里見まさと(漫才師) 浮き沈みが教えてくれた僕の漫才人生
ボンチおさむさんと漫才コンビ 「ザぼんち」は1980年からの漫才ブームの中で頂点を極め、目標の上方漫才大賞を獲得、二人で歌った恋のボンチシートも大ヒット、漫才師初の武道館ライブも実現させました
然しブームが去って人生のどん底を経験します
その暗いトンネルを抜けたまさとさんは、亀山房代さんとのコンビで2度目の上方漫才大賞を獲得、その後ボンチおさむさんと「ザぼんち」を復活させ、今再びステージで輝いています
浮き沈みの人生は何を教えてくれたのか、お聞きしました
芸人さんは、笑わす商売をしている芸人さんは、舞台に出たときにあの笑いがあるから、辞められない、毎日あの笑いを求めて40年間やってきました
昭和27年 兵庫県姫路市の生まれ プロ野球の選手になりたかった
高校1年の時に他校で山口隆さんが3年生で、このボールを見たときに3年生まで練習してもこのボールは打てないと、ぬけていましたね
あれを見てから野球を断念した
軟式野球の方に移って、全国大会まで行ったが、大好きなものを途中でやめることが、こんなに後悔するんだと、今も頭の中から離れない
弟子入りするときも、おさむと組んだ時も、亀山房代と組んだ時もそうだし、コンビを復活したときもそうだけれども、答えを出すまで辞めない、という事が 高校1年の時に硬式野球部をやめたそれがそのまんま残っている、いまも後悔している
或る時週刊誌をみたときに、西川きよし師匠が、20歳で家を建てるという小さい記事が出ていた
若手の中で、やすし、きよし等があって、あの位のところで家が経つんだと単純に思った
この世界しかないと思って、親、先生から反対されたが、兎に角やると言ったら、兄が応援してくれた
おさむさんとコンビを組んだ時に答えを出すまでは止めないと心に決めた
NHKから新人賞を頂戴するが、その後後輩に抜いて行かれ、厳しい状態ではあった
おさむさんは高校の同級生 私のことはユニホームの印象しかないと思う
おさむさんは教室ではうるさい、文化祭等で漫才をやっていたりした
私は漫才学校で勉強していたが、そこで初めておさむさんに出会う(卒業1年目)
一緒にコンビを組もうかという事になる なかなか面白い動きをしていて、新人賞を頂くが、その後5~6年は何か足りなかったのではないかと思う
昭和55年 漫才ブーム やすし、きよし ビー&ビー セントルイス 3組でゴールデンタイムで18.8%
ディスコみたいに、我々が、ドンピシャの方々がびっしりいる中でやりたい放題にやらしてもらった
飛行機でスチュワーデスからサインを求められる(吃驚したが) あの8分のオンエアーから人生ががらりと変わった
橋さんの歌で「潮来の伊太郎」歌い おさむさんが「あれー」と言って大受けする
夜最終の飛行機で東京に行く、東京で仕事をして、朝大阪に帰っていて、仕事をしてまた、東京に行って仕事をするというパターンだった
家には10分~15分いる程度だった(シャワーあびたり、汚れものを持ち帰ったりするだけ)
楽屋ではただ新人の漫才師だったのでごろりとも出来なくて、きつかった
師匠からも楽屋は気をつけろといわれた
歌を出してから、又変わった レコードが売れて、ザベストテンで3カ月 2位になった
「トリ」をやるようになる 漫才界初の日本武道館ライブ開催 1万人
体は、腕のところから点滴を打つが、両腕とも真っ赤かで、其うち手の親指と人さし指の間から注射をして、最後には足から点滴してもらった
漫才ブームは3年で終わる 毎日がそれまでこわかった
いつかは冷めるものだとは思っていたので
いい仕事が無くなってくると、コンビもうまくいかなってゆく、
そして昭和61年、13年間のコンビを解消 私から3年間休止しようと言った
一人になって、こんなに仕事が無いのかと思うほど無かったので毎月7~9万円程度だった
ほとんど家でごろごろ、又ごろごろ という感じだった
墓参りを4日出掛ける 堰を切った様に涙が出てきて、墓を抱きしめて「もうあかん」と言って、涙がぽろぽろ出てきた 3年間 そんな仕事の状態だった
全国ネットの話が舞い込む 亀山房枝さんと番組に出る事になる
男女コンビでそのままいけるのではないかと周りに言われる
私から亀山さんに漫才のコンビの話を話しかけると、考えてOKの返事を受ける
条件を出す 結婚しても構わない、同棲しても構わない、彼氏がいようが構わないが、子供だけは3年間我慢してくれといったらOKしてくれた
周り皆から反対されたが、がんとして受け付けなかった
スタートしたが、全然うけず、2年半したころに、ねたが一つ出来て、お客さんを笑わせることができた
6年目で奨励賞、8年目で上方漫才大賞を取ることができた
亀山さんが出産でコンビ解消(12年のコンビ) 平成13年
会社から直ぐにおさむさんとコンビを組んだらどうかと言われる
漫才から離れられないなあとの想いもあり、50歳からのコンビを組むことになる
「ザぼんち」でスタートするが、之はこれで酷かった、うけなかった
16年間離れていると一つにならない ぎくしゃくしてしまっていた
3~4年は誤魔化したような漫才をしていた
パニック病をしてしまう ラジオの生放送通に血圧、脈が上がってしまった(ストレスがたまって)
点滴を打ってもらって家に帰った
ドアが閉まる時、外と遮断される時が怖くて怖くて、新幹線、飛行機に長く乗るときにはどうしようもない
薬さえあれば、飲まなくても大丈夫だが、薬が無いと駄目
静かな海へ一人で行ったり、城下町をぼーっと見ていたり、お寺の杉林の中でぼーっとしていたら物凄い心地いですね
13年間おさむさんとやっていたときには、売れていきたいと必死でやっていたが、亀山さんとの12年間はギブアップすることはできないので、答えを出したいと、ここでは終われない、もういっぺんチャレンジしようと思った、再度おさむさんと組んだ時には、もう一遍漫才大賞をとるとか、もう一遍答えを出したいですね
2013年9月7日土曜日
2013年9月6日金曜日
下川裕治(旅行作家) ・緩くて深いアジアと私の旅
下川裕治(旅行作家) 緩くて深いアジアと私の旅
長野県松本市生まれ アジアをテーマにした旅行記やエッセーの分野の第一人者の一人
慶應大学在学中から学生新聞などに旅行記を書き、卒業後は新聞記者となりました
その後はフリーとなり、「12万円で世界を歩く」で旅行作家デビュー
以来、「バックパッカー」スタイルで一般の観光客のルートとは違う、下街を歩き、庶民の暮らしや、食べ物を中心にした旅行記やエッセーを書き続けています
約40年間の旅や取材から感じたこと、自らの人生を語っていただきます
月に2回は旅行に出かける 日本にいる方が多いと思う
父親が高校の教師をやっていたので、転勤が多かった
慣れてきたら、どっかに行くような感じだった
小学校は野球少年、高校は何故か山岳部に入る
海外を旅をするようになって、旅行に行く人が山岳部の人たちという、多く出会いがあった
高校は松本だったので、山は多くあり、よく登った
大学は学生新聞で活躍した 物を書くことに興味があった
書いたものとしては旅行記、エッセーが多かった
学生運動の末期の時代だったが、初めてアジアに行ったのが大学2年のころだった
学生新聞が政治的なものに影響された時代から別なものへの関心へと、移り始めた時代
就職したのが大手の新聞社、書き続けたいなあとの想いがあった
外国と接するところに行きたいとの思いもあった
記者生活は3年目に辞めた
静岡支局にいたが、もっと自分でやりたいことに近づきたかったが、ジーッと日本の中で記事を書くことにイライラし始めていた
気軽に会社を辞めて旅に出る(27歳の時、当時は景気が良かった)
知り合いがドイツにいたので、ドイツからアフリカ、アジアを回って日本に帰ってきた
デビュー作「12万円で世界を歩く」 34歳 自分の旅が本になるとは思わなかった
1年近い旅から帰ってきて、30万円は残っていたので、毎日部屋で自分で食べるものを作って、働く気がしなかった(旅行で一人遊びがうまくなった)
友人がもっと社会復帰しないといけないと心配してくれて、書く仕事を提供してくれた
ドンドン仕事が来るようになった
フリーになってからも、健康物、株式とか仕事があった(バブル期)
タイに行ってくる 1年近く日本を離れると、関係が切れてしまうので仕事が無くなる
週刊誌の人と一緒に旅行した時に、タクシーを乗るのに同乗者を集めていたら、一緒に行った友人から変な旅行をしている人間だと言われた(節約旅行)
バブル期だったので海外で節約して旅行することが、異常に思われた
大好きな旅を書いてしまった これが売れてしまった 一つの転機となる
旅の中で何かか起きてくれないと書けない(意図的に起きたことはつまらない)
旅での視点が変わった
街を書く材料を見つけるためには、ひたすら歩いたりして、書く材料を見つけた
視点だけ研ぎ澄ましていかなければいけない所はあった
アジアは向こうから来てくれる
屋台で食べていると、急にオートバイが近づいてくるとか
ヨーロッパ、アメリカはシステム化してきているので、目的意識をしっかり持って、これを見に行く、之を食べようとか、はっきりした自分が無いと答えが出てこない
アジアは唯ぼーっとしているだけで、例えば夕方ご飯を食べようと思ったら、凄いスコールが来て、屋台にいったら、作る人たちが来ない
作る人は来ないからあっちから取ってくれば とか言われて、こういう事が起きるなあ、とのことからアジアは書けるなあと思った
アジアは私に合っていた
インドについては、インドに対して大好きな人に何故か囲まれていた
旅行のコツ、言葉が解ってしまうと駄目ですね
嫌なことも聞こえてきてしまうし、心穏やかに旅ができない 詳しくならないほうがいいのでは
生れて初めて英語以外のタイ語を習ったときに、タイ人の発想とか、暮らしぶりとか、そういうのが物凄く、言葉を学ぶことが解ってきて、途中で面白くなった
台湾 行くたびに気になる
アジアの矛盾みたいなものが集まっているようなところ
アジアを歩くとき、時々、中国以外のどの国でもテレサテン(私はテレサテンが好きで)の声が聞こえる
台湾は日本以上に懐かしいと書いてある
なんでこの人たちは私の考えていることが解ってくれるんだろうという事が、台湾では多くて、世界で台湾しかないのではと思った
戦後の台湾という国がアメリカとどう付き合うか、大陸とどう付き合うか、はっきりしたものに身をおけないエリア
日本も中国人、アメリカ人みたいにはっきりと、自分の国はと言えない状況の中で生き抜いてきた人たちというのが、台湾と妙に似たようなところがある
台湾には、戦前に定着した日本の食べ物とか習慣が意外としっかりと残っていることがある
そういったものを食べると、子供時代を彷彿とさせるような懐かしさがある
ゆるくて深いアジア アジアの魅力 私が憧れる部分はある意味でのゆるさなんですね
日本人はしっかりした民族
タイで身につけていったこと 食べ物が余ったりするとすぐ捨ててしまう(冷蔵庫があるのに)
冷蔵庫の使い方は水を冷やすだったり、氷作るだけだったり、野菜は毎日市場で買ってきた方が新鮮なものを食べられる、どっちが豊かなのか分からない
日本人がしっかりしているという事はそんなにいいことなのかという事はある
毎日市場に行って、食べ物を作るという事は、時間がゆったりしていないと出来ないこと
私のタイの宿には出入りが多くて、友人がきて、中には知らない人がご飯を食べていったりする
そういったところが、楽なところ との思いがある そういったゆるさがある
仕事をしていないようでも生きて行ける
田舎は完全にセーフティーネットを持っている (仕事がなくても何とか食べて行ける)
破たんしたら、田舎に帰っても御飯だけはあって、食べて行ける
日本はセーフティーネットが無くなってしまっている
仏教とか、生活習慣とか 親を大切にすること、農業がどういう存在で、国の中で生きれたかという問題になってくると、日本が学ばなければならない部分としての深さみたいなものを持っている
ゆるさと深さは一緒 この人たちは頭が良いんだか悪いんだかわからない
アジアと付き合っていて、いまだにわからない
日本的な暮らし方の中で、きっちり、かっちりやってきたことが幸せなのか、ベストなのか、タイの暮らしを見ることで、見えてくるとか、考えさせられる
「週末のアジア各地を旅する」シリーズ
格安航空等で気軽に行けるようになってきた
いかに効率よく見てくるか それではアジアの緩くて深い部分の良さを味わえない
日本人が失ってるものを気付かしてくれる部分のためには、ゆったりとしている方が近道ではないかと思う
旅とは? 昔に較べれば、段々歳をとって楽になってきた
昔は肩肘張って、旅してるぞというみたいな感じをしてきたのが、楽になってきている部分がある
行ったことのない言葉も通じない、国に行くが、日本にいる時よりも楽に感じる
日本人はしっかりしているし、しっかり生きなければいけない自分がある
日本にいると装って生きている、無理しないで生きている世界にポッと入ってゆくと、楽な時間が過ぎることができた事の方が大きいから、意外と楽なものとして旅がある という事がようやくなってきた
目的地に行こうと思っても、途中の果物屋さんとかで、これは何だと引っ掛かったりして、目的地に辿り着けないタイプですね
日本人は今日決めた工程を、こなさないと気持ち悪いタイプと途中までいて、いいや今日はここで帰ろうというタイプ 之を身につけると楽です
旅行作家は旅に出ないと駄目 59歳でいつまで旅を続けられるのだろうとの思いはあるが、人生経験のあるシニアは、若い人とは違う一人遊びの楽しみ、自分の中に蓄積が多いほど旅は楽しくなると思う
一人の時間が楽しくなってくるという気がする
人生経験のあるシニアは、楽しさのコツが若い人よりも、わかりやすいと思う
長野県松本市生まれ アジアをテーマにした旅行記やエッセーの分野の第一人者の一人
慶應大学在学中から学生新聞などに旅行記を書き、卒業後は新聞記者となりました
その後はフリーとなり、「12万円で世界を歩く」で旅行作家デビュー
以来、「バックパッカー」スタイルで一般の観光客のルートとは違う、下街を歩き、庶民の暮らしや、食べ物を中心にした旅行記やエッセーを書き続けています
約40年間の旅や取材から感じたこと、自らの人生を語っていただきます
月に2回は旅行に出かける 日本にいる方が多いと思う
父親が高校の教師をやっていたので、転勤が多かった
慣れてきたら、どっかに行くような感じだった
小学校は野球少年、高校は何故か山岳部に入る
海外を旅をするようになって、旅行に行く人が山岳部の人たちという、多く出会いがあった
高校は松本だったので、山は多くあり、よく登った
大学は学生新聞で活躍した 物を書くことに興味があった
書いたものとしては旅行記、エッセーが多かった
学生運動の末期の時代だったが、初めてアジアに行ったのが大学2年のころだった
学生新聞が政治的なものに影響された時代から別なものへの関心へと、移り始めた時代
就職したのが大手の新聞社、書き続けたいなあとの想いがあった
外国と接するところに行きたいとの思いもあった
記者生活は3年目に辞めた
静岡支局にいたが、もっと自分でやりたいことに近づきたかったが、ジーッと日本の中で記事を書くことにイライラし始めていた
気軽に会社を辞めて旅に出る(27歳の時、当時は景気が良かった)
知り合いがドイツにいたので、ドイツからアフリカ、アジアを回って日本に帰ってきた
デビュー作「12万円で世界を歩く」 34歳 自分の旅が本になるとは思わなかった
1年近い旅から帰ってきて、30万円は残っていたので、毎日部屋で自分で食べるものを作って、働く気がしなかった(旅行で一人遊びがうまくなった)
友人がもっと社会復帰しないといけないと心配してくれて、書く仕事を提供してくれた
ドンドン仕事が来るようになった
フリーになってからも、健康物、株式とか仕事があった(バブル期)
タイに行ってくる 1年近く日本を離れると、関係が切れてしまうので仕事が無くなる
週刊誌の人と一緒に旅行した時に、タクシーを乗るのに同乗者を集めていたら、一緒に行った友人から変な旅行をしている人間だと言われた(節約旅行)
バブル期だったので海外で節約して旅行することが、異常に思われた
大好きな旅を書いてしまった これが売れてしまった 一つの転機となる
旅の中で何かか起きてくれないと書けない(意図的に起きたことはつまらない)
旅での視点が変わった
街を書く材料を見つけるためには、ひたすら歩いたりして、書く材料を見つけた
視点だけ研ぎ澄ましていかなければいけない所はあった
アジアは向こうから来てくれる
屋台で食べていると、急にオートバイが近づいてくるとか
ヨーロッパ、アメリカはシステム化してきているので、目的意識をしっかり持って、これを見に行く、之を食べようとか、はっきりした自分が無いと答えが出てこない
アジアは唯ぼーっとしているだけで、例えば夕方ご飯を食べようと思ったら、凄いスコールが来て、屋台にいったら、作る人たちが来ない
作る人は来ないからあっちから取ってくれば とか言われて、こういう事が起きるなあ、とのことからアジアは書けるなあと思った
アジアは私に合っていた
インドについては、インドに対して大好きな人に何故か囲まれていた
旅行のコツ、言葉が解ってしまうと駄目ですね
嫌なことも聞こえてきてしまうし、心穏やかに旅ができない 詳しくならないほうがいいのでは
生れて初めて英語以外のタイ語を習ったときに、タイ人の発想とか、暮らしぶりとか、そういうのが物凄く、言葉を学ぶことが解ってきて、途中で面白くなった
台湾 行くたびに気になる
アジアの矛盾みたいなものが集まっているようなところ
アジアを歩くとき、時々、中国以外のどの国でもテレサテン(私はテレサテンが好きで)の声が聞こえる
台湾は日本以上に懐かしいと書いてある
なんでこの人たちは私の考えていることが解ってくれるんだろうという事が、台湾では多くて、世界で台湾しかないのではと思った
戦後の台湾という国がアメリカとどう付き合うか、大陸とどう付き合うか、はっきりしたものに身をおけないエリア
日本も中国人、アメリカ人みたいにはっきりと、自分の国はと言えない状況の中で生き抜いてきた人たちというのが、台湾と妙に似たようなところがある
台湾には、戦前に定着した日本の食べ物とか習慣が意外としっかりと残っていることがある
そういったものを食べると、子供時代を彷彿とさせるような懐かしさがある
ゆるくて深いアジア アジアの魅力 私が憧れる部分はある意味でのゆるさなんですね
日本人はしっかりした民族
タイで身につけていったこと 食べ物が余ったりするとすぐ捨ててしまう(冷蔵庫があるのに)
冷蔵庫の使い方は水を冷やすだったり、氷作るだけだったり、野菜は毎日市場で買ってきた方が新鮮なものを食べられる、どっちが豊かなのか分からない
日本人がしっかりしているという事はそんなにいいことなのかという事はある
毎日市場に行って、食べ物を作るという事は、時間がゆったりしていないと出来ないこと
私のタイの宿には出入りが多くて、友人がきて、中には知らない人がご飯を食べていったりする
そういったところが、楽なところ との思いがある そういったゆるさがある
仕事をしていないようでも生きて行ける
田舎は完全にセーフティーネットを持っている (仕事がなくても何とか食べて行ける)
破たんしたら、田舎に帰っても御飯だけはあって、食べて行ける
日本はセーフティーネットが無くなってしまっている
仏教とか、生活習慣とか 親を大切にすること、農業がどういう存在で、国の中で生きれたかという問題になってくると、日本が学ばなければならない部分としての深さみたいなものを持っている
ゆるさと深さは一緒 この人たちは頭が良いんだか悪いんだかわからない
アジアと付き合っていて、いまだにわからない
日本的な暮らし方の中で、きっちり、かっちりやってきたことが幸せなのか、ベストなのか、タイの暮らしを見ることで、見えてくるとか、考えさせられる
「週末のアジア各地を旅する」シリーズ
格安航空等で気軽に行けるようになってきた
いかに効率よく見てくるか それではアジアの緩くて深い部分の良さを味わえない
日本人が失ってるものを気付かしてくれる部分のためには、ゆったりとしている方が近道ではないかと思う
旅とは? 昔に較べれば、段々歳をとって楽になってきた
昔は肩肘張って、旅してるぞというみたいな感じをしてきたのが、楽になってきている部分がある
行ったことのない言葉も通じない、国に行くが、日本にいる時よりも楽に感じる
日本人はしっかりしているし、しっかり生きなければいけない自分がある
日本にいると装って生きている、無理しないで生きている世界にポッと入ってゆくと、楽な時間が過ぎることができた事の方が大きいから、意外と楽なものとして旅がある という事がようやくなってきた
目的地に行こうと思っても、途中の果物屋さんとかで、これは何だと引っ掛かったりして、目的地に辿り着けないタイプですね
日本人は今日決めた工程を、こなさないと気持ち悪いタイプと途中までいて、いいや今日はここで帰ろうというタイプ 之を身につけると楽です
旅行作家は旅に出ないと駄目 59歳でいつまで旅を続けられるのだろうとの思いはあるが、人生経験のあるシニアは、若い人とは違う一人遊びの楽しみ、自分の中に蓄積が多いほど旅は楽しくなると思う
一人の時間が楽しくなってくるという気がする
人生経験のあるシニアは、楽しさのコツが若い人よりも、わかりやすいと思う
2013年9月5日木曜日
上杉春雄(医師、ピアニスト) ・医師としてピアニストとして人を癒やす
上杉春雄(医師、ピアニスト) 医師としてピアニストとして人を癒やす
札幌で医師として勤務しながら、ピアニストとしても活躍しています
4歳からピアノを学び、小学校時代からコンクールや演奏活動で其の名を知られていた、上杉さん、ピアノを続けながらも中学校時代に医師を目指すことを決め、北海道大学医学部に入学しました
学生時代にあるコンサートの様子を聞いたレコード関係者から声をかけられて、CDデビューを果たしました
北海道大学在学中に、1986年にマリアカザレス、バルセロナ国際音楽演奏コンクールで入賞、1988年サントリーホール、大阪シンフォニーホールでデビューリサイタルを開いたり、1990年には諏訪内晶子さんとのジョイントコンサートを各地で開いたりしました
大学を卒業後、東京都内で、医師として勤務しました
そして5年後東京大学大学院に進学、医学博士を取得しました
その年スウエーデンのウプサラ大学に入学しました
2003年に演奏活動を再開、現在は札幌市内の病院で神経内科医長として勤務しながら、ピアニストとしてもコンサート活動をしています
CDデビューをしてから今年で25年を迎える上杉さんに伺いました
あっという間の25年だった 学生時代から時間があまり経っていない様な気がする
神経内科医長 脳、脊髄、末梢神経、筋肉を見る内科医で、半分ぐらいが脳卒中、神経難病と言われるいろいろな病気、パーキンソン病、筋ジストロフィー、アルツハイマー病、・・・
症状で言うと、頭痛、めまい、力が入らない、しびれる、口がもつれた 等
救急のお手伝いもしている
医師でピアニスト あまり聞かない 指揮者、作曲家はいるが 体を使うのでほとんどいない
昔から両立は無理だと言われたが、職場の方に助けてもらいながら、なんとかやってこられた
難病の人が10年ぶりに聞いて、この40分は病気のことを忘れていたといわれて、一時期院内コンサートをやっていたこともある(現在もたまにはやっている)
十勝の根室で育つ 母親が学校の教師だったので、たまたま家にピアノがあってピアノを弾いていたので、何となく触っていた
小学校3年生の時に、本格的に指導する先生で、それからピアノを弾く時間が増えていった
其先生が突然今年亡くなってしまったが、25年間見守って支えてくださった先生なので、まだまだ聞いていただきたかったが、何とも言えない寂しさがあった
ピアノを習って、コンクールで賞をもらえなかった事はなかった
音楽が好きで、カセットテープにレコードを落として、どこでも、いつでも聞いていた
(トイレ、食事中、寝るとき、車に乗っているときでも聞いていた)
激しいスポーツはやらずに、水泳とか、虫取り、野原を駆け回っていたりした
中学の途中で札幌の方に引っ越しをして、勉強をしていた
高校に入る段階で医学部を目指していたので、一生懸命勉強しないといけないと思って、高校時代は真面目に勉強をし、北海道大学の医学部に入学した
13歳でウイーンに行って、教授に教わったが、直ぐにこちらに来いと言われ、中学校の段階で突きつけられたので、いろいろ考えて、中学校の2年の時に医学部を目指すことを決めた
人間が生きる上で一番大事なことはなんだろうと考えた
結局、人間が生きるという事は、心臓が動いているとか、呼吸ができているとか、三度の食事がおいしく食べられるとか、夜ぐっすり眠れるとか、こういう派手さのない繰り返しがうまくいっているから、我々健康でいろんなことができると思えば、ベーシックなところが一番大事だと思った
偉大な、単調な事が一番大事で、それを守る仕事が、多分私にとっては一番やりがいのある生き方になるのではないかと、言う事が最終結論となった そして医学部に行くことを決めた
日野原重明先生(102歳)と話したが、秘訣として先生がおっしゃったのは、30歳の時から腹囲と体重が全然変わっていない
食事を節制して、体重維持のために適度に運動している、それだけをおっしゃった
大学在学中に、演奏会をやっていたときにレコード会社の人から言われて、契約しようという事になって、一気にメジャーデビューというようなことになってしまった
学生の時にしか出来ないだろうと思って、そんな気持ちで始めた
国家試験時には音楽はストップした(数年間は弾くことはなかった)
医者として生きていく上で、いい臨床医になるためには、患者さんを見ているだけではだめで、自分が患者さんを見るための武器をきちっと身につけないと良い医者にはなれないと、言われて、武器が欲しいという事で大学院にいくことに決めた
医者の仕事に慣れてくると、ピアノを弾いていない自分に物足りなさを感じた
患者さんの集まりで弾いてくださいと言われるのが、ぽつぽつ出てきて、そこで弾いて喜んでもらえて、嬉しかったし、音楽に何となく魅力を感じ始め、音楽の勉強を始めた
医師と音楽家との関連性は? どうやって効率的に体を使うかなどは、自分の専門分野で少しは役に立っているが、音楽の大事なことは、うまく楽器を操ることではなくて、もっと音楽というものをどう考えるかという事になってくると思う
医学とはあまりにも違う部分が多い
医者の仕事は医者の仕事をきちっとやりたいし、両方区別して仕事をしようという気持ちが強い
最近はそういう方向に行きたいと思っている
弾けるときに弾く 癒しという事でいえば、家族がいてほっとする時間は貰っている
人間が在る課題を達成しようとする場合に、二つの要素があって、
①外から御褒美をもらう
②自分の中からの欲求 中からの欲求の方が強い
辛い思いをしていたとしても、なんとかそれを自分で乗り越えようと、いう気持ちを常に持ち続けられる状況に生きているので、癒し、息抜きとしては、考えていない
子供は小学校高学年 2人 ピアノは特に強制的には考えていない
音楽と付き合える楽しみが持てるという事が良いかなと思います
音楽は間口が広いので、いろんな楽しみ方があるので、一生いろんな形で楽しめると思う
(音楽のジャンルの広さ、聞く、演奏する、歌う、踊る 等々)
デビュー25年 10月、11月にコンサートを開く(北海道から関西まで)
時間が経つという中で、人が一生懸命生きているというのは、どんな時代、どんな国でもそうだと思うので、音楽家にとってみれば、環境の変化を音という形で、残していってくれているので
バッハの時代 300年前の音楽から50年ぐらい前の音楽まで、時間の流れの中で、人が一生懸命に生きているんだという事を含めて、見つめてみたいという欲張ったプログラムではあるが、
古典的なレパートリーからストラヴィンスキー、クセナキスというところまで俯瞰するような演奏会をやってみたいと思っている
生きることを問いかける様な選曲にもなっているし、音楽としても楽しめるようにしている
医学も基本的には日進月歩があって、新しい知見とカが出てきているが、基本は人間の体がここに在って、そこでなにか不都合があって、症状が出てると、そこからスタートするものだと思う
研究がどんなに進もうと、患者さんの話しをきちっと把握すること、患者さんの出されている症状をきちっと見つめること、一番ベーシックなところを大事にする
音楽についても、人の心が何かのきっかけで動いていることから、起きていると思うので、人の心が動く瞬間を我々演奏家は再現するんだと、人の心が動く事の積み重ねで生きているのだから、最終的にはそういうところに何か絡むようなものをイメージしていただく、そういうものを出せたらいいなあと思っています
演奏を終わって一番嬉しい瞬間は?
拍手がどうという事ではなくて、作曲家の魂みたいなものと、自分の感性とそれが一つに溶け合って、音になって、それがスーッと聞いている方たちの体の中に入って行っているというのが、イメージする瞬間をたまに感じるが、そういった時が一番楽しい
札幌で医師として勤務しながら、ピアニストとしても活躍しています
4歳からピアノを学び、小学校時代からコンクールや演奏活動で其の名を知られていた、上杉さん、ピアノを続けながらも中学校時代に医師を目指すことを決め、北海道大学医学部に入学しました
学生時代にあるコンサートの様子を聞いたレコード関係者から声をかけられて、CDデビューを果たしました
北海道大学在学中に、1986年にマリアカザレス、バルセロナ国際音楽演奏コンクールで入賞、1988年サントリーホール、大阪シンフォニーホールでデビューリサイタルを開いたり、1990年には諏訪内晶子さんとのジョイントコンサートを各地で開いたりしました
大学を卒業後、東京都内で、医師として勤務しました
そして5年後東京大学大学院に進学、医学博士を取得しました
その年スウエーデンのウプサラ大学に入学しました
2003年に演奏活動を再開、現在は札幌市内の病院で神経内科医長として勤務しながら、ピアニストとしてもコンサート活動をしています
CDデビューをしてから今年で25年を迎える上杉さんに伺いました
あっという間の25年だった 学生時代から時間があまり経っていない様な気がする
神経内科医長 脳、脊髄、末梢神経、筋肉を見る内科医で、半分ぐらいが脳卒中、神経難病と言われるいろいろな病気、パーキンソン病、筋ジストロフィー、アルツハイマー病、・・・
症状で言うと、頭痛、めまい、力が入らない、しびれる、口がもつれた 等
救急のお手伝いもしている
医師でピアニスト あまり聞かない 指揮者、作曲家はいるが 体を使うのでほとんどいない
昔から両立は無理だと言われたが、職場の方に助けてもらいながら、なんとかやってこられた
難病の人が10年ぶりに聞いて、この40分は病気のことを忘れていたといわれて、一時期院内コンサートをやっていたこともある(現在もたまにはやっている)
十勝の根室で育つ 母親が学校の教師だったので、たまたま家にピアノがあってピアノを弾いていたので、何となく触っていた
小学校3年生の時に、本格的に指導する先生で、それからピアノを弾く時間が増えていった
其先生が突然今年亡くなってしまったが、25年間見守って支えてくださった先生なので、まだまだ聞いていただきたかったが、何とも言えない寂しさがあった
ピアノを習って、コンクールで賞をもらえなかった事はなかった
音楽が好きで、カセットテープにレコードを落として、どこでも、いつでも聞いていた
(トイレ、食事中、寝るとき、車に乗っているときでも聞いていた)
激しいスポーツはやらずに、水泳とか、虫取り、野原を駆け回っていたりした
中学の途中で札幌の方に引っ越しをして、勉強をしていた
高校に入る段階で医学部を目指していたので、一生懸命勉強しないといけないと思って、高校時代は真面目に勉強をし、北海道大学の医学部に入学した
13歳でウイーンに行って、教授に教わったが、直ぐにこちらに来いと言われ、中学校の段階で突きつけられたので、いろいろ考えて、中学校の2年の時に医学部を目指すことを決めた
人間が生きる上で一番大事なことはなんだろうと考えた
結局、人間が生きるという事は、心臓が動いているとか、呼吸ができているとか、三度の食事がおいしく食べられるとか、夜ぐっすり眠れるとか、こういう派手さのない繰り返しがうまくいっているから、我々健康でいろんなことができると思えば、ベーシックなところが一番大事だと思った
偉大な、単調な事が一番大事で、それを守る仕事が、多分私にとっては一番やりがいのある生き方になるのではないかと、言う事が最終結論となった そして医学部に行くことを決めた
日野原重明先生(102歳)と話したが、秘訣として先生がおっしゃったのは、30歳の時から腹囲と体重が全然変わっていない
食事を節制して、体重維持のために適度に運動している、それだけをおっしゃった
大学在学中に、演奏会をやっていたときにレコード会社の人から言われて、契約しようという事になって、一気にメジャーデビューというようなことになってしまった
学生の時にしか出来ないだろうと思って、そんな気持ちで始めた
国家試験時には音楽はストップした(数年間は弾くことはなかった)
医者として生きていく上で、いい臨床医になるためには、患者さんを見ているだけではだめで、自分が患者さんを見るための武器をきちっと身につけないと良い医者にはなれないと、言われて、武器が欲しいという事で大学院にいくことに決めた
医者の仕事に慣れてくると、ピアノを弾いていない自分に物足りなさを感じた
患者さんの集まりで弾いてくださいと言われるのが、ぽつぽつ出てきて、そこで弾いて喜んでもらえて、嬉しかったし、音楽に何となく魅力を感じ始め、音楽の勉強を始めた
医師と音楽家との関連性は? どうやって効率的に体を使うかなどは、自分の専門分野で少しは役に立っているが、音楽の大事なことは、うまく楽器を操ることではなくて、もっと音楽というものをどう考えるかという事になってくると思う
医学とはあまりにも違う部分が多い
医者の仕事は医者の仕事をきちっとやりたいし、両方区別して仕事をしようという気持ちが強い
最近はそういう方向に行きたいと思っている
弾けるときに弾く 癒しという事でいえば、家族がいてほっとする時間は貰っている
人間が在る課題を達成しようとする場合に、二つの要素があって、
①外から御褒美をもらう
②自分の中からの欲求 中からの欲求の方が強い
辛い思いをしていたとしても、なんとかそれを自分で乗り越えようと、いう気持ちを常に持ち続けられる状況に生きているので、癒し、息抜きとしては、考えていない
子供は小学校高学年 2人 ピアノは特に強制的には考えていない
音楽と付き合える楽しみが持てるという事が良いかなと思います
音楽は間口が広いので、いろんな楽しみ方があるので、一生いろんな形で楽しめると思う
(音楽のジャンルの広さ、聞く、演奏する、歌う、踊る 等々)
デビュー25年 10月、11月にコンサートを開く(北海道から関西まで)
時間が経つという中で、人が一生懸命生きているというのは、どんな時代、どんな国でもそうだと思うので、音楽家にとってみれば、環境の変化を音という形で、残していってくれているので
バッハの時代 300年前の音楽から50年ぐらい前の音楽まで、時間の流れの中で、人が一生懸命に生きているんだという事を含めて、見つめてみたいという欲張ったプログラムではあるが、
古典的なレパートリーからストラヴィンスキー、クセナキスというところまで俯瞰するような演奏会をやってみたいと思っている
生きることを問いかける様な選曲にもなっているし、音楽としても楽しめるようにしている
医学も基本的には日進月歩があって、新しい知見とカが出てきているが、基本は人間の体がここに在って、そこでなにか不都合があって、症状が出てると、そこからスタートするものだと思う
研究がどんなに進もうと、患者さんの話しをきちっと把握すること、患者さんの出されている症状をきちっと見つめること、一番ベーシックなところを大事にする
音楽についても、人の心が何かのきっかけで動いていることから、起きていると思うので、人の心が動く瞬間を我々演奏家は再現するんだと、人の心が動く事の積み重ねで生きているのだから、最終的にはそういうところに何か絡むようなものをイメージしていただく、そういうものを出せたらいいなあと思っています
演奏を終わって一番嬉しい瞬間は?
拍手がどうという事ではなくて、作曲家の魂みたいなものと、自分の感性とそれが一つに溶け合って、音になって、それがスーッと聞いている方たちの体の中に入って行っているというのが、イメージする瞬間をたまに感じるが、そういった時が一番楽しい
2013年9月4日水曜日
山口美代子(市川房枝研究会) ・ 市川房枝から学ぶもの 2
山口美代子(市川房枝研究会) 市川房枝から学ぶもの 2
財団法人市川房枝記念会女性と政治センター 2Fの入口に市川房枝の等身大の写真があるが、昭和56年の5月に雑誌で写真を撮られた物が、採用された
生涯の活動をDVDで紹介、愛用していた服、靴など色々展示してある
ざっと戦前で8万点 戦後その3倍はあると思っているが2/3は整理がついたがまだ1/3は残っている
私がここに声をかけられたのは1997年です
国会図書館時代、現代政治史に深くかかわってきた人たちから、これまでに公表していなかった事実をお話うかがえないか、録音テープに収めるという仕事をしていた
市川房枝さんにお願いに行った
これほどまでの資料があるとは吃驚した
国会図書館を退職した人を初め、ボランティアを含め、5人で整理している、全部で30万点近くなる
戦前の物が焼けずに残っているのが貴重だと思う
八王子の家の蔵に昭和19年に資料疎開をした
婦選獲得同盟に関する資料、 日記、婦人参政権要求に関する対議会活動の記録、幅広く其時に活躍していた人たちとの手紙のやり取り資料、市民運動資料(ごみ処理、政治浄化の問題)
戦時下の国民生活関連資料、海外の夫人との交流の資料 等
1930年(昭和5年)4月27日 第一回全日本婦選大会の写真 市川さんがかねがね要求していた婦人参政権を団体に呼び掛けて、明治神宮外苑に在る日本青年会館で行っている
参加者は482名 東京がおおいが、地方からも50人参加
大半が和服、当時の家庭事情から言ったら、そう簡単に家を出てくるのは大変だったと思う
女性だけが集まる集会であったが、文部大臣からの祝辞、犬養さんからの祝辞も頂いた
翌年5・15事件で犬養さんは亡くなってしまう
「婦選の歌」 与謝野晶子、作詞 作曲、山田耕作 歌、原信子
戦後、市川さんは一時期追放になる なかなか情勢活動ができない時代があった
日本の女性は非武装を願っているので、講和条約に対して、意見書として提出する
ガントレット恒子、平塚らいてう、野上弥生子、植村 環 上代たの,ら5人
追放時ではあったが市川さんも裏方として原稿に筆を入れていた
参議院 昭和42年12月9日 支払明細書 ボーナス袋 20万936円 あらゆるものを取っておいた
1953年(昭和28年) 第3回参議院選挙に立候補して、議員になる(60歳)
27年間の議員活動 1981年亡くなるが、その間中、国会の発言が重要だと言っている
232回 発言している 政党に属さない人だったが、短い時間でも精力的に発言する
女性も政治の中核に置かなければいけないと、信念としては政策決定の中枢の場に参画することが婦人問題を解決する近道だという信念を崩していなかった
売春防止法 人権問題として大きな婦人問題であったと思う
膨大な請願書がまとまって残されている
(鹿児島県の県民の署名簿 1955年6月に集められているもの 5~6冊ある )
超党派の婦人議員に依って提出されている
緻密な方だと改めて、録音を担当したときに思った 質問に対して詳細に調査して受け答える
7時間 1回目は1978年3月29日 2回目は5月19日に行った
質問者 児玉勝子さんに質問者になっていただいたが、他にもう一人と言われ私も参加する事になる
銀行口座を持っていなかった 特定の銀行との取引をするといろいろ在るので、配慮していたと思われる(政治資金規正協議会を成立させた人だったので)
一緒に食事をしたときでも、先生と同じものを頼んだが、先生は質素なものを頼んでいた
つけとかではなく、現金で払われた
1981年(昭和56年)2月11日に亡くなる
1980年に参議院全国区で1位当選 278万票 驚異的な得票だった
日赤病院に入院 病院が困るぐらいのお見舞い客が殺到する
お通夜の沿道には普通の格好をした人などを含めてびっしりと集まってきた
絶筆となった映画の推薦文がある
「しみじみと戦争が嫌いになる美しい映画 戦後派のお母さん達も、子供たちと一緒に是非見てください」と書かれている 倒れる2日前に書かれている
市川先生から受ける大事な資料を研究者に橋渡しして行って、次の世代に伝えてゆくという、その人たちのために残して行きたいなあと、そう思いますが、まだ残っている膨大さに戸惑いを感じてはいる、でも必ず次の方たちにもそれができるものと思っています
財団法人市川房枝記念会女性と政治センター 2Fの入口に市川房枝の等身大の写真があるが、昭和56年の5月に雑誌で写真を撮られた物が、採用された
生涯の活動をDVDで紹介、愛用していた服、靴など色々展示してある
ざっと戦前で8万点 戦後その3倍はあると思っているが2/3は整理がついたがまだ1/3は残っている
私がここに声をかけられたのは1997年です
国会図書館時代、現代政治史に深くかかわってきた人たちから、これまでに公表していなかった事実をお話うかがえないか、録音テープに収めるという仕事をしていた
市川房枝さんにお願いに行った
これほどまでの資料があるとは吃驚した
国会図書館を退職した人を初め、ボランティアを含め、5人で整理している、全部で30万点近くなる
戦前の物が焼けずに残っているのが貴重だと思う
八王子の家の蔵に昭和19年に資料疎開をした
婦選獲得同盟に関する資料、 日記、婦人参政権要求に関する対議会活動の記録、幅広く其時に活躍していた人たちとの手紙のやり取り資料、市民運動資料(ごみ処理、政治浄化の問題)
戦時下の国民生活関連資料、海外の夫人との交流の資料 等
1930年(昭和5年)4月27日 第一回全日本婦選大会の写真 市川さんがかねがね要求していた婦人参政権を団体に呼び掛けて、明治神宮外苑に在る日本青年会館で行っている
参加者は482名 東京がおおいが、地方からも50人参加
大半が和服、当時の家庭事情から言ったら、そう簡単に家を出てくるのは大変だったと思う
女性だけが集まる集会であったが、文部大臣からの祝辞、犬養さんからの祝辞も頂いた
翌年5・15事件で犬養さんは亡くなってしまう
「婦選の歌」 与謝野晶子、作詞 作曲、山田耕作 歌、原信子
戦後、市川さんは一時期追放になる なかなか情勢活動ができない時代があった
日本の女性は非武装を願っているので、講和条約に対して、意見書として提出する
ガントレット恒子、平塚らいてう、野上弥生子、植村 環 上代たの,ら5人
追放時ではあったが市川さんも裏方として原稿に筆を入れていた
参議院 昭和42年12月9日 支払明細書 ボーナス袋 20万936円 あらゆるものを取っておいた
1953年(昭和28年) 第3回参議院選挙に立候補して、議員になる(60歳)
27年間の議員活動 1981年亡くなるが、その間中、国会の発言が重要だと言っている
232回 発言している 政党に属さない人だったが、短い時間でも精力的に発言する
女性も政治の中核に置かなければいけないと、信念としては政策決定の中枢の場に参画することが婦人問題を解決する近道だという信念を崩していなかった
売春防止法 人権問題として大きな婦人問題であったと思う
膨大な請願書がまとまって残されている
(鹿児島県の県民の署名簿 1955年6月に集められているもの 5~6冊ある )
超党派の婦人議員に依って提出されている
緻密な方だと改めて、録音を担当したときに思った 質問に対して詳細に調査して受け答える
7時間 1回目は1978年3月29日 2回目は5月19日に行った
質問者 児玉勝子さんに質問者になっていただいたが、他にもう一人と言われ私も参加する事になる
銀行口座を持っていなかった 特定の銀行との取引をするといろいろ在るので、配慮していたと思われる(政治資金規正協議会を成立させた人だったので)
一緒に食事をしたときでも、先生と同じものを頼んだが、先生は質素なものを頼んでいた
つけとかではなく、現金で払われた
1981年(昭和56年)2月11日に亡くなる
1980年に参議院全国区で1位当選 278万票 驚異的な得票だった
日赤病院に入院 病院が困るぐらいのお見舞い客が殺到する
お通夜の沿道には普通の格好をした人などを含めてびっしりと集まってきた
絶筆となった映画の推薦文がある
「しみじみと戦争が嫌いになる美しい映画 戦後派のお母さん達も、子供たちと一緒に是非見てください」と書かれている 倒れる2日前に書かれている
市川先生から受ける大事な資料を研究者に橋渡しして行って、次の世代に伝えてゆくという、その人たちのために残して行きたいなあと、そう思いますが、まだ残っている膨大さに戸惑いを感じてはいる、でも必ず次の方たちにもそれができるものと思っています
2013年9月3日火曜日
伊藤康子(女性史研究家) ・市川房枝から学ぶもの
伊藤康子(女性史研究家) 市川房枝から学ぶもの
「平和無くして平等無く、平等無くして平和無し」
女性の参政権と理想選挙運動に生涯を捧げた市川房枝さんの言葉です
戦前は運動家として戦後は主に国会議員として長年活動を続けて来られ、1980年に87歳で生涯をとじた市川さん、今年で生誕120年になります
彼女の功績を後世に伝えようと、出版物を発行したり、展示会、講演会などの様々な活動を続けているのは、東京渋谷区代々木に在る市川房枝記念女性と政治センター、このセンターでは市川さんの志を継ぐ、女性たちが集まって8年前に、市川房枝研究会を立ち上げて、残された膨大な資料の収集と整理を手弁当で続けています
メンバーの一人、女性史研究家の伊藤康子さんに、市川さんの生涯を振り返って、彼女から何を学ぶべきか、伺いました
日本の近代は、男性天皇 男性しか天皇になれない、しかもそれが頂点になる、そういう政治体制を組んだものなので、女性は必ず下住み、我慢して愚痴をこぼすだけ、従順に耐える方が楽だし、その方が生き方として賢いという風に思って、戦う発言、行動もしなかったが、それでは駄目だと、なんとかしなければだめだと、真面目に度量した一人が市川房枝
金のかかる選挙だと、金儲けする、そのような形で汚職、わいろがはびこるので、お金のかからない理想選挙を押し出しました
私は敗戦時に6年生でした 軍国少女でしたが、戦後何を信頼して行ったらいいか分からなかったが、憲法を勉強したりして、自分自身の生き方を自分自身で貫いてきた
人間らしく生きてゆくことを求め続けてきたと思います
市川の父は母親に暴力をふるっていて、暴力を振るわれても、子供たちが可愛いから、我慢しているんだと、女に生まれたのが因果だからしょうがないと、市川房枝さんに語っていたといわれるが、市川さんは女に生れたら、何故我慢しなければいけないのか、なんで因果なのか、納得できなくて、此の母の嘆きが長い闘いの出発点になった(自伝映画の中で語っている)
妻に対しては暴君だったけれど、子供たちに対しては優しいお父さんだった(同映画)
市川は1893年に生れる 愛知県一宮市 (金さん、銀さんは其1年前に生れている)
金さん、銀さんは親、嫁ぎ先、地域の女の人を見る目に従う人生を送った
市川は、女学校に行きたいと、県立師範学校にいき、スポーツにも触れ、大正デモクラシーに触れ、キリスト教にも触れて、段々大人になりかけてゆく中で、自分らしくはどういう事かを考えてゆく
女性の先生は男性(18円)より2円安い 学校でも雑用は下女のように働かされた
東京に勉強のために向かう(25歳)
英語を教えてもらうために、兄の友達だった山田嘉吉の塾にいって、そこで平塚らいてう、神近
市子などと知り合う事になる
新婦人協会を作る 2年半して治安警察法の一部を改正させる
女子、未成年者は政治的会合に参加できないし、それを主催も出来ないという法律だったが、それを取り払う事が出来た
その後アメリカに行き、国際労働局の職員になるために帰国する
婦選獲得同盟に参加して、中心的な活動を始める
男子普通選挙実現 1925年(大正14年) 議員、役人、管理職など決定権のあるところからは女子はのけものにされていた
売春禁止法を成立させようと思っても、女性議員がいないために出来なかった
女性の先生は政治に関われなかった
第一次世界大戦後は世界の先進国では、婦人参政権が実現する事は当たり前になっていた
政党、男性議員、政府などに働きかける
昭和5年、第一回全日本婦選大会を開いた(政党からも参加して祝辞を述べる)
「婦選は鍵なり」市川房枝も参加した
会員は日本全国の中で1500人程度の会員だった
毎年のように全日本婦選大会を開いた(昭和10年前には実現するのではないかと思われたが)
昭和6年、満州事変がはじまる 軍部がのしてくるので、婦人参政権は駄目になる
戦争は嫌だと、とうとうここまで来ちゃったので、いくらかでも被害を少なくすることをやるべきだと、体制を認めることはやむを得ないと腹を決めた(市川房枝)
軍部は女性参政権にもっとも反対していた
政府は市川が持っている名前と企画力、利用したいと考えていた
国民精神総動員運動の委員にしたり、大蔵省の貯蓄奨励講師、大日本言論報告会の理事に任命した
本当は逃げたいのだけれども、女性の被害をなんとか少なくしようと考えた
情報局、新聞記者から情報を集めて、女性の生活、方針をどうしたらいいか討論を重ねた
敗戦後、即座に再開ができる基盤になった
資料を八王子の蔵に疎開させる、それが今、市川記念館女性と政治センターに展示されている
女性を半歩でも進めようとする姿勢が、戦後の婦人解放運動に結ばれてゆく
昭和20年8月25日から活動を開始する
世界で初めて女性参政権を始めたのは、1893年 ニュージーランドが最初
アメリカは州によって違う アメリカ全体として実現したのが1920年
市川は女性の啓蒙のために全国を回る
1953年 東京地方区の参議院議員、第2位で当選する
1959年、1965年、1971年(落選) 1974年、1980年全国区から立候補 有益な活動をした
理想選挙一筋に戦う 女性地位向上、勤労者の生活安定(未亡人の生活の安定)、民主主義政治の確率、平和憲法を守る このような公約をいつも掲げている
議員の定数是正 (市川が落選した年に、山陰で市川の何分の1で当選した人がいた)
汚職議員を落選させる運動を展開する(お命を頂戴するというような脅しがかかったりする)
社会での成果、現実にひとつずつ丁寧に追っかけたり、糾弾したり、抵抗したりして、其中で実現してゆくことを考えて、実行したんだろうと思います
私利私欲が無く主義主張が一貫している
参議院も政党化する方向に来てしまっていることが、本来の市川の考えとは違う
1946年女性参政権ができ、立候補は79人 当選39人 女性の政治力は期待されたが、評判は良くなく、情勢の政治力は成熟していなかった
次の選挙では女性議員は15人 国会議員女性比は先進国で最低
実現させるのには長い時間と活動が必要でした
内容を充実させなければ、先輩が苦労した意味が薄くなってしまいます
学校で教わっても、市川の名前は忘れらたりします
大きな市川同様には出来ないかもしれないが、小さな市川が沢山いて、ちいさな市川を支えるもう少しちいさな市川がもっと沢山いれば、市川の正義の心は生き続けると思います
「平和無くして平等無く、平等無くして平和無し」
女性の参政権と理想選挙運動に生涯を捧げた市川房枝さんの言葉です
戦前は運動家として戦後は主に国会議員として長年活動を続けて来られ、1980年に87歳で生涯をとじた市川さん、今年で生誕120年になります
彼女の功績を後世に伝えようと、出版物を発行したり、展示会、講演会などの様々な活動を続けているのは、東京渋谷区代々木に在る市川房枝記念女性と政治センター、このセンターでは市川さんの志を継ぐ、女性たちが集まって8年前に、市川房枝研究会を立ち上げて、残された膨大な資料の収集と整理を手弁当で続けています
メンバーの一人、女性史研究家の伊藤康子さんに、市川さんの生涯を振り返って、彼女から何を学ぶべきか、伺いました
日本の近代は、男性天皇 男性しか天皇になれない、しかもそれが頂点になる、そういう政治体制を組んだものなので、女性は必ず下住み、我慢して愚痴をこぼすだけ、従順に耐える方が楽だし、その方が生き方として賢いという風に思って、戦う発言、行動もしなかったが、それでは駄目だと、なんとかしなければだめだと、真面目に度量した一人が市川房枝
金のかかる選挙だと、金儲けする、そのような形で汚職、わいろがはびこるので、お金のかからない理想選挙を押し出しました
私は敗戦時に6年生でした 軍国少女でしたが、戦後何を信頼して行ったらいいか分からなかったが、憲法を勉強したりして、自分自身の生き方を自分自身で貫いてきた
人間らしく生きてゆくことを求め続けてきたと思います
市川の父は母親に暴力をふるっていて、暴力を振るわれても、子供たちが可愛いから、我慢しているんだと、女に生まれたのが因果だからしょうがないと、市川房枝さんに語っていたといわれるが、市川さんは女に生れたら、何故我慢しなければいけないのか、なんで因果なのか、納得できなくて、此の母の嘆きが長い闘いの出発点になった(自伝映画の中で語っている)
妻に対しては暴君だったけれど、子供たちに対しては優しいお父さんだった(同映画)
市川は1893年に生れる 愛知県一宮市 (金さん、銀さんは其1年前に生れている)
金さん、銀さんは親、嫁ぎ先、地域の女の人を見る目に従う人生を送った
市川は、女学校に行きたいと、県立師範学校にいき、スポーツにも触れ、大正デモクラシーに触れ、キリスト教にも触れて、段々大人になりかけてゆく中で、自分らしくはどういう事かを考えてゆく
女性の先生は男性(18円)より2円安い 学校でも雑用は下女のように働かされた
東京に勉強のために向かう(25歳)
英語を教えてもらうために、兄の友達だった山田嘉吉の塾にいって、そこで平塚らいてう、神近
市子などと知り合う事になる
新婦人協会を作る 2年半して治安警察法の一部を改正させる
女子、未成年者は政治的会合に参加できないし、それを主催も出来ないという法律だったが、それを取り払う事が出来た
その後アメリカに行き、国際労働局の職員になるために帰国する
婦選獲得同盟に参加して、中心的な活動を始める
男子普通選挙実現 1925年(大正14年) 議員、役人、管理職など決定権のあるところからは女子はのけものにされていた
売春禁止法を成立させようと思っても、女性議員がいないために出来なかった
女性の先生は政治に関われなかった
第一次世界大戦後は世界の先進国では、婦人参政権が実現する事は当たり前になっていた
政党、男性議員、政府などに働きかける
昭和5年、第一回全日本婦選大会を開いた(政党からも参加して祝辞を述べる)
「婦選は鍵なり」市川房枝も参加した
会員は日本全国の中で1500人程度の会員だった
毎年のように全日本婦選大会を開いた(昭和10年前には実現するのではないかと思われたが)
昭和6年、満州事変がはじまる 軍部がのしてくるので、婦人参政権は駄目になる
戦争は嫌だと、とうとうここまで来ちゃったので、いくらかでも被害を少なくすることをやるべきだと、体制を認めることはやむを得ないと腹を決めた(市川房枝)
軍部は女性参政権にもっとも反対していた
政府は市川が持っている名前と企画力、利用したいと考えていた
国民精神総動員運動の委員にしたり、大蔵省の貯蓄奨励講師、大日本言論報告会の理事に任命した
本当は逃げたいのだけれども、女性の被害をなんとか少なくしようと考えた
情報局、新聞記者から情報を集めて、女性の生活、方針をどうしたらいいか討論を重ねた
敗戦後、即座に再開ができる基盤になった
資料を八王子の蔵に疎開させる、それが今、市川記念館女性と政治センターに展示されている
女性を半歩でも進めようとする姿勢が、戦後の婦人解放運動に結ばれてゆく
昭和20年8月25日から活動を開始する
世界で初めて女性参政権を始めたのは、1893年 ニュージーランドが最初
アメリカは州によって違う アメリカ全体として実現したのが1920年
市川は女性の啓蒙のために全国を回る
1953年 東京地方区の参議院議員、第2位で当選する
1959年、1965年、1971年(落選) 1974年、1980年全国区から立候補 有益な活動をした
理想選挙一筋に戦う 女性地位向上、勤労者の生活安定(未亡人の生活の安定)、民主主義政治の確率、平和憲法を守る このような公約をいつも掲げている
議員の定数是正 (市川が落選した年に、山陰で市川の何分の1で当選した人がいた)
汚職議員を落選させる運動を展開する(お命を頂戴するというような脅しがかかったりする)
社会での成果、現実にひとつずつ丁寧に追っかけたり、糾弾したり、抵抗したりして、其中で実現してゆくことを考えて、実行したんだろうと思います
私利私欲が無く主義主張が一貫している
参議院も政党化する方向に来てしまっていることが、本来の市川の考えとは違う
1946年女性参政権ができ、立候補は79人 当選39人 女性の政治力は期待されたが、評判は良くなく、情勢の政治力は成熟していなかった
次の選挙では女性議員は15人 国会議員女性比は先進国で最低
実現させるのには長い時間と活動が必要でした
内容を充実させなければ、先輩が苦労した意味が薄くなってしまいます
学校で教わっても、市川の名前は忘れらたりします
大きな市川同様には出来ないかもしれないが、小さな市川が沢山いて、ちいさな市川を支えるもう少しちいさな市川がもっと沢山いれば、市川の正義の心は生き続けると思います
2013年9月2日月曜日
塚本治弘(写真家) ・雲を見つめて60年
塚本治弘(日本気象学会、日本植物学会会員、写真家) 雲を見つめて60年
昭和13年生まれ 雲を観察し始めたのは、小学校6年の時、夏休みの自由研究で雲のスケッチをしたのがきっかけでした
雲のことを知りたくて、記録や写真を撮り、NHKの気象通報を聞いて天気図の作成も始めます
雲は塚本少年の想像力を掻き立て、珍しい雲を見つけたときは、まるで宝物を見つけた気分になると言います
1982年、塚本さんは太陽に輪ができる幻日環の撮影に日本で初めて成功します
塚本さんは最近は地球を包む雲の声を聞くを合言葉にゲリラ豪雨と其解明を目標としています
小学校の6年、自由研究で、雲調べをした 3っつの要因があったと思う
①私をかわいがってくれたおじさんが、雲の話をしてくれたが、戦死してしまった
②クラス担任の先生が、ゼロ戦のパイロットだった 空の上から見た世界、飛行機雲の初体験
空への興味がわいた
③ラジオの「鐘のなる丘」 映画化された 雲海の映像が撮ってとっても綺麗で、感動した
誕生祝いとクリスマスプレゼント、正月のお年玉の3つ合わせてカメラを買ってもらった
其カメラで雲を撮り始めたが、現像すると真っ白で、うまくとれなかった
父親からカメラを借りて撮ってみたりした
写真を見せたいので、学校の気象観測所があって、そこの先生に持って行って、いろいろアドバイスを受けた
高校では天気図を書くようになった
雲を研究するのだったら、天気図をかけないといけないと先生から言われた
天気図を書くのが日課になって、それを見ながら、どんな雲がいつ出るかという研究が始まった
高校3年の時に研究を纏めて発表しないかと先生から言われて、纏めたものを日本学生科学賞というのがあって、そこに応募したら、最優秀賞を取ることができた
大学から現在に至るまで雲を研究してきている
面白いように目的の雲に会う事が出来たりした
撮った写真は10万枚になる
1959年 富士山のはるか上空に真珠雲を発見して、撮影した事は一番感動した
新聞社の記事に写真入りで、掲載された
太陽が沈んで、やや夕焼けが終わりかけたころに、突然赤く真珠が輝いたというような感じ
極めて珍しく、おそらく日本で最初だろうとの、関係者の注目を集めている との記事
雲のずっと層になっていた雲に穴があいている雲を見た、撮影をして、どうしたらこのようになるのだろうと思ったが、解らなかった
穴の直径は数百m~1kmぐらいか? 消防署に連絡した人もいたとのこと
倉島惇先生に写真を見せたら、珍しいと、雲のでき方について説明してくれた
上空に飛行機雲があって、それから、氷の粒が落ちてきて、下にある水粒で出来た雲にその氷粒が穴をあけてきたんだという説明でした 撮影、武蔵野市
幻日環 長年見たいと思っていた 太陽が沈みかかっているところに見事な輪ができている
太陽に笠ができると雨になるとか言われるが、笠ができて、其脇に太陽と同じ高さに幻実という幻の太陽が二つできる、二つを結んで、太陽と反対側に輪ができる、それが幻日環という
それを撮るのには魚眼レンズが必要 撮影までに20年間かかる
武蔵野市で撮影したが、東京で見られるのは非常に珍しい
(北海道、南極とかではもっと見られる回数が増える)
常に雲は形を変えてゆくが、雲は13~15kmがてっぺんで それから下の対流圏に雲ができる
雲の種類は大きく10種類に分けられる その下に14種類があって、更の9つの変種があって
もう一つ副変種が9つあるといわれている
全部合わせると300種類に分けられる
すじ雲が出ると雨 太陽に笠が出来る 月に笠ができると雨 まんまるい笠天気が悪くなる
笠が破れていると雨は降らない
イワシ雲、サバ雲は雨 漁業地域でよく言われている
山の方に雲が入るのを入り雲→雨 山の方から出てくる雲 出雲→晴れ
羊雲は雨 羊雲 羊の後ろ足でたっているような羊雲→午前中に出ていると昼から雷雨
大気が非常に不安定であるときは、撹拌される雲が多い 撹拌されると立ちあがった様になる
波雲が出ると雨の場合が多いが、波雲だけでパーセントを取ると30%だが、西から打ち寄せているような波雲が出ると雨になる、8~9割の雨になる
1日13時間、5年間続けた 一番多いのが羊雲 うろこ雲→30% なまこ雲→30%
綿雲→10% すじ雲、雨雲
地震雲は?
地震を予測するような雲はもし存在しても、普通の雲と区別がつかないだろうと、先ずは存在しないだろうという事になっている
地震の前の発光現象があるが、花崗岩とか硬い岩がストレスを受けて、はじけるような状態になると光を発することはあるので、そのような条件の時には出来る
海での場合は水にさえぎられて、発光現象は起きない
「東京キッド」で入道雲が出てくるが、実にきれいだった
「24の瞳」 瀬戸内 海の影響を受けて雲ができる
「穢れ無きいたずら」 羊雲の波状雲 雲の映像は映画のストーリー展開にかかわっている
「男はつらいよ」 鐘つき堂の向こう側が夕焼けの積雲から層積雲 なまこ雲に変わっている雲があると判って、作品のあじわいも知らず知らずのうちに感じ取っていると思う
雲は雰囲気をだす重要な要素
うろこ雲が書かれているゴッホの「モンマルトルの丘の眺望」 入道雲が出て居たらと思うとやっぱり雰囲気が違うと思う
有名な絵画作家の作品を集めると10種類の雲が全部集まります
環八雲の発見者でもある 1969年 雲の出方がおかしいなと気がつき始めた
環八の上空に沿って並んで沸き立っている ゆっくりと南から北に動いている
平らな地域に雲ができることは大変珍しい 20年間研究して、雲の核がジーゼル車両から排出される微粒子物質で、首都圏だけが熱くなるヒートアイランド現象に依って吹き寄せられて、その地域に雲が出るという事が解った
地図に載せてみると首都圏だけが400~500km、南に移動した状態
環境が違う 環境の違いの境目に雲ができる
同じような現象が 名古屋、北海道の札幌、京都、大阪でもあるが東京ほどひどくはない
四条雲と呼んでいるが、大阪で出るものは、大阪で雲が発生して、京都の四条に進んでいって、そこで止まって、夕方を迎える
嵐山で酸性雨に依って被害があるという事が解った
これからは、首都圏で起こるゲリラ豪雨の原因を突き止めていきたい
目黒、世田谷、杉並 環八雲が多く発生する場所に多く発生する
雲を見ていると、細かいことにくよくよしなくなったりする
自分が生まれ変わっても雲を研究していきたいと思っている
雲は次々に解らないことが出てくる
大陸からくる雲にはさび菌が入っている 梨、麦に被害がある菌
黄砂と一緒に飛んでくる 最近はもっと、PM2.5とか重金属類とか悪いものが、ちょぼちょぼっと出てくるようなので、心配です
昭和13年生まれ 雲を観察し始めたのは、小学校6年の時、夏休みの自由研究で雲のスケッチをしたのがきっかけでした
雲のことを知りたくて、記録や写真を撮り、NHKの気象通報を聞いて天気図の作成も始めます
雲は塚本少年の想像力を掻き立て、珍しい雲を見つけたときは、まるで宝物を見つけた気分になると言います
1982年、塚本さんは太陽に輪ができる幻日環の撮影に日本で初めて成功します
塚本さんは最近は地球を包む雲の声を聞くを合言葉にゲリラ豪雨と其解明を目標としています
小学校の6年、自由研究で、雲調べをした 3っつの要因があったと思う
①私をかわいがってくれたおじさんが、雲の話をしてくれたが、戦死してしまった
②クラス担任の先生が、ゼロ戦のパイロットだった 空の上から見た世界、飛行機雲の初体験
空への興味がわいた
③ラジオの「鐘のなる丘」 映画化された 雲海の映像が撮ってとっても綺麗で、感動した
誕生祝いとクリスマスプレゼント、正月のお年玉の3つ合わせてカメラを買ってもらった
其カメラで雲を撮り始めたが、現像すると真っ白で、うまくとれなかった
父親からカメラを借りて撮ってみたりした
写真を見せたいので、学校の気象観測所があって、そこの先生に持って行って、いろいろアドバイスを受けた
高校では天気図を書くようになった
雲を研究するのだったら、天気図をかけないといけないと先生から言われた
天気図を書くのが日課になって、それを見ながら、どんな雲がいつ出るかという研究が始まった
高校3年の時に研究を纏めて発表しないかと先生から言われて、纏めたものを日本学生科学賞というのがあって、そこに応募したら、最優秀賞を取ることができた
大学から現在に至るまで雲を研究してきている
面白いように目的の雲に会う事が出来たりした
撮った写真は10万枚になる
1959年 富士山のはるか上空に真珠雲を発見して、撮影した事は一番感動した
新聞社の記事に写真入りで、掲載された
太陽が沈んで、やや夕焼けが終わりかけたころに、突然赤く真珠が輝いたというような感じ
極めて珍しく、おそらく日本で最初だろうとの、関係者の注目を集めている との記事
雲のずっと層になっていた雲に穴があいている雲を見た、撮影をして、どうしたらこのようになるのだろうと思ったが、解らなかった
穴の直径は数百m~1kmぐらいか? 消防署に連絡した人もいたとのこと
倉島惇先生に写真を見せたら、珍しいと、雲のでき方について説明してくれた
上空に飛行機雲があって、それから、氷の粒が落ちてきて、下にある水粒で出来た雲にその氷粒が穴をあけてきたんだという説明でした 撮影、武蔵野市
幻日環 長年見たいと思っていた 太陽が沈みかかっているところに見事な輪ができている
太陽に笠ができると雨になるとか言われるが、笠ができて、其脇に太陽と同じ高さに幻実という幻の太陽が二つできる、二つを結んで、太陽と反対側に輪ができる、それが幻日環という
それを撮るのには魚眼レンズが必要 撮影までに20年間かかる
武蔵野市で撮影したが、東京で見られるのは非常に珍しい
(北海道、南極とかではもっと見られる回数が増える)
常に雲は形を変えてゆくが、雲は13~15kmがてっぺんで それから下の対流圏に雲ができる
雲の種類は大きく10種類に分けられる その下に14種類があって、更の9つの変種があって
もう一つ副変種が9つあるといわれている
全部合わせると300種類に分けられる
すじ雲が出ると雨 太陽に笠が出来る 月に笠ができると雨 まんまるい笠天気が悪くなる
笠が破れていると雨は降らない
イワシ雲、サバ雲は雨 漁業地域でよく言われている
山の方に雲が入るのを入り雲→雨 山の方から出てくる雲 出雲→晴れ
羊雲は雨 羊雲 羊の後ろ足でたっているような羊雲→午前中に出ていると昼から雷雨
大気が非常に不安定であるときは、撹拌される雲が多い 撹拌されると立ちあがった様になる
波雲が出ると雨の場合が多いが、波雲だけでパーセントを取ると30%だが、西から打ち寄せているような波雲が出ると雨になる、8~9割の雨になる
1日13時間、5年間続けた 一番多いのが羊雲 うろこ雲→30% なまこ雲→30%
綿雲→10% すじ雲、雨雲
地震雲は?
地震を予測するような雲はもし存在しても、普通の雲と区別がつかないだろうと、先ずは存在しないだろうという事になっている
地震の前の発光現象があるが、花崗岩とか硬い岩がストレスを受けて、はじけるような状態になると光を発することはあるので、そのような条件の時には出来る
海での場合は水にさえぎられて、発光現象は起きない
「東京キッド」で入道雲が出てくるが、実にきれいだった
「24の瞳」 瀬戸内 海の影響を受けて雲ができる
「穢れ無きいたずら」 羊雲の波状雲 雲の映像は映画のストーリー展開にかかわっている
「男はつらいよ」 鐘つき堂の向こう側が夕焼けの積雲から層積雲 なまこ雲に変わっている雲があると判って、作品のあじわいも知らず知らずのうちに感じ取っていると思う
雲は雰囲気をだす重要な要素
うろこ雲が書かれているゴッホの「モンマルトルの丘の眺望」 入道雲が出て居たらと思うとやっぱり雰囲気が違うと思う
有名な絵画作家の作品を集めると10種類の雲が全部集まります
環八雲の発見者でもある 1969年 雲の出方がおかしいなと気がつき始めた
環八の上空に沿って並んで沸き立っている ゆっくりと南から北に動いている
平らな地域に雲ができることは大変珍しい 20年間研究して、雲の核がジーゼル車両から排出される微粒子物質で、首都圏だけが熱くなるヒートアイランド現象に依って吹き寄せられて、その地域に雲が出るという事が解った
地図に載せてみると首都圏だけが400~500km、南に移動した状態
環境が違う 環境の違いの境目に雲ができる
同じような現象が 名古屋、北海道の札幌、京都、大阪でもあるが東京ほどひどくはない
四条雲と呼んでいるが、大阪で出るものは、大阪で雲が発生して、京都の四条に進んでいって、そこで止まって、夕方を迎える
嵐山で酸性雨に依って被害があるという事が解った
これからは、首都圏で起こるゲリラ豪雨の原因を突き止めていきたい
目黒、世田谷、杉並 環八雲が多く発生する場所に多く発生する
雲を見ていると、細かいことにくよくよしなくなったりする
自分が生まれ変わっても雲を研究していきたいと思っている
雲は次々に解らないことが出てくる
大陸からくる雲にはさび菌が入っている 梨、麦に被害がある菌
黄砂と一緒に飛んでくる 最近はもっと、PM2.5とか重金属類とか悪いものが、ちょぼちょぼっと出てくるようなので、心配です
2013年9月1日日曜日
高野宏康(調査研究員) ・当時の若者たちが見た関東大震災
高野宏康(東京都復興記念館調査研究員) 当時の若者たちが見た関東大震災
関東大震災から90年 今年5月から墨田区横網にある東京都慰霊堂と復興記念館に残されている遺品の整理などを行ってきました
高野さんは今年新たに注目したのは当時の子供たちが関東大震災をどう見て居たかです
当時の子供達が描き残した作文や絵画、大学生が自発的に作った避難者カードなどから90年前の震災を、当時の若者達はどう見ていたかを分析して、今日から復興記念館などに展示します
大学院で大正時代から昭和初期の政治家の勉強していた
神奈川大学 北原糸子 災害史の研究が有名な人 関東大震災の資料の調査の研究プロジェクトを立ち上げるので、参加しませんかと言われて、調査するようになったというのが、きっかけ
2008年からプロジェクトが立ち上がってからは、復興記念館と、東京都慰霊堂に収納庫の中に12000点の膨大な資料が未整理の状態で保管されているので、それを整理して分析するという研究プロジェクトだった
生の資料はそれまでほとんど見たことが無くて、本当に驚いた
本所、被服所跡にある 避難場所で関東大震災時、4万人が集まってくる 9割以上が亡くなった
関東大震災の象徴的な場所 復興記念館、慰霊堂があるところ
復興記念館で企画展を開催する 子供に関する資料を展示 (絵画、作文、学校の日誌など)
「子供が見た関東大震災」というタイトル
作文は簡潔に誰とどこに行って、はぐれたり、友達が無くなったり、描かれている
(震災1周年目に体験を描いた) 196校から寄贈されたが、今残っているのは15校分
震災時の行動、復興の在り方はこうした方がいいとか、高学年になるとそういったことが書かれている
後藤新平の壮大な復興計画が大きく縮小されてしまうが、子供ながらにもっと予算をつかったほうがいいとかも、書かれている
流言飛語 津波が来る、富士山が噴火する、朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、聞くがそのようなことは無くてよかったと、作文を締めくくっている(1周年を振り返って)
昨年、北原糸子先生と一緒に静岡福祉大学の図書館で、津波の展覧会をやっているという事で、見学に行った
三陸津波、ラフカディオハーンの津波の話を基にした小説をかいたもの、 等の展示、関東大震災の展示ができればいいと話があり、是非子供の展示がしたいとのことが最初だった
それがきっかけで子供が見た大震災の様子を提示することになった
学校の日誌、震災後、どういう風に学校が対応していったのか、子供の状況がどうだったのかが解る
復興史、先生の体験記、先生の思いが書かれている
146枚の絵画が1つの学校(本横小学校 現在は無くなっている)で纏まって残っている
高田力蔵先生(後に有名な画家になる) 23歳 震災の絵画を指導している
とにかく自由に自分の個性に随って、自分の体験を書きなさいと指導している
見た方が、それぞれ受け取ってくれればいいと思っているが、絵画ですと3つのテーマ
①火炎(恐怖感) ②避難(状況) ③救援、救援物資(米俵等 救援された嬉しさ)
救援物資を整然と並んで待つ姿が絵ががれていて、今回の大震災にも通じている
自警団に呼び止められて、話を聞く状況
児童雑誌、と紙芝居の展示 高橋五山、児童雑誌編集者 原本と復刻版(手に取って読める)
避難者カードを自発的に作った 震災後、自分の家族がどこにいるか分からないので、それを確かめる為のカードを作っていた
まとまった形で2万枚あって、復興記念館に寄贈されて、今に伝わっている
活動の中心になったのが学生で、ボランティア的に作ったカードです
東京帝国大学の学生が、自分たちで何かできないか、最初はし尿処理を取り組んでいたが、行方不明になった人をなんとかしなければいけないという事で、東京市警調査会が後藤新平が作った組織、避難者の情報を把握する必要があって、組織を作るが、そこで学生たちがボランティアという形で、図書カードを使って避難者の名前とか、簡単な情報を記載した
日比谷公園の近くにテントを設けて、其カードを来た人たちが見れるようにした
意義のある活動だった 普遍的な人の想いがあると思う
復興の取り組み、無名の職員の一人一人の意識が高い
復興記念館、慰霊搭の知名度が低いので、今後沢山の人に知ってもらいたい
いかに分かりやすく大事なことを、示せるのか 何を伝えてゆくのか、何を受けとめるのか
入口を作ってゆく
関東大震災から90年 今年5月から墨田区横網にある東京都慰霊堂と復興記念館に残されている遺品の整理などを行ってきました
高野さんは今年新たに注目したのは当時の子供たちが関東大震災をどう見て居たかです
当時の子供達が描き残した作文や絵画、大学生が自発的に作った避難者カードなどから90年前の震災を、当時の若者達はどう見ていたかを分析して、今日から復興記念館などに展示します
大学院で大正時代から昭和初期の政治家の勉強していた
神奈川大学 北原糸子 災害史の研究が有名な人 関東大震災の資料の調査の研究プロジェクトを立ち上げるので、参加しませんかと言われて、調査するようになったというのが、きっかけ
2008年からプロジェクトが立ち上がってからは、復興記念館と、東京都慰霊堂に収納庫の中に12000点の膨大な資料が未整理の状態で保管されているので、それを整理して分析するという研究プロジェクトだった
生の資料はそれまでほとんど見たことが無くて、本当に驚いた
本所、被服所跡にある 避難場所で関東大震災時、4万人が集まってくる 9割以上が亡くなった
関東大震災の象徴的な場所 復興記念館、慰霊堂があるところ
復興記念館で企画展を開催する 子供に関する資料を展示 (絵画、作文、学校の日誌など)
「子供が見た関東大震災」というタイトル
作文は簡潔に誰とどこに行って、はぐれたり、友達が無くなったり、描かれている
(震災1周年目に体験を描いた) 196校から寄贈されたが、今残っているのは15校分
震災時の行動、復興の在り方はこうした方がいいとか、高学年になるとそういったことが書かれている
後藤新平の壮大な復興計画が大きく縮小されてしまうが、子供ながらにもっと予算をつかったほうがいいとかも、書かれている
流言飛語 津波が来る、富士山が噴火する、朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、聞くがそのようなことは無くてよかったと、作文を締めくくっている(1周年を振り返って)
昨年、北原糸子先生と一緒に静岡福祉大学の図書館で、津波の展覧会をやっているという事で、見学に行った
三陸津波、ラフカディオハーンの津波の話を基にした小説をかいたもの、 等の展示、関東大震災の展示ができればいいと話があり、是非子供の展示がしたいとのことが最初だった
それがきっかけで子供が見た大震災の様子を提示することになった
学校の日誌、震災後、どういう風に学校が対応していったのか、子供の状況がどうだったのかが解る
復興史、先生の体験記、先生の思いが書かれている
146枚の絵画が1つの学校(本横小学校 現在は無くなっている)で纏まって残っている
高田力蔵先生(後に有名な画家になる) 23歳 震災の絵画を指導している
とにかく自由に自分の個性に随って、自分の体験を書きなさいと指導している
見た方が、それぞれ受け取ってくれればいいと思っているが、絵画ですと3つのテーマ
①火炎(恐怖感) ②避難(状況) ③救援、救援物資(米俵等 救援された嬉しさ)
救援物資を整然と並んで待つ姿が絵ががれていて、今回の大震災にも通じている
自警団に呼び止められて、話を聞く状況
児童雑誌、と紙芝居の展示 高橋五山、児童雑誌編集者 原本と復刻版(手に取って読める)
避難者カードを自発的に作った 震災後、自分の家族がどこにいるか分からないので、それを確かめる為のカードを作っていた
まとまった形で2万枚あって、復興記念館に寄贈されて、今に伝わっている
活動の中心になったのが学生で、ボランティア的に作ったカードです
東京帝国大学の学生が、自分たちで何かできないか、最初はし尿処理を取り組んでいたが、行方不明になった人をなんとかしなければいけないという事で、東京市警調査会が後藤新平が作った組織、避難者の情報を把握する必要があって、組織を作るが、そこで学生たちがボランティアという形で、図書カードを使って避難者の名前とか、簡単な情報を記載した
日比谷公園の近くにテントを設けて、其カードを来た人たちが見れるようにした
意義のある活動だった 普遍的な人の想いがあると思う
復興の取り組み、無名の職員の一人一人の意識が高い
復興記念館、慰霊搭の知名度が低いので、今後沢山の人に知ってもらいたい
いかに分かりやすく大事なことを、示せるのか 何を伝えてゆくのか、何を受けとめるのか
入口を作ってゆく
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