年間の生活を寄付させてくださいと言ってきてくれた。
もっと病院の仕事に邁進してほしいと言われた。
その他に企業から寄付があったり、ホームページを作ってくれる人もいて、広報はとても大事で、活動が理解されるようになってきた。
製薬会社の人が400万円を4年間継続して、私たちに頑張ってほしいと応援してくださった。
子供のころから崖っぷちに立たされた経験があるが、その都度不思議と人に助けられたと言う事が有ります。

小学校2年に母が亡くなり、葬式もしないし、焼き場で灰になった母親を抱いて、その歳で無常と言うものを感じて、これは受け入れるしかないという経験をする。
父はアル中で暴君みたいな人で父も蒸発して、いなくなり親戚の家を転々として、子供ながらに遠慮する生活をして、兄が中学生になって、妹と3人で1960年上京した。
学校の帰りにデパートをふらついていて、エスカレーターに頭を巻き込まれるという大きな事故が有り、それがきっかけで児童養護施設に入ることになる。(5年生の時)
カトリックのシスターが経営する施設で、サンティイナ・グロッシというイタリア人の施設長で、手を大きく広げて「お待ちしていましたよ、貴方がたは神様の大事な子供で安心してください」と言って私を抱きしめてくれて、「大事な子供」と言われたことが、私の頑張りの根本ではないかと思います。
(涙ながらに話をする)
よその子供の為に体を張って守ってくれる大人は、私にとっては出会ったことが無かった。
眼の前にいるこの方たちは、そういう方だったという事は体験として凄く人生を変えるような出会いだったと思います。

施設では大人も入れて、乳児から高校生まで300人ぐらいの大所帯だった。
毎朝ミサがあり、演劇、精神的な強さを養うために登山、キャンプ、スポーツ等積極的に取り入れていた。
子供達が自立する、精神的に強くなる、人に対して優しくなる、運命が受け入れられるようにと言う教育を徹底してやってくれました。
シスターたちは子供達のために日夜貢献してくれて、非常に大きな愛と言うものを感じることができた。
日本の孤児救済のために懸命に働いてくださるという姿は本当に大きいものでした。
私の今の核になっています。
家族は小さくなっていて、病気になっても十分に子供に付き添えないという様な状況が入ってきたり、看護師さんも決して大人数で当たっているわけではないので、もっと病院が市民と一緒に入院している子供達の入院環境を作っていく様な、システムが整っていけばいいなあと思っている。
アメリカ、カナダに視察に行っているがボランティアが病院にたくさん入っている。

300床程度でカナダでは1200人のボランティアを抱えているが、日本では100人程度ではないかと思う。
日本ではなかなか病院にはボランティアを入れる事はない。
むこうではボランティアは病院の宝だと言っています。(駐車場、食事等がただになる特典がある)
海外のレベルに近づけたい。
1000万円の寄付をしてくださった方がいて、「お婆ちゃんの家」のような部屋の家賃にして、病院の近くで、そこでサラダとか弁当を作ってお母さん達にはこぶとか、子供が集まったり、付き添いのお母さんが一休みできる様な場所が有ればいいなあと思います。
病気は人を選ばないし、少しでも子供の笑顔がみたいと思うので、いろんな分野の人たちと一緒によりよくしていきたい、そういう病院にして行きたい。














 

2015年5月6日水曜日

中川李枝子(作家)        ・名作絵本は子育てから生まれた

中川李枝子(作家)           ・名作絵本は子育てから生まれた
中川さんは数多くの名作童話を書いている方ですが、「ぐりとぐら」の生みの親。
「ぐりとぐら」のシリーズ いまから50年ほど前に生まれた絵本で、これまでに10カ国語に翻訳されまして、世界中の子供達に読み継がれてきました。
1935年北海道札幌市の生まれ 今年80歳を迎えます。、
東京都立高等保護学院を卒業後、20歳で東京都内の保育園で保母と成り 17年間勤めました。
保母として働きながら結婚、出産、作家としてもデビューし創作活動を続けてきました。
デビュー作は「いやいやえん」と言う保育園を舞台にした童話です。
当時、子供そのものが本に出てきたという驚きを多くの読者に与えまして、厚生大臣賞などいくつもの賞を受賞しました。
この半世紀、子供達を見つめながら数多くの絵本を生みだしてきた中川さんに名作絵本の誕生秘話、戦争の時代を本と共に過ごした少女時代、保母として作家として子供たちへの思いを伺いました。

「ぐりとぐら」 50年ほど前に生まれた絵本です。
保育園のかわいい子たちのために描いたにすぎないのですが、皆さんに愛されて幸せです。
保育士になった時に園長さんが子供たちが毎日喜んでくる保育をしてほしいとの事だった。 
子供達を見ていると遊んで遊んで遊んで、伸びてゆくんですよね。
如何に上手に遊ばせるかに尽きると思います。
本を読んだり、わらべ歌で遊んだり、くつろぎの時間が有るが「本の時間」と子供は呼んで、楽しみにしていた。
「本の時間」は一日のハイライトだった。 10人居れば10人が楽しめるものを選ぶという事、目の前にいる子をがっかりさせないで、期待に添うようなものを選ぶというのが、私の使命でした。

20歳で保育士になる。  日本一の保育士になろうと思いました。
無認可の名もない様な保育園だったが、新人でそこで主任保育士になった。
その場所は41万3600平米の駒沢オリンピック公園になる前の野原だった。
私は北海道生まれなので、すっかり気に入った。
面接にいった時は私一人だった。(昭和30年)
「みどり保育園」(「青空保育園」がその前身) いったん解散になるが天谷保子さんがやりたいとの事で、原っぱの隅っこにバラックの様な建物を皆さんの協力で建ててもらって、新たに保育園を始めたのですが、一人ではできないので一人雇おうという事になって、主任保育士と言う事で私がそこに行く事になった。
最初は20人ぐらいだった。
子供達とは張りあって遊んだりしていた。(椅子取りゲーム、紙飛行機飛ばし等)

園長先生はてっきり大金持ちだと思っていたらそうではなかった。
本の購入も責任重大だった。
子どもの人気のある本のシリーズを買って頂て、あの本を読むことによって、本を子供たちも毎日休まないで来たと思う、その中でも「ちびくろサンボ」が凄い人気だった。
園長先生が「ちびくろサンボ」を真似てホットケーキを皆の前で焼いてくれて、食べさせてくれた。
皆嬉しくてよろこんで、私はもっと喜ぶものを食べさせようとして、話ならできると、カステラにして、大きな卵と言うところから発想して、話を動かすのに、主人公が小さくなくてはいけないので、野ねずみかなと言う事になる。
野ネズミたちがここはなんて素敵なところだろうと歌を歌う。
「ぐりぐるぐら ぐりぐるぐら ぐりぐるぐら」 と言って子供たちが囃し言葉で大合唱になって歌う。
そこから「ぐりとぐら」の名前を貰う。

子供に興味をもったきっかけはいっぱい本を読んだこと、戦争中子供時代を過ごしたが、いつも本に飢えている時だったので、手当たりしだいに読んだ。
太平洋戦争が始まった4カ月後に小学校に行く。
小学校2,3年ぐらいから世の中が厳しくなって、親とお茶の間が暗くなっていく感じで、父と母がいつもひそひそ話し合っていた。(出征、赤紙、疎開とか)
知り合いも赤紙がくるような状況にあった。
学校に行くのは楽しみだったが、学校に行ってもサイレンが鳴ったらすぐ家に帰れという事でしょっちゅう退避訓練だった。

校長先生は朝礼で、今は日本はドンドン勝ち進んでいるとか、兵隊さんのおかげで学校に来られると勇ましい話をするが、戦地で勝っているのに何故空襲が有るのか、それはスパイのせいだと言ったりする。
家では父親の本棚があり、そこにグリム童話集が有り、これは読めると思っていたが、判らなかったりした。
小学校の入学祝に父からアンデルセン童話集を買ってもらったので、それを元手に友達から貸したり借りたりしていた。
友達に貸したアンデルセン童話集を先生が外国の本は読んではいけないと取り上げてしまって、私のところに戻ってこなかった。
取られてしまったことは親には決して言わなかった。

3年生の夏に疎開で札幌(母方の実家)に姉妹でゆく。
疎開する前に母からは、これから一人でやって行かなくてはいけないという事で、いろんなことを厳しくしつけられた。
空襲はなく札幌はのんびりしていた。
父は友人の家で読まなくなった本などを集めてきて、持たせてくれたが直ぐ読んでしまった。
祖父母の明治大正の文学全集の方が面白かった。(振り仮名がふってあったので読めた)
小学校4年生で終戦を迎える。
価値観が一気に変わってしまった。
教科書は大切なものだと思っていたが、教科書には墨を塗られてしまったが、この事は忘れてはいけないと思った。
中学は福島に行くが、小学校に間借りしている様な状況だったが、GHQの方針だったらしくて図書室が有った。(机ひとつが有りそこにどこからか集めた本が置かれていた)
或る日、岩波少年文庫の「二人のロッテ」が有り読んだら、面白くて授業中も読んでいた。
それから次々に古今東西の名著と言われる児童文学を読んだ。

平和とは何かと言う様な事を本から学びましたが、でも面白いからいろいろ読んだ。
結果的に何が一番面白いかと言うと、子供とは面白いということ、いろんな子供がいて、一人ひとり個性的で一生懸命生きている。
子供相手の仕事をしたいと、そこに行ったと思う。
「子どもはみんな問題児」というエッセー集を出すが、「子どもはみんな問題児」は私の子供観。
皆それぞれ個性があって、一人ひとり違っていいと言う事を、あまり気がつかないのかと思って。
子供を他の子と比べないこと。
東京都の青少年非行化審議委員を務めさせていただいた事が有るが、非行化する少年少女は、人間関係のつまづきからだと皆さんがおっしゃる、そういう子供達は幼児期に存分に自分を表現しないで来たという風に専門家の人はいいますが、幼児期迄にしっかり育っていれば、あとは心配ないんだなと思って、私などは反って希望をもって学ばせて頂いた。
子供の喜びに敏感なお母さんは良いお母さんだと思う、喜びに敏感なお母さんは悲しみにも敏感ですから、子供の心の状態をちゃんと掴んでいると思うので。
17年間やって、何が判ったかと言うと、子供はお母さんが大好きだという事です。







2015年5月5日火曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第8回 (26.10.9放送)

保坂正康(作家)  昭和史を味わう 第8回 ”昭和天皇実録”を読む(2)(26.10.9放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/10/8.htmlをご覧ください。

2015年5月4日月曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう 第7回 (26.10.5放送)

保坂正康(作家)   昭和史を味わう 第7回 ”昭和天皇実録”を読む(1)(26.10.5放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/10/7.htmlをご覧ください。

2015年5月3日日曜日

保阪正康(作家・評論家)      ・昭和史を味わう (第16回) 特攻隊員とその遺書

保阪正康(作家・評論家)       ・昭和史を味わう  (第16回)太平洋戦争の日々(2)
特攻隊員とその遺書
特攻隊員の遺稿、手記を色々読んできたが、彼らがどういう想いでこの戦略に参加したのか、ずーっと疑問に思ってきたが、軍事の問題ではなく、日本人の文化、死生観と関わり合う問題という様な気がする。
3つの視点
①特攻作戦とは具体的にどういう作戦なのか。
②この戦略はどうして採用されたのか。(他の国に例のない作戦)
③参加した特攻隊員たちは何を考えていたのか。

①特攻作戦とは具体的にどういう作戦なのか
日本は軍備では連合国とは全く話にならないほどの開きがある。
軍備の差を人間で埋めてゆく、人間が爆弾になる。
人間が操作してぶつかってゆくので立派な物を造る必要が無く、戦費が無い日本が経済的に考えてもこういった武器しか作れないと言う事で行われた人間爆弾だと思う。
昭和19年10月25日、特攻隊第一陣 海軍兵学校の70期生関行男隊が最初に行く。
関さんは、「こういう作戦を取るようであれば日本ももう終わりだな」と言った、と言われる
フィリピン・レイテ海戦の時に出掛ける。
それ以後、沖縄戦まで続くが、延べ4000人が特攻作戦に従事したといわれる。
100%の死と言うのは、軍事作戦の上では全く常識外れ、有り得ない作戦だと言われる。
軍事指導者たちの責任になる、いろいろ問題を含んでいるところ。

②この戦略はどうして採用されたのか。(他の国に例のない作戦)
一般的には海軍の第一航空隊司令長官中将大西瀧治郎が考えたといわれるが、必ずしもそうではなく、連合艦隊がドンドンアメリカと対抗できなくなる。
体当たり攻撃しかないのではないかと、自然に海軍の中で声が上がってきた。
決断はそのポジションにいた人が決断するわけで、それが大西瀧治郎だった。
戦争を終わった後で大西氏は自決している。 
大西氏が亡くなったことに依って大西氏だけが、特攻作戦を主導したと言う様な形になっているが
ちょっとそれは違っているのではないかと思う。
陸軍も特攻作戦に呼応して行くが、陸軍は志願にしようとするが、現実には命令で本人が断れない状況に追い込まれる。

③参加した特攻隊員たちは何を考えていたのか。
学徒兵、昭和18年学徒出陣 大学教育を受けていたが、途中でやめて軍に入った人達。
少年兵。(志願兵)
重要なのは陸軍士官学校、海軍兵学校とか軍人の中からは特攻作戦には従事させなかった。
ここに国の指揮官たちの意識があったと思う。

「きけわだつみの声」 
特攻隊の手記、遺族の話も聞いているが、涙なしに語れないことが多い。
慶応義塾大学経済学部学生だった上原良司さん 特攻隊として亡くなる。
遺書などを書き残しているが「きけわだつみの声」にも一部掲載されている。
自分を自由主義者であると、軍事国体制に納得していないという形の遺書になっている。
しかし、この時代に生まれた以上、命令を受けたからにはそれに従うという遺書が残っている。
歴史への遺言だと思う。
「生を受けてより20数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。・・・御両親様に心配をおかけしたのは兄弟の中で一番でした。 それが何の御恩返しもせぬうちに、先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くすことが孝行する事であるという日本においては、私の行動をお許しくださることと思います。
私は明確にいえば自由主義に憧れていました、日本が真に永遠に続くためには自由主義が必要であろうと思ったからです。
これは馬鹿な事に聞こえるかもしれませんが、それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし真に大きな目を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的な主義だと思います。」

京都大学学生 林市蔵さんの遺稿 林さんも母親もクリスチャンだった。
父を早く失い母親一人の手で育てられた。
遺稿はクリスチャンとしての信仰で書かれている。
「お母さん とうとう悲しい便りを出さねばならない時が来ました。・・・お母さんのことを思うと泣けてきます。 安心させることも出来ずに死んでゆくのがつらいです。・・・私もいつも傍らにいますから、楽しく日々を送ってください。お母さんが楽しまれることは私が楽しむことです。
全てが神様の御手にあります。 
神様のもとにある私たちにはこの世の生死は問題になりませんね。私はこの頃毎日聖書を読んでいます。・・・私は聖書と讃美歌を飛行機に積んで突っ込みます。
私はお母さんに祈って突っ込みます。 お母さんの祈りはいつも神様が見そなわしてくださいますから、私は讃美歌を歌いながら敵鑑に突っ込みます。」
本来検閲で残らないが密かに母親に送っていた。
クリスチャンとして天国で母と会おうと言っているところは、この遺書の重いところでうね。
聖書と讃美歌を積んでいって、讃美歌を口にしながら航空母艦にぶつかって行くという事ですからその覚悟と言うものは信仰の中で矛盾を抱えながら亡くなって行ったんだと思いますね。

国民向けの特攻隊に向かう一般兵隊の人の時のラジオ放送が二つ有るが、上記2人とはだいぶ違うニュアンスです。(陸海軍が公認した国民向けの放送であろう)

特攻隊員の突っ込む間際の記録があるとは海軍の参謀達から聞いている。
無線機がON状態になっており、記録はあるが燃やしてしまったと言うが、個人記録メモは残っていて、「今日もまた、海軍の馬鹿野郎といって散華するものあり、いかなることが有っても部外秘」
最後に恨みの言葉で亡くなって行った。
こういう書けない事はいくつもあったのかと聞いたらあったと、こういう書けない事はいっぱいあったと、言っている。
時代の中で作戦に自分が加わることの悲しさを言っていったものもいる。
特攻隊員のかなりの人は心の中では納得できないと、思いながら、仕方ないのかと呟きながら亡くなって行ったと思う。
冷静にこういった作戦は正しかったのか、こういった作戦に依って人はどれだけ傷つくのか、こういった作戦は日本の伝統的文化、死生観に反するのではないか、と言う問題意識を持たなくてはいけないと思う。

軍の上層部の命令した責任は重い。
特攻隊の人たちは、自分たちを最後にしてほしいと、自分がこうやって亡くなる事によって、日本が平和になり、日本はこれを生かして世界に誇れるような国になってくれと書いていますので、その気持ちをくみ取らなければいけないので、単なる英雄としてのみ見るのは、彼等に失礼だと思う。
或る老人が私を訪ねてきた人が来て、人払いして話をしてくれました。
特攻の知覧での整備兵で、勇躍果敢に出撃する人はほとんどなく、失神したり、失禁したり、呆然自失、涙を浮かべたりしているのを見ましたと。
それを私は飛行機に乗せたんです、そのことによって罪の意識は捨てきれないで戦後生きてきましたと言っていました。
特攻作戦にかかわった人達は皆苦しんで生きている、その苦しみを我々は忘れてはいけない。
特攻と言う作戦は軍事的には問題だったということを前提にしながら、より精密に見てゆく事だと思う。




2015年5月2日土曜日

田中利典(住職)         ・花に祈る 山に祈る

田中利典金峯山寺一山宝勝院住職)            ・花に祈る 山に祈る
59歳 古くから桜の名所として知られる吉野山、鎮座する金峯山寺は平安の昔から修験道の聖地として信仰を集めてきました。
田中さんは昭和56年、金峯山寺に入り広報を手初めに、宗門の要職を務めてきました。
田中さんが歩んできた修験道は、役 小角の行者が開いたと伝えられ、日本古来の神道と伝来してきた仏教とが出会う事で生まれました。
山伏の姿で山をめぐり自然の中に身を置く事で心を整え、人々の苦悩に寄り添えることが修行の目的とされます。
30年余りに渡る吉野の山での修行で見えてきた心の世界とはどのようなものか、伺います。

吉野の桜は今から1300年前に役 小角の行者が吉野から南へ24kmにある大峰山山上ヶ岳があるが1000日の修行をされて、修験道という独特の御本尊を祈りだされた。
これを蔵王権現というが、この権現様を山桜に刻んで、お祭りをした。
其伝説から、吉野では御神木が山桜であると伝わりまして、山桜を大切にしてきました。
権現信仰が広がってゆくと、権現様を訪ねて、信仰のあかしに山桜を献木して山桜の名所になって行った。
権現様は青黒いお姿をしていて、顔は恐ろしいが青黒い肌は意味があり、青黒は仏様の心が有る。(柔和な仏様の姿と荒々しい姿 自然が持っている恩恵と脅威)
桜は厳しい掟が有り大事にされてきた。
献木によって山全体が桜の木になってきた。

自然の中に神仏がおり、桜の木に権現様がいて、自然とつながっており、大地ともつながってゆく。
我々の修行がいろんなものと一体となって大きな力を得てゆく、そういう世界が有るが、その一つの信仰の形が権現様の御神木。
大峰おくがけ修行 吉野から熊野まで170kmに及ぶ山道を8日間掛けて歩き通す。
25歳の時に初めてゆくが、歩くのに一生懸命で疲れ果てて、何回か行くが、山が嫌いだったので、7~8回目でようやく山の修行の良さを知るようになる。
それからは楽しく行けるようになった。
人間「我」があり、歩いて同じことをしていると、任せるままに歩かざるを得ないので、心の我執が消えていく様な感じ。
「懺悔、懺悔 六根清浄」と登りながら声を出して歩くなかに自分の中の我が消えてゆくし、六根(眼耳、鼻、舌、身、意 )も清浄になってゆく。
繰り返しの中で自然の中で生かされている自分を見つめ直す。

日本人の生きている感覚で「晴れ」と「褻(け)を行き来するが、同じ生活をしてゆく(「褻(け)」と考える)と心がくたびれてきて 、しまいに心が病んでいって、病気になるが、それを時々もとに戻さなくてはいけない、それを晴という。
「晴れ」とは日常ではない、非日常の聖なるものに触れる。(元旦、3月3日、5月5日とか)
今の日常は「晴れ」と「褻(け)」を失ってきている所が有るが、山の修行は日常を離れて、8日間朝から晩まで歩いて、歩いている世界が神仏の聖なる世界、聖なる世界で非日常を体験する。
それが山修行の素晴らしさです。
自然の中で生かされて自分がいる、自然の一部として自分が生きている、そういうことを体験できる。

父親(田中得詮)は国鉄に勤めながら、山伏修行に打ち込んでいましたが、勤めを辞めて専門の僧侶になりました。
5歳の時に父に連れられて大峯修行に行くが、母に聞くと1歳半の時に肺炎になり、死にかけたそうで、蔵王権現様に願を掛けて5歳になったら連れて登るのでどうか命を助けてほしいと言って、助かることになり、5歳の時に父が一緒に私を連れてきた。
「拝み屋」ということを言われて苦しかった時期がある。
15歳で得度、僧侶の道に入る。
修行で気付かされたのは「人間は自然の一部でしかない」ということ。
阪神大震災、東日本大震災、御嶽山噴火とか、災害が続いているが、報道される中で異和感を感じた、想定外の大きな被害、想定外の津波、想定外という言葉の裏には自然が悪い様な、自然に善悪がある様な、風に聞こえた。

自然には善悪は無い。
人間は自然の中で生かされている事を忘れているのではないか。
自然への畏怖、恩恵、感謝を忘れつつある社会だからこそ、単なる登山ではなく、そこに神仏がおられることを前提に祈りをささげてゆく。
共生は共死でもある、そいう目線で自然に対して畏敬の念をもつ事は大事で、人間の都合で自然を考えてしまうので、想定外という言葉を生んでしまったのではないか。
土にまみれながら歩いてゆくが、登山靴ではなく地下足袋を通して土の暖かさ柔らかみ、土の力を感じるのが修行。
修験道ルネッサンス 
仏教はグローバルな宗教 神道はローカル 修験道はグローバルとローカルが融合してできた宗教で超ローカル。

人が生きてゆくのにどう寄り添ってゆくかと、父が生涯を通してやってきたとするなら、私も山で世話になったものを里で生かしてゆければと思っている。
林南院 父が建てたお寺。
今年の4月からこの寺を拠点に新たな修行の道を歩きはじめる。
今年60歳になり、今年から一人前になるのかなあとの想いもあり、直に寄り添って里で生かしたいと思っている。


























2015年5月1日金曜日

伊藤 真(弁護士)        ・憲法を胸に生きる

伊藤 真(弁護士)           ・憲法を胸に生きる
昭和33年 東京生まれの56歳  大学生の時に、一人一人を大切にするという憲法の理念に感銘を受けて、司法試験を目指し東京大学在学中に司法試験に合格しました。
伊藤さんは弁護士として活躍する一方で、憲法の理念を実現できる法律家を育てたいと司法試験の予備校で教鞭を取ります。
20年前 36歳の時に、司法試験などの受験指導を行う塾を設立し、独自の勉強法を提唱してカリスマ塾長と呼ばれるようにもなりました。
市民や学生向けに憲法を解説する講演を年間150回以上行っています。 
一人ひとりが憲法の理念を胸に刻むことで、自分らしく生きること、そしてより暮らしやすい社会を作る事ができいると呼び掛けています。

子供の頃は技術者になりたいと思っていた。
外交官になりたいと思う様になり、法学部に入って法律に触れた。
先輩の現役の方に伺って見たら、自分のイメージとは違った外交官のイメージだった。
陸奥宗光幣原喜重郎吉田茂というようなイメージをしていたが違う様な感覚を受けて一気に冷めてしまった。
外国に出て何かしたいとの思いがあり、人脈を作ろうと思った。(遊び友達を増やす)
大学2年の時に憲法との出会いが有ったが、その後アメリカの友人(ジャーナリスト)から、アメリカに帰って弁護士になりたいと言う事だった。
日本の法律で一番大切なのは、憲法で、憲法の中で一番大切なのは何かと問われて
①基本的人権の尊重
②国民主権
③平和主義
と答えたが、一つだけと言われて答えられなかった。
よく日本人をやっているなと言われてしまって、くやしくて調べた。

3つの根底には、「個人の尊重」という考え方が有る。(憲法13条) 初めて知って衝撃を受ける。
個人は誰も皆違うので、それでいいんだ、人と違う事は素晴らしいことだと感じとれた。
父の関係で中学の時にドイツに2年暮らしていた。
ドイツに行くときに飛行機で出掛けたが、国境線が見えない、国境、国って何だと不思議に思った。
ドイツで生活する中で、いろんな国籍、いろんな民族、いろんな人に出会って、良い人もいればとんでもない人に出会ったりもする。
人種も国籍も関係ないな、人それぞれで、それぞれの人生が有る、ということをおぼろげに感じながら帰ってきた。
「個人の尊重」という言葉を知り、人はみな同じ、人はみな違うという感覚を持てた。

ドイツから帰って中学の学校に初めて登校するときに、自分だけ鞄の肩への掛け方が違っていて先生から注意を受ける。
ルール、規則が大嫌いだった。
人と違う事は素晴らしいと憲法で言っている、このままでいいんじゃない、それに気付いた。
憲法を学んでみたら、法ではあるが法律ではない事に気付いた。
憲法は国を縛るための法で「誰に守れ」かというと、政治家、官僚、裁判官、公務員に対して憲法を守れと言っている。(国民は守らせる側。)
通常の法律は国民に守りなさいという法律。
人権  長い歴史の中で人類が苦難を乗り越えてきて戦い取ってきたもの。

日本に戻って来てから、日本の歴史、文化に関する本を読む。
高校では弓道をやり、武士道に対して思い入れをもった。
日本は軍隊をもっていなくて、アメリカに守られている、自分の国を外国に守られるというのはおかしいと思っていた。
戦争で罪もない人たちを殺す事は出来るかと、自分に問いかけた時にそれは恐ろしさできないと、
プロの軍人に頼もうと思った。
自分がやりたくない恐ろしいことを人に押し付けることになり、それはもっと卑怯なことだと思って、にっちもさっちもいかなくなってしまった。
外交官になって何とかしようと思って、その後憲法に出会って、憲法9条の意味を初めて理解した。
「戦わない」 この選択肢があるのではないかと思った。
刀を抜かない、相手が来た時に、その人の人格、人間的魅力、その人のたたずまい、に恐れをなして相手が攻撃して来ない、それほどの人物になれば襲いかかってこない、武士道の究極の姿だった。
なんだ日本の憲法はそれをいっているよと。

自分たちは崇高な理想と理念を高める事に依って、外交力、政治力、経済力、文化の力など軍事力以外の力を高める事に依って、誰も手が出せない様な国を作り上げてゆく、そのことがこの国にとっての一番現実的な安全保障につながる事を、何十年も前に憲法を築いたんだと吃驚した。
憲法を仕事にしたいと思った。
人身の自由 逮捕された時の刑事手続きに関する条文が多いが、戦前の治安維持法などで人々の自由が、大変な圧政のもとで人権侵害が有って、にがい経験の中ででき上ってきた。
日常的な刑事、民事の事件の依頼を受けたりしているが、必ず憲法の話をしている。
貴方らしい生き方をこれからして行けばいいので、過去のことをとやかく言う人はいないので、自信をもってやり直していけばいい、其れを憲法は後押しをしていると言ってあげる。

憲法の事を一人で1000人(20年間で)に伝えるよりも、1000人に伝えられるような法律家を1000人送り出した方がいいのではと思う様になり、教える方に軸足が移ってきた。
法律は道具なので、その先が重要なこと。
塾を立ち上げた当初からやっている事が二つある。
①法律家の先輩等に来ていただいて講演をしてもらう。
 第1回 1996年に薬害エイズ訴訟 その後ほか原発とか こういう使い方ができるという事を知ってもらう。
②マスタリーツアー 外国に行って、人権裁判所、慰安婦、戦争責任の爪痕など、事実を聞いてみたり自分で見る、そして自分で考えてもらう。(経験的知性が大切)
当事者の話をしっかり聞くという事は全ての基本だと思います。

憲法を学んだことによって、自分の生き方の指針、価値基準の様なものになった。
多くの人に知っていただきたい、伝えたいと思いが強くある。
人間は進化するものだとは確信している。
憲法は人類最大の発明だと思っている。 
憲法で強い力をもった人たちをコントロールする事によって、間違いを最小限にしてゆき、理想を掲げてそれに向かって現実を少しでも前に勧めてゆく事を人類は繰り返してきたと思う。
非常識と言われた事柄が、人類が進歩する事によって常識になってゆく。
昨日より、今日もうちょっとより良い生き方をしたい、明日は今日よりもうちょっと良い生き方ができたらいいな、と人は生きていったらいいと思う。
憲法を伝えることによって、理想、志に向かって少しでも前に進めてゆくという生き方に意味があるのではないかと思う。