2013年8月7日水曜日

米倉 斉加年(舞台役者ほか)     ・戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった

米倉 斉加年(まさかね、舞台役者、演出家、俳優、画家)  戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった
昭和29年 福岡から上京し、3年後に劇団民芸に入り、宇野重吉さんのもとで数多くの芝居を演じてきました
NHKの大河ドラマや、寅さんシリーズに欠かせない俳優でどんな作品に出ていても、独特の存在感のある方です
そんな米倉さんの小学校時代は太平洋戦争の真っただ中、戦火を逃れた先で待っていた、ある出来事を絵本にしました
30年経ったいまでも中学1年生の教科書に採用されています

昭和9年生まれ 江戸時代に近い生活 江戸時代の井戸を使用していた 
かまどで米を炊いていた
敗戦が小学校5年 今では完全に切れているが、でもそれは繋がっている
母親が死んだときにまだつながっているなと思った 
やっと楽になったのに、泣いてはいかん、悲しんではいかん、一人戦争を背負い続けたと思うと
もう楽になってくださいと泣いてはいかんと、53歳の時
父は戦地に行く 子供は私と妹、生れたばっかりの乳飲み子(弟)

普通の生活の中に戦争がある 
母親は祖母、私や妹に食べさせるので、自分が食べないからおっぱいが出ない、だから弟はおっぱいが飲めないので死んでゆきます
それが戦争だなあと、戦争は戦場だけで有るのではなく、私の戦争は弟が死んだこと、これが一番大きいですね だからなかなか終わらない
ミルクと弟さん、米倉さんの関係が教科書に載っている
「大人になれなかった弟たちに」

私が4年生のころ 夢を見て泣いて泣いて枕がびっしょりになるくらい泣いた
弟の夢を見ていて、弟のことを描かないといけないと思った
家の中に防空壕があった 家は福岡城の真裏だった 
福岡城は西部軍司令部になっていて、空襲が来たら一番狙われるという事で、母は疎開しようと思って居たが、疎開が1年遅れた、縁故疎開、田舎に親戚が無いので行くところが無いので、母が或る人に頼んで20km離れたところに疎開した
配給はもらえなかった(本当は配給はあったが、都会から疎開したものには配給されず)弟は栄養失調で亡くなった
福岡の時は練乳とかがあったが、粉ミルクは戦後 練乳は弟にあげるものだから、といわれたが解っていたが隠れて、飲んだりした
その罪悪感は79歳になっても思う

弟(ひろゆき)のことを書かないといけないと思った
戦争孤児は同世代の人 中国に残った残留孤児  弟たちのことを言いのこさないといけないと思った
絵本が先で、1年後に教科書に載った
ひろゆきはどうしたら死なないですんだかと言うと、父親がいれば死なないですんだと思う
夫婦がいれば、子供3人ぐらいは食べさせられる
なんで父親がいなかったかと言うと、戦争に行っていたから
あの年から、地球上で戦火が絶えたことがない

母親は胸を患って、死にそうだった、父が帰ってきてから、毎日のようにレバー、夏ミカンを父が必死でたべさせたので、命を長らえた(父が帰ってこなければ、母は亡くなっていたと思う)
本の最後に「戦争では沢山の人たちが死にます 老人、女、子供と、飢えて死にます
そのことを私たちは忘れてはならない
忘れると平和は守れないでしょう」と書いてある
40歳代に書いたもの
ひろゆきの毎日に牛乳を捧げるのを忘れてしまう時がある
毎回夏になると読む 忘れないように読む 忘れると平和は来ないでしょう

私の先生は戦争中、教職にあったものとして責任を取って学校をやめるとおっしゃった
(戦争中に辞めると思っていた)
小学校1年生の時の担任の先生で、怖い「耳なし芳一」の話をした先生
或る日朝礼台から今日限りこの学校から辞めますと言って、(校長をぶん殴って ) そのあと校長が長々と訳の解らない話し始めていた
40歳を過ぎて、その先生の息子から手紙があったが、その先生は止めてはいなくてとなりの学校に転勤しました、ただし米倉さんのおっしゃったことは、80%合っています
戦後に先生をやめていますとのことです

耳なし芳一 伝説がある 目の不自由な少年の琵琶法師
なんで耳が無いのかと言う話 怨霊に耳を取っていかれる話
怨霊に 少年の琵琶法師は平家の語りをするが、素晴らしいので来てくれと言われて、頼まれて毎晩出かける
和尚さんが或るときにみると、ふっと顔をみると死相が出ている
小僧に付けさせて行ってみると、少年の琵琶法師は墓の前で弾いていた
人玉が飛び交って、平家の落人、女官らが、しくしく泣いている 
これはいかんと和尚さんは、芳一を裸にして、経文を身体全身に書いて、怨霊には見えないから一言も声を出してはいけない言われる
(この話が怖くて夜便所に行けなかった)
芳一、芳一と幽霊が来るけど、見えない
耳だけがぽっかりと浮いていた(耳だけ経文を書いてなかった)
怨霊は耳だけを切り取って持って行って、死を免れた

先生(梅林先生)がなんでこの話をしたのか、47歳に成るまで解らなかった
絵本を描きだしたが、やっぱり童話の神髄は恐ろしい話だ、生きることにつながる
怨霊は死、死から生を勝ちとった
戦争中は、死ね、死ねと死ぬことが、美しく清いことだと、少年航空兵で皆散っていった
それを送り出す教師の気持ちはどうだったろうと、思った
そうしたら、教師が死ぬのは怖い怖いと言っている
世の中が戦争の方を向いて、大概全員が戦争の方を向いているときに、教師が背中を向けて、子供たちに向かって、生きなさい、生きなさいと言っている
怖い話は生きる本能を与えるんだなあと 「生きよ、生きよ、生き続けなさい」と言っている

一番怖いのは、何だろうかと、たまたまそこに戦争があった  一番怖いものは戦争
宇野重吉 (劇団に入ってから) おじいちゃんの昔話 故郷の学校に全部くばったりなさった
その中に 耳なし芳一があった (私の先生は二人ともこれを読んだんだ と思った)
二人とも優しいけど、怖い 
梅林先生のことを新聞に掲載したら、物凄い反響だった
松永伍一も 同じ先生に教えてもらった
自分の好きなことを子供に与える
グリム童話 (ドイツ) ピノキオ(イタリア) 東南アジアの話  当時、三国同盟の影響で入ってきた

破壊 戦争と言うものは人を殺す 兵器、武器は人を殺すためだけにある
平和は簡単だと思う 皆が生きること 平和は殺しあわない、こんな簡単なことをなかなかできない
次にバトンタッチして、伝え続けなくてはいけない(忘れないために)









































2013年8月6日火曜日

吉田敬三(写真家)        ・被爆二世の心を撮る

吉田敬三(写真家)     被爆二世の心を撮る
1961年昭和36年 長崎県生まれ 母親が長崎で被爆した被爆二世です
吉田さんは中学校を卒業した後、陸上自衛隊に入隊し、戦車大隊に配属しました
その後、自衛隊を除隊して、出版社などを経て、カメラマンとしてスタートしました
これまで世界各地の紛争地を取材した写真、ルポルタージュなどで活躍してきました
吉田さんは、今日から長崎市で「被爆二世の肖像イン長崎」と言う写真展を開催します
吉田さんと同じ全国各地の被爆二世、104人の素顔を追った写真を集めたもので、親の被爆体験と向き合い、迷いながらも、自らの道を探る被爆二世達の姿が捉えられています
吉田さんが写真家になるまでの道のりを始め、今回の写真展を通し、被爆二世の人たちが訴えかけることは何かを伺いました

デジタル使えば、パソコンで処理できるが、フィルムを使っているので、フィルムの現像から始まって、プリントまでやっています
被爆二世と言うものに対しては、デジタルだと目に見えない、実態が無い訳ですよね
なかなか思いを込めることができなくて、フィルムにきちんと焼きつける、フィルムのこだわりがあるので、このテーマではフィルムを使って、自分一人でやっている
母親は10歳の時に被爆している 特に隠していたという事は無い
写真家になって被爆二世の写真を撮り始めてから、初めて母親に詳しく、その時の一挙手一動作まで詳しくインタビューを試みたが、でも解らない部分はあった

早く親元から独立したいという想いがあり、自衛隊に入った
少年工科学校に行った、訓練も並行して行った
戦車の道を選んで、戦車学校に進み、そのあとに北海道に配属された
最初は運転、砲を撃つことも担当 若い隊員を指導する班長を4年ほどやる
通信教育で大学の勉強をして4年で卒業できたが、閉鎖的で、海外がどういう軍隊の動き、役目をしているのか見てみたかったが、休職して、それを行かしてくれることは無かったので、自分の目で見てやろうという事で、退職してすぐ海外に出てゆきました

最初、中南米をバスに乗って放浪していたが、異文化、異民族に有って吃驚するだけだったが、或る時のどかな田園風景のところでバスが急停車して、一人の人間が銃を持って、倒れていた
聞いてみると、これはゲリラで政府軍と撃ち合いをして死んだばっかりだといわれた
こんなのどかな街で戦争が起こっているんだという事に先ず吃驚した
日常生活のなかで戦争が起きていること自体に、衝撃的だった
自衛隊である程度の知識はあったが、全く初めての経験で、なかなか理解をするのに最初は苦しんだ
日本に居ては伝わってこないもの、これが本当の世界の実情だと、これをできるだけ伝えたいとの思いが湧いてきて、ジャーナリズムの道に入りました
アルバイトから始めて、いろんなところに記事を売り込んだりとか、雑誌社に持ち込んだりしていた
日本では海外ネタを割と採用される率が高い(経費削減で特派員とかあまりおけないので)

いつも赤字だったので苦労していた
カメラマンと一緒に仕事をしたときに、自分が一晩寝ずに考えて書いた記事よりも、一枚の写真の方がインパクトが強くて、写真にはこんな力が有るんだと、写真で有れば言葉を越えた共通の言語としての需要があるんだと、当時記者をやりながら、写真学校の夜学に通って勉強をしました
写真は嘘をつかない 記事であると自分の言葉に訳してしまう
写真は必ず現場に立ち会っていなくてはならない
カンボジアはどんなところだろうろ、自分で選んだが、最初怖くてシャッターを押せなかった
地雷の被害者が足を切断したり、手を切断したりとかして、これを映像として取っていいのかどうか悩みました
皆さんが気を使ってくれて、お茶を出したり、お菓子を出したり、最後にはご飯まで出してくれて、この人たちに何か恩返しをしたいと思い、やっぱりそれは写真を撮るしかないと、ようやく彼らの素顔を写真に撮れるようになって、日本に戻ってきて、高く雑誌でも評価されて、そこからが本当のカメラマンとしての第一歩でした

今まで カンボジアの地雷や、路上生活者、夜間中学などのテーマを撮ってきましたが、先ずは最初はカメラを持たずに彼らのところにいって、私を理解してもらう、そうして何日間かして理解してもらってから、受け入れて貰ってからレンズを向けるという作業をしているので時間はかかる
単なる現場にいったという状況証拠であれば、そこでシャッターを押せば済むが、そこに映っている表情を引き出たせるためには、彼らが安心して心を開かないとその表情は取れない
緊急性の或るものは、時間はかけられないだろうが、私が撮りたい写真は関係性を築いたうえでの写真なので時間をかけて撮っている

私自身は被爆者から生まれたという認識はありました
カンボジアで長崎のことを聞かれて、原爆のことを知っているか、被爆した母親はどうだったかと、聞かれたときに、一般的なことは知っていたが、母親自身のことに関しては理解していなくて、一番身近な戦争被害者は母親だったと気付いた
他の二世はどうなんだろうか、自分と同じように知らないままなのだろうかろ、それを確かめてみたいと思い全国の二世を探しました
被爆二世、団体もないし、インターネットで被爆した二世だと表明した人に、手紙を書いたが1年間何の返事もなく、このままで続けていいのかなあとの不安にも駆られた
山口の被爆二世の会の方が8月6日 広島の平和公園で青空集会をやっているので会いにおいでよと言われて、会いに言って写真をとっても構わないと言ってくれて、初めて写真を撮ったが、活動を始めてから1年後だった

わざわざ被爆二世だと公表する人もいないし、探すのも苦労する
撮影することに応じることはないのではないか、と友人達から否定されることが多かった
被爆二世とあって、皆さんの人生の話を聞く事によって私はエールを頂きましたし、これは続けなくては行けなんだと、皆さんの二世としてのバックアップがあったからこそ、10年を越えるがここまで続けて来られたと思う
被爆二世という同じ土俵でいろいろ溜まったことを話すことができた
話はするけど、写真は勘弁してくれという人もいたし、積極的に対応してくれる人もいた
120人を越える被爆二世と接するが、親のことは半分以上がなにも聞いていないという人が多かった
写真撮影に応じてくれたと言う事は、何かしら自分の中でわだかまり、くすぶっているものがあって何かのきっかけにしたいという人が何人かいらっしゃいました
親自体がいなくなってしまった人がいる
親の体験を聞くことができる最後のチャンスではないかと、焦りも感じる

なんで撮影に応じてくれたのかと聞いた人がいた
親が体験したことを、周りの人たちに体験してもらいたくない 一人一人は声が小さいかもしれないが、100人集まれば大きな平和の声になるのではないか、私もそういう声の一人になりたくて応募したんですよ、と言われた
核兵器廃絶とか、世の中を変えたいというようなことも立派だと思うんですが、一人ひとりが今の生活を守りたいという事が基礎にあるんじゃないですかね

親は子供に聞かせようとするが、子供のころは又親が昔の話をしている、もうそれは今まで聞いたからいいよと、言って聞く耳を持たなかったのが、親が亡くなった後で、もしかしたら自分は大切なものを聞き忘れたのではないかと、と言う事で親が亡くなった後で、当時親と同じ職場にいた人を訪ねて、原爆が落ちたときに親はどういう行動をしたのかと、言うのを全部訪ね歩いて、一冊の本にされた方がいた、今ならまだ間に合うのではないかと思っています
被爆二世は全国に30万とか50万とか言われているが、孤立している
その人達に全国には仲間が、被爆二世がこんなにいて頑張っているよと言うようなものを同じ被爆二世として伝えたいし、エールを送りあいたい
病気などで悩んでいる人たちには、助言、サポートをしたいし、地域地域でいろんなおしゃべり場が作れればいいなあと思っている

私たちが自ら声をあげて、解決していかないといけない 
皆が集まれば大きな声になるので、そういう声を届けていけたらいいなあと思います
被爆二世はどういう状況に置かれて、何を求めているかと言うと、先ずは調べてニーズを把握しないと解らない
私がお会いした方々は親の体験を知った中で、自分として何をしようか、悩みながら一つ一つ進んでいる

写真展 観てほしいところは? 
被爆地での写真展なので意味合いが違ってくる
長崎の人々には、全国に被爆二世は居るんだよと言う事を見ていただいて、いろんな被爆二世がいる、それでお互いにエールをキャッチボールをしていただければ、いいなあと思います
被爆二世の方は産むときにいろいろ逡巡が有ったらしい、のですが勇気を持て産んでくれたと思うので、被爆二世がこれだけ大きく元気に育ったと言う事を見て、自分が産むと決意した選択は間違っていなかったという事を被爆者の人たちには伝えたい
自分たちの未来に希望を持っていただければいいなあと思います

写真と共にメッセージもある 被爆時のデータ 
被爆者の生きてきた人生を一番近くで見てきた体験があるので、それはそれでいろんな人生が現れていて参考になると思います(被爆二世ならではの想いが書かれている)
ありのままの素顔、人間として生きる、血の通った人の姿、写真だとありのままの姿を伝えられるのではないかと思って撮っている
カンボジアの写真を撮って写真を展示したが、ちらっと見て帰ってしまった、写真も人に受け入れられるものでないとなかなか伝わらないと、実感した
今回はポートレートと言う手法を取っている  
その人の生きた証が撮れるのではないかと感じている
私の写真がそのまま遺影になった人もいるが、それは写真家としても光栄に思えよと言われてやってて良かったと思う






































































2013年8月5日月曜日

比企能樹(北里大学名誉教授)   ・オリンピックのチームワークを外科治療に 2

比企能樹(北里大学名誉教授)   オリンピックのチームワー クを外科治療に 2
「一艇有りて、一人なし」 エイト 8人の漕ぎ手 舵を取るコックス コーチ 監督 で一つのチーム
一人ではないと言う事
旧制第二高等学校 と東北大学が合同で冬場に練習をしていた
荒海で練習中に遭難してしまった 
葬儀の席上で、当時の旧制第二高校の校長 阿刀田令造校長が弔辞を述べたが、痛恨を込めて若い死を悼んで、彼らの結束の良さをたたえた
その言葉の中に「一艇有りて、一人なし」と言う言葉がありました
しっかりと船のそばで離れずに、オールを持ったままで、事切れていたという様子だったと記載されている

ボートの場合は4人で漕いでも、8人で漕いでも、勝ったか、負けたかの結果でしかない
1956年 メルボルンオリンピックに出場 大学単位の出場 実業団は当時は強くなかった
学校の合宿所から朝、練習に行って、それから学校に行って、又帰ってから練習をした
当時は総合大学が強かった 国立大学が強かった 東大、京都大学、東北大学、一橋大学等
父が東京大学のエイトで全国優勝して、子供のころからみていて、刺激をうけた
各大学が40名ぐらいいた  
東京大学医学部と慶応義塾大学医学部で毎年秋に対抗戦をやっていた
ずーっと負けていたが、勝つことができた
その後マネージャーをやらされて、食事の用意などをやった

第二エイトに選ばれ、選手としてデビューできた
1955年全日本大会があり、1位東大、2位一橋大学、3位京都大学だった
この3チームが第一次オリンピック候補となる 
1956年 優勝校がオリンピックの候補に加わる
東京大学がダントツだった 淡青会22歳以上も参加(OB) 京都大学 一橋大学が有望 慶応大学が4番目
リーグ戦で戦う事になるが、最初東大と戦う事になる
オールに問題があることに気がついたが、遅くてなんとかオールがしならないように、いろいろ工夫したが、いまいちだった
京都大学のスタートは抜群で、京都大学のオールを貸してもらえないかと交渉した

決勝で一緒に当たるときに、オールは借りることができなかった(断られるだろうとは思っていた)
会社で作ったオールを3つの大学で使っていた 北海道大学 東京経済大学 
東京経済大学が形状的に慶応に合っていたので、予選で負けてしまっていた東京経済大学に交渉して、監督さんに許可を取って貸してもらった
オールの先の色が黄色だったので、慶応用の色に修正して、行った
硬くて、いいが腰に負担が来る
東京大学と対戦  1000mまでは負けていたが、じりじりと追い上げて、あと200mぐらいのところで一本だけ水しぶきが上がり、タイミングが遅れて、ちゃんとオールが入らなかった

コックスがそれをみて、スパートの号令がでて、それで追いついて強敵東大に勝った
最終が無敗同士の京都大学と慶応だった
出だしは京都大学先行 残り150m~200mのところで、スパートをかけるかコックスが制調(一番前の人)に問いかけたら、まだという指示を出した
その後スパートをかけた 6分3秒  30cm差で勝利した 日本新記録だった

オリンピック代表用の船 檜1枚作り 早稲田OBの社長さんの会社で作って、一緒に付き添って船を運んでくれた
私たちは羽田空港からDC4 プロペラ機で24時間かけて、3回給油をしながら行きました
団長は田畑政治 万雷の拍手を受けて第一陣がオーストラリアの地を踏んだ
準決勝まで進んだ   1000mまではリードしていたが、チェコが出てきて、風が吹き出した
日本の船は軽く、チェコの船は重く、日本の船は風に流されて、ジグザグのような走行になってしまった
その時はアメリカが優勝(敗者復活から上がってきて勝った) 2位がカナダ 3位がオーストラリア
準決勝の翌日は静かな、鏡のような湖面だったので、残念な思いはある
私は4番クルーで、オーストラリアの4番クルーとは家族ぐるみで付き合ってきた
彼はジム・ハウデンと言う名前で、日本に来て会った時に、足をみてくれと言われて、観たが癌であった(癌研にも依頼して確認したが) 惜しい男だった(最高裁の判事になっていた)
以後も家族とのお付き合いはしている

2002年に世界マスターズオリンピックで仲間がそろったが、コックスがいなかった
1956年のメンバーで漕いだ コックスのお骨の一部を散骨した
小泉信三の言葉 「運動、練習は不可能を可能にすると同時に、良き友を得る」
来年も行く計画がある 心はメルボルンのウェンドリー湖(ボート競技した場所)です




































2013年8月4日日曜日

比企能樹(北里大学名誉教授)   ・オリンピックのチームワークを外科治療に

比企能樹(北里大学名誉教授)   オリンピックのチームワークを外科治療に
比企能樹さんは慶応義塾大学医学部在学中の、1956年に慶応のボートのエイトの代表クルーの一員としてメルボルンオリンピックに出場しました
消化器の内視鏡外科学についてうかがいます 第二回でオリンピックの思い出を伺います

2020年オリンピックの開催地が9月に決まる
合宿所から学校に通っていた 実習に出られないこともあり、落ちてもいいからオリンピックに行けとの一声で、行くことができた  無事卒業させてもらった
追加して実習したりしてもらった
ノートを借りることができて、大変助かった、友達の協力が大きかった
「恕(じょ)して、医を行う」 私が信条としている言葉  
もともとは孔子がおっしゃった言葉(福沢諭吉の本によく出てくる言葉)
「己の心のごとくに、他人の心を考えて全てを行いなさい」と言う事

医学に関しては、必須のことだと思った
大阪の適塾 福沢諭吉はここで学んでいる
適塾二階に フーフェランドが 医に対する考え方を12条掲げてある その最初に掲げられている
「自分が手術を受けるとか、自分が痛みがある場合に、それがどういう風にしたら、治るか、どういう風にしたら痛みが取れるか、と言う事を患者さんにして差し上げることが医学の原点である」
そういう事だと思います

専門が消化器の内視鏡外科学
内視鏡 診断をする手段  大学院に入った時に教授からあなたは内視鏡を勉強しなさいと言われた (外科医療を目指していたので、ちょっとがっかりした)  
当時は内視鏡が初期の物で、外国から輸入された鋼鉄製の管を口から入れて、内部を観察するような状況(光は電球で、胃の中を照らしながら見てゆく)

太さ1cm弱 体を直線にして、頭をベットから上を向いて出して口をあける
頭を持つのが最初の仕事だった  
患者はつらい(局所麻酔)意識はある 粘膜の麻酔をする 
呼吸はしているし、身体を動かすので、ちょっとしか見れない
1881年にドイツの学者ミクリッチが人間の胃がんを始めて見つける
鋼製なので先端はゴムでおおって、胃壁を傷付けないようにしてあったが 軟性胃鏡といったが
決して柔らかくなかった
1960年にアメリカでファイバースコープができた  

日本はいち早く、購入して、共同で使った(東京大学、慶応義塾大学とか)
ミクロン単位のグラスファイバーを10万本を集めた管1cmぐらいで曲がるようになっている
最初手にしたときには吃驚した 
日本でも内視鏡を作りだしたが、それが現在に至っている
胃の中をみるだけではなくて、ファイバーに平行にチューブを入れて、その中に金属でできた生
検カンシ(鋏)で2mm角ぐらいの部分を手元の操作で取ってくることができるようになった
胃の中の一部を取って来る事ができるようになった それを作ったのは日本です
診断学は五感を全て要求してくるので、内部に一部を取ってくることによって、それができるようになった(癌なのか、それとも良性なのかを識別できる  柔らかいものなのかごつごつしたものか  手術をする上で非常に大事なこと)
中の状況を写真に撮って検討する 悪性なのか、良性なのか 観察する
東京大学分院でいい写真が撮れる胃カメラを作った 1957年に世界で初めて、できた

胃の中にカメラの先端が入ってゆく 先端に4mmのカラーフィルム(25枚撮れる)を入れる
パトロネの中に入れる  歯並びから55cmで胃が始まる
そこから胃の中を撮ってゆく
如何に綺麗な像を撮影できるか 次にいかにして部分を取ってくるか 
みてる瞬間に皆でみられないかを検討する (日本で発想 画期的)
16mmの映画を撮ろうという発想が日本で検討されるようになる
ビデオスコープになる 先端にフィルムを取り付ける事が無くなる
綺麗なカラーが撮れるようになる
1cmだった径が8mmから7mmになり、同時にTV画面を見ながら皆が観察できるようになった
患者にとっては段々楽になった
当初鋼鉄製の時は剣呑師をみならってやりなさいと言われたことがある

1978年国際学会で発表 その前にレーザー光線で内視鏡を導入して、胃の中、食道の中を治療をする方法を発表するという事で愕然とする  (治療の方に行っている) 
キエフハバー ドイツの内科の教授に話して、帰りのミュンヘンによって、治療現場を見せてもらった
レーザー光線の入るファイバーを入れて、出血している箇所をレーザー光線で止血する(熱で凝固)
これは物凄い刺激だった 
レーザー光線は高価な装置なので、簡便な治療の方向に向かった
内視鏡が診断学から治療学に変わってきた
工学部と提携して、一人一台の機械を何か所でも使えるようにした

初期診断で 5mm以下の小さい癌を見つけた 色が違う 一部を取る、結果が癌であると、即手術、2/3の胃を取っていて、どうも納得できなくて、そこまで取る必要がるのかなと思った
癌と言うのはそこだけの問題ではなくて、癌は全身病だと当時習っていたので、いくら小さくても癌が飛び火する可能性をもっている
リンパ節を通して癌細胞が絶えず全身をめぐりだすと、どこにいつ起こっても不思議が無いような転移がおこる
リンパ管を通して、癌細胞が絶えず全身をめぐり回ると、そうするととんでもないことが起こる
2/3を取るのが、原則になっていた 
小さい胃がんでも リンパ節も取られるので、第一次、二次、三次リンパ節を取って、早期癌であっても、調べた  
リンパ節を調べたところ、2cm以下の小さな癌では、非常にリンパ節がないか、あるいはあっても1つか2つと言う事が解った

癌の性質があるが、どんな性質ならば転移しないか解ればいいと考えた
981例揃えてベルリンで発表した 第一回の消化器内視鏡学会だった
癌は全て手術だよという時代に、全部が全部切らなくてもいいという、問題提起をしたので大騒ぎになった
10年経って3000例近くになり、又発表した
少しずつ、転移をしていないことが理解されるようになった(今はヨーロッパに行っても早期癌は」内視鏡で取ってもいいという事になった)
診断、如何に早いうちに気がつくことが大事
常に皆とチームを組みながら、医学といえども大切、一層成果が上がる











2013年8月3日土曜日

明和政子(京都大学大学院准教授) ・人らしい共感力を育む

明和政子(京都大学大学院教育学研究科准教授) 人らしい共感力を育む
発達科学者 京都大学霊長類研究所で 10年余りチンパンジーの心について研究、その後比較認知発達科学と言う分野を開拓し、ひととほかの霊長類を胎児の時期から比較することで人らしい心の発達を研究しています。
これまでの研究成果から、明和さんは現代の日本子育ては人を生物として捉えた時、とても不自然で人らしい共感力を育む環境を取り戻す必要があると言います
人のこそだては本来どうあるべきか、伺いました。

明和さんが開拓した比較認知発達科学とはどういう学問なのか?
一番関心があるものは、心と言う見えないもの、その内容付いて知りたいというのが、思いとしてありました
心を測る、調べるという方法は、例えば、脳の活動を見る、遺伝子を調べるとか方法があるが、私は心がどのように働いているのかと言う事だけでなく、なぜ人が、今有るような、人らしい心を持つようになったのか、「何故」の視点を非常に考えたいと思ったということになった
比較と言う言葉の中には、人間と人間以外の動物 、特に今この地球上に生きている動物の中で一番近い動物チンパンジーと人間との心の働きを比較するという事が一番面白いのではないかと考えました。

自分の経験もあるが、一人の小さい子を抱っこして、もう一人をベビーカーに乗せて、と言う風に、小さい子を二人を自分一人で育てているような光景をみると、研究者としても、子育ての当事者としても、非常に心が震える感じになる。
人の子育て、チンパンジーの子育てを15年ぐらいみてきたわけですが、ひとと言うのは本来、私たちが多くの場合育てているように、お母さんが中心でお母さんだけが主に責任を担いながら、育ててゆくとう風な子育てのあり方では、本来なかったという事が解ってきた。
赤ちゃんは自分ではなにもできない、非常によわよわしい状態で、生れてくる。
チンパンジーはそうではない 生まれてすぐにお母さんの体にしがみつく事が出来る。
そうすると、抱っこをしてもらわなくても、おっぱいを飲めるし、お母さんが逃げれば、危険から身を守ることができる。
人間は本当に親の手を借りないと、生きていけない存在であることが先ずひとつ重要なことだと思います。
親、周囲の手を借りながら大きくなる、かつ10年以上にわたって、続くと言うのは人間の子育てのはっきりした特徴だと思います。

チンパンジーの場合は5~6年すれば、自立して仲間と一緒に生きてゆく。
野生チンパンジーの出産の状況を実際にみた研究者は居ない。
チンパンジーは出産が近ずくと、ひっそりと群れから離れて行って、他のチンパンジーが居ないところで出産をして、或る程度子供が成熟すると群れに戻ってくる。(一週間ぐらい)
人間は出産のときから、ひとの手を借りながら、生まれ育ってゆくと言うのが特徴です。
チンパンジーの場合は5~6歳で自立が終わって、次の子を産みます。(霊長類一般の特徴)
人の場合には10年以上、かかる子育ての中で、2歳、3歳、4歳の段階で下の子を産んだりすることがよくある。
小さい子をお母さん一人が育ててゆくという状況が、あまりにもチンパンジーとは違いすぎる
そこに非常に関心を持っている。

人間はいつの時点で、どのような子育てをしてきたのかと言う事に関しては、ほとんどわかっていない。
面白い仮説がある。  
おばあさん仮説  おばあさんには、非常に子育てにかかわる大事な役目があると言う仮説。
人間以外の霊長類のメスは死ぬまで、子供を産み続ける。
人間は子供を産むという状態が終えた後も、女性は長く生きる。
閉経後10年以上は生きている。  そこがおばあさん仮説の重要なところ。
自分の娘が子育てをするときに、助けてあげる、それがおばあさん仮説の一番わかりやすい説明です。

普通だといいが、今は核家族で頑張って、お父さんが協力しながら少ない構成人数で頑張って子供を育てている状況が多い。
おばあさん仮説によると、本来はおばあさん、あるいはおばあさんに相当する家族の仲間が皆で娘の子供を育ててゆく、やっぱりそれは本来の子育ての人間の形式だったのではないかと言うのが、一つの魅力的な考え方だと思う。
5人、6人育てた時代は家族で育てる。
おばあさん仮説はいまだに説ではあるけれども、魅力的な考えだと思う。

役割分担ができれば、余裕のある環境の中で、いろんな経験を与えながら、コミュニケーションをしながら育ってゆく、その環境の豊かさを提供するのは、お母さんだけではなく、そのほかのメンバーが関わって初めて成り立つ、成功すると考えている。
お母さんの顔を、一番、目にする他人の顔をいつから理解するのかと言う研究では、生後1~2カ月で理解できるという事が解っている。
お母さん の顔写真と見知らぬ女性の写真を生れたばかりの赤ちゃんに見せる、そうして赤ちゃんはどっちの写真をよく見るかなを調べると、1~2カ月でお母さんの顔に多くふれた赤ちゃんはお母さんの顔写真をよく見るようになる。

育ってゆく環境の中で、赤ちゃんにほほ笑みかけることによったりして、順次覚えてゆく。
生後6カ月で人の顔、声、ふるまいを区別できるようになる。
いろんな人にあやされることは大事だが とっかかり 基盤となるお母さんの顔がまず大事。
複数の人の中で育つ赤ちゃんとお母さんとだけの赤ちゃんとでは、笑顔の出方とか、他人の心への気付き、と言ったような能力の発達が、後の発達が多少違ってくるというような報告もある。

共感力は人間の心の非常にユニークな部分で、今、心理学の分野でも非常に注目されるキーワードになっている。
ラット、猿、クジラ、イルカなどは共感力を示すことが解っている。
仲間が波打ち際に打ち上げられると、他のイルカも集まってきて、多くのイルカが浜辺で苦しんでいる事が事件としてある。
一つの共感力ではないかと言われている。(辛い、悲しい ネガティブな心に対する共感力)
猿、ラットも感じることは実験的にも証明されている。
人間特有の共感力、じつは他人の嬉しい気持ち、ポジティブな気持まで共感してしまうという非常に面白い、ユニークな共感力を持っている。
勿論、人間は他人の悲しみ、苦しみにたいして共感することは、他の動物以上に持っているが
他人の嬉しさまでにも共感してしまうと言う非常にユニークな側面がある。

他人の喜び、嬉しさまでにも共感してしまうという人間特有の心の働きと言うものは、皆で子供を育てるという、人間特有の子育ての、非常に基盤として、重要な役割を果たしてきたのだと思います。
動物は何故ネガティブな共感力だけを持っているのか?
一つの説としては、他人の苦しみ、悲しみと言うような状況を見れば、自分には害が及ばないように、先立ってふるまう事が出来る、他人が危険だという状況が解れば、自分はそこに近づかないとか、逃げるとかで、自分の命を助けることに役だつ訳で、生存上非常に有利になる。

理解できないのは、何故人間は喜びにまで、共感できるのかと言う事は、生存可能性と言う事では解釈がなかなか難しい。
他人から共感を得られないと悲しい。 
凄く基本的な人間を支える重要な能力であることは間違いないと考えている。
私が考える共感力を高めるカギの一つは、真似をする、模倣することだと思っている。
猿マネ 猿まねするのは人間だけ。
日本猿は真似をしない 猿に真似をさせようとしても、猿は真似を返してこない。
チンパンジーですら、身体で真似をすることは、非常に難しいことだと解ってきた。

生れて1時間にも満たない赤ちゃんが、他人の表情を真似する研究もある。
自分の子供の前で実験をしたが、1時間では出来なかったが、2日後には顔のまねをした。
他人がレモンをかじっている表情をみて、酸っぱさを感じたりする。
同じ経験をすると、同じ心が沸き立つ、と言う事なんですよ。
人間の赤ちゃんは言葉を獲得する前から、嫌になるぐらいまねをするが、子供が他人の心に気付いてゆくという上で、非常に重要な役割を果たしている、と考えています。

母親が笑う、と 赤ちゃんも笑うが、身体としての形としての笑いだけではなくて、お母さんが嬉しいという気持ちに、子供自身も気付いてくることになる。
模倣の重要な役割だと思う。  共感力を成りたたせるために模倣は凄く重要な役割を果たす。
赤ちゃんに教えたいと思うが、同じようなことをさせてあげる、同じ経験を積み重ねてあげる
そうすると、母親とかの気持ちに気付くことになる、それから成長してゆくと自分とは違う心を持っていることに気付く。
自分と他者の違いにも、気付くことが大事。
猿の研究 猿の前で人間が一生懸命猿のまねをする、そうすると真似をしている人の場所にずーっといる。
食べ物を食べている時、その真似をしている人のそばで食べる。
真似をしている人に、距離が近ずく。
人間と猿との進化的に心の進化が有る部分共通するならば、真似が人の心と心、あるいは猿と人間との心をつなぐ、一つの証拠だと思います。
猿は真似をしている人間に、非常に親近感を覚える。

赤ちゃんの前で、1人は赤ちゃんのまねをドンドンする、もう1人は真似をしない。
そういう過程を経て、赤ちゃんにおもちゃを与えると、赤ちゃんは真似をしてくれている実験者の方におもちゃを渡したり、一緒に遊ぼうと距離を縮めたりする。
心と心を近づけるだけでなく、信頼と言う事にもつながっていると考えている。

いろんな悲しいニュースに出会う。
もしかすると私たちは今、子供を育てるという環境に、本来あるべきものを失いかけている可能性があるのではないかと心配になる。
お母さんが積極的にあかちゃんに関わる事が必要。
いろんな人と出会うと、母親は自分を守ってくれる存在なので、共感力は得やすい(自分を守ってくれるとの思い)
大きくなると真似する対象は変わる。(幼稚園の友達に出会うが、親とは違う存在)
兄弟、学校に上がると、先生、友達  真似したい対象がドンドン増える。
それこそが人間の共感力を深めるうえで、大変重要なことだと考えている。

共感する対象、共感する場面が多様に、柔軟に発揮することができる。
解りあえないときには、共感は持てないが、解りあうためには、こういった共感性をもったらいいんだ、こういう人には共感性を持ちやすいという様々な問題意識を抱えることによって、人間はより複雑な共感力、より深い共感力を獲得してゆくことができるはず。
自分を解ってくれない人に出会う事も人間の心の成長の一つですね。
核家族化、近所付き合いが減っている。  現代の赤ちゃんの環境には良くない。

高齢者の施設にケアに行く 核家族で育っている赤ちゃんでも高齢者とのコミュニケーションができる。
皆で育てる。 父親が関わる、実現できる社会にする、と言うのが私の強い思いですね。
社会全体が深く理解して、受け止めて当たり前のこととして認める、という事も人間の子育てを普通にするという意味ではとっても大事なことです。
地域の人たちとのかかわりあいも大事。
私の小さい頃、街のお祭り 大人から子供まで全員が参加するが、1カ月前から一緒に練習したりして、褒められたり、同じ時期、同じ経験をする、当日成功したときには嬉しいわけです。
同じ実感、同じことを経験、共有する 同じ目標に達した時に、共感性が生まれる。
子供時代に、こういった経験をすることは、多分同じことが人間の子育て全体にいえることなのではないかと強く思う。
私が伝えたいのは、お母さん一人で頑張ることは無い、他人の手を借りる、それによって赤ちゃんにとっても、父母にとっても当たり前の事であり、余裕を持って子育てをするには、非常に重要なことである。
























































2013年8月2日金曜日

折元立身(現代アート作家)     ・辛い介護を楽しいアートに

 折元立身(現代アート作家)     辛い介護を楽しいアートに  
1946年 川崎市生まれ アメリカの美術学校で 現代美術を学び、ニューヨークを舞台に活動を続けて来ました  
折元さんの芸術は現実の生活そのものを写真やビデオに収めて、アートにするパフォーマンスアート と言う作品のジャンルで、これまでシドニービレンナーレやベネテュアビレンナーレなどに出品し、現在では国際的にも知られるようになりました  
日本に帰国してからは、自分の母親を介護しながら、創作活動を続けています
折本さんの母親は現在、介護度が4で、常に介護が必要ですが、介護生活そのものを芸術にしようと母親をモデルにした写真を撮ったり、母親と一緒にビデオアートを制作したりして、アートママシリーズと名づけた一連の作品を発表しています  

現在、六本木ヒルズの中の森美術館で開催されている「LOVE展」に展示されている
家族と愛  母親と一緒に撮った写真などが展示 生活そのものを撮っている 
94歳の母親を撮ったら評判がいい
うちのおふくろは1.3mの小さい女性です 小さい時からいじめられていた
2年前のパリフォトで特別賞写真賞をもらった  私が母親をぎゅーっと抱きしめた写真
私の作品はリアリティーが強いので、日本ではあまりこのまれないが、外国は生きる力が強い作品がいいんで、外国では評判がいい

介護度4、と高い 母親を一人で面倒を見ている  
東京芸大 7回挑戦して失敗 絵が小さいころから好きだった
どうしても美術をやりたかったが、予備校の先生が、学校は基礎を教えるところなので、プロは要らないと、地味な生徒が入るところだといわれて、もうなかなか受からないと思った
私立も受けようと思ったが、家が貧乏だったので、やっぱり高い私立は受けられなかった
それでアメリカに渡って、最初どこに行こうかと思ったが、ロスアンゼルスに兄が結婚して行っていたので、ロスに行ったが、天気がよくて、あんまりエキサイティングがなかった
美術学校の先生がニューヨークが良いと言ってくれたので、ロスには1年半ぐらいしかいなくニューヨークに行くことにした

1970年代はニューヨークではトップアートが出たりして、ラッキーだった
若い時に失敗とかが、年をとってからかえってプラスになることがある
芸大に入ってなくてよかった、入っていたら学校の先生になっているか、したりしていると思う
(周りからもそういわれる)
アートはもっと自由で、ニューヨークはエネルギッシュな芸術家が集まってきた
学校に入らないで、ソーホーの画廊を見たり、フルクサスというイベントのグループの作品を見たりして、学校へ行く以上の勉強になった(芸大に行っていたら、見ることはできなかった)
美術は考えるだけものではなくて、感じるものだと思う

アメリカは歴史のない国なので新しいものをジャンジャン作るわけですよ
パフォーマンスアート 細長いフランスパンを何本も顔にくくりつけて写真を撮ったり、街頭にでていろんな人を驚かす、コミュニケーションする
1976年(7年、ニューヨーク居て) 日本に帰ってきて、パフォーマンスアートとはどんなものか、やって切れないかと言われた 
油絵でパンをよく書いていたので、顔にパンを付けてみようかと遊び心から始まったが、お客さんが3人ぐらいしか来なかったので、写真として撮っておいて、パンを数本顔につけて、歩行者天国を友人と二人で歩いた
お巡りさんが飛んできて、事情を説明したら、早くやって帰りなさいと言われる

問題がいろいろ出てきた  ロンドンはやりやすかった(頭が自由) ドイツはどういう意味なのだと言ってきたりするが、一番やりにくいのは日本 なんか変な人がいるみたいよ、ああいうの触っちゃだめよと言われてしまう
コミュニケーションをしたかったのではあるが
人間とのかかわりの方が面白いと思うので、
パンをやってみたが、ヨーロッパは文化のシンボルだと思った
200回か300回、世界中でやっている
最初恥ずかしかったが、4,5年前に感じた アートのしがらみ、頭の中に観念的なものがあるが、顔にパンを付けることによって、そういう観念が全部私の頭から無くなった

頭の中のがちがちの観念的なものが全部捨てられた
新しい考え方が生まれた 
今まで計画的に生きてこなかったので、日本に帰ってきて、両親と住んで、父親が亡くなり、母親が認知症になり始めて、どうするか考えていたが、母親の生活自体をアートにしてもいいのではないかと考えた
段ボールで作った大きな靴を母親にはかせて、外のマンホールの上で写真に撮った
母親は貧乏だったので、子供のころはゴム靴をはいていたが、靴の前がぱかぱか空いてしまって、恥ずかしい思いをした
と言う事で段ボールで大きな靴を作って「ちいさな母と大きな靴」と言う作品になる

問題意識がどのくらいあるか、というのが良いといわれる
イタリアのベネテュアで大好評だった
介護を楽しくやっている状況に共感される
油絵を狭い部屋で書いていたら、父親が臭い臭いと言っていたのを聞いて、母親は4畳半の部屋を借りてくれたりして、決して美術は止めてくれとは言わなかった
偉大な芸術家も一人でやってきたわけではない(ゴッホしかり)
私の母親が居てくれたから、今の自分がある

秋田県の介護施設で活性化しようという試み NHK人間ドキュメントで取り上げられる
1週間泊って、気持ちを通わせ会おうと言う事で、パフォーマンスアートをやってみた
殻ににとじこもっていたひとが、段々心を開いてきて、段ボールで作った靴で一緒に履いたりしてくれた
認知症の人に薬ではなく、刺激を与える
写真、ビデオ、パフォーマンスをやったり、ドローイングをやったりするが、 人間にかかわってずーっとやっていこうと思っている
日本で発表したいが、外国の方が引き合いがある














































2013年8月1日木曜日

中村格子(スポーツドクター)      ・ラジオ体操の効用

中村格子(スポーツドクター)   ラジオ体操の効用
ラジオ体操ですが、じつはスポーツ医学的に見て、綿密に、ち密に計算されつくした、究極の全身運動で、正しく実行すれば、健康上絶大な効果があると、力説されているスポーツドクターがいらっしゃいます
ラジオ体操の効用と、正しい運動の仕方、付随する波及効果など、国立スポーツ科学センターメディカルセンタークリニック研究員の中村格子さんに伺います

スポーツドクター スポーツをする方の健康管理や、運動指導を行うという医師の資格
日本体育協会、公認スポーツドクターという仕事があり、医師免許を取ってから、5年以上の経験 そのあと2年間の講習、審査を受けて認定されます
スポーツの怪我は多岐にわたるものなので、或る程度常識的な医師の仕事ができて、それ+アルファと言う事で5年の経験と言うのがある     アスリートを支えるるドクター

最初のきっかけは高校生の時に、同級生がバスケットボールで怪我をして、入院して手術を受けたが、お見舞いに行ったときに、そこが国体レベル以上のスポーツ選手がいっぱい入院していて、こんなところがあるんだ(スポーツ整形外科)と思って、そこの先生も又素敵な先生でああいう先生になりたいと思った
横浜市立大学医学部に進む  当時は1学年60人の学生だった
整形外科に入った時は女子は私一人であり、先輩にかわいがっていただいた
徒弟制度のような科で、足持ち3年 引き8年 筋肉、皮膚を引っ張って術野をあけておくという助手の仕事、そういう事がうまく出来ないと術者もやらせてもらえないというような修行のかかるところであった

先輩が全日本スケート連盟のトップの理事をされていて、その先生にスピードスケートチームを見てみないかと言う事で声をかけていただいた
海外遠征に一緒に行くようになった  報酬は1/10ぐらい
国立スポーツ科学センターメディカルセンター  10年ほど前に出来たところ 科学、医学、情報の3部門があり、メダルを取る事を目的にアスリートの支援に取り汲みながら、研究を行っている機関で
先進国では多い

この選手はいい選手になるなあと言うのは、解るのか?
体はほとんどの方は整っているので、あとは心、トップになる方は、そういったところが違う
人の言ったことをちょっとでいいから吸収しようとか、物事の考え方がしっかりしている人はおおい
怪我をしても、しっかりと前を見つめて、克服して進んでいる力を持っている
ラジオ体操の効用
整形外科医で22年になるが、最前線で外来、手術を一般の病院でやっていたが、たった5分しか見られない様な状況が沢山あった
運動習慣をしっかり付けてあげれば、こうは成らなかっただろうというような状況が多かったので、運動習慣、運動指導を取り入れたいと思っていたが、そういうチャンスは無かった
20人ぐらいのチームを作って、「中村先生の腰痛予防教室」とかやってみたが、それでも20人ぐらいしか教えられないので、多くの人に正しい運動を教えてあげられないかと思っていた

3年ほど前に、最初に本を出したが、できれば運動をして、身体を整えて、整形外科にかからないようにしていただきたいと、願いを込めた
自分でコントロールできる知恵や運動習慣をつけていただきたいと思った
ラジオ体操は究極の全身運動だと思う  ラジオ体操第一は短い時間で全身運動ができる
有酸素運動、無酸素運動を同時にできる  
時間当たりのカロリー消費量が多いし、運動に基本的な動きが全て組み込まれている、しかもそういった素晴らしい運動でもあるのに怪我をしない(運動で怪我をしないのが基本)
老若男女誰でも出来るし、広い場所も場所も必要としない

健康になるための運動にはどんな要素が必要かというと、老化してしまうのは、関節の動きが悪くなる(関節可動域) 肩であれば180度曲がるが、口のところまでしか上がらないとか
関節可動域を毎日2~3回でいいので最大限に動かしてあげると、いつまでも保てるもの、それが運動の基本なんですが、凡てこのラジオ体操には入っている
1背伸びの運動  深呼吸と間違える人が多いが伸びの運動です
 これから行う運動姿勢を作る これだけで姿勢が良くなる
2腕を振って曲げ伸ばす運動 膝を伸ばす曲げる 手を伸ばす曲げる
3腕を回す運動 肩甲骨がよく動くようになる 手を遠くに回すように大きく
4胸をそらす運動 しっかりと大胸筋をのばす
5腰を横に曲げる運動 腹斜筋、腹横筋を伸ばす 手に耳の横に曲げる手に引っ張られるように
6腰を前後に曲げる運動 身体を前後に動かす 3回 最初は小さく 中 強と段々深くする
7腰を捩じる運動 軸をしっかりする 

8腕を上下に伸ばす運動 一回姿勢を整える
9身体を斜め下に向けて、正面で胸をそらす運動 斜めで腿の裏の筋肉をしっかり伸ばす
10体を回す運動 両手の間に頭があるようにして回す
11両足飛び運動 ジャンプがなくなるので、足のまえを使って、音がしないように
12腕を振って曲げ伸ばす運動
13深呼吸  活性化された身体を徐々に呼吸を整える

ラジオ体操の運動量 ウオーキングよりある ジョッギングよりはすくない
いろんな筋肉(全身400以上の筋肉)を使う体操です
どこを動かそうと意識した方が、運動効果は高くなってくる
無理せず自分の体調に合わせて、続けて行くといい

コミュニケーション作り メンタル面 
仮設住宅での地域 最初は笑顔がなかったが、終わった時には会話が弾んでいたのが、とっても印象的だった
「おらほうのラジオ体操」 石巻市 方言で言うラジオ体操
国民保険体操として、昭和の初めにスタート  国民的財産だと思う
日本体育大学の創設者(日高藤吉郎) 浜田先生? 遠藤喜一郎先生? (東京女子体育大学)とかが作られた
音楽が服部正先生  25人の方たちが作られた
国民の健康を願って、無料で聞けるラジオで流す、文科省、NHK、 国 日本と言う国は素晴らしいと思いました
ラジオ体操が始まった当時は寿命は60歳ぐらい 今は80歳以上になっている
手軽に健康が手に入る 

皆が健康で、皆が長生きすることが幸せなんだろうなと、思います
長寿、長命とは違って、今は長寿が段々と肩身の狭い日本になりつつあって、悲しいことだと思うので、長寿が悲劇でない、幸せな国になる、日本になってもらいたいと思っています