2025年11月13日木曜日

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 前編

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 前編

詩人の谷川俊太郎さんが92歳で亡くなって1年、11月13日が命日です。 谷川さんは昭和27年20歳の時に詩集二十億光年の孤独』でデビュー、現代詩に限らず本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上に渡って活躍しました。 国語の教科書に採用された詩もおおく、幅広い人々に愛読され親しまれた国民的な詩人でした。 私生活では詩人の岸田 衿子さん、俳優の大久保知子さん、絵本作家の佐野洋子さんと3度の結婚と離婚を経験しました。  谷川さんの長男賢作さん(65歳)と長女の志野さん(62歳)に谷川さんとの思い出や心に残る言葉について伺いました。

 賢作さんは作曲家・ピアニストとして活動、志野さんはニューヨークを拠点に環境保護の重要性を次世代に伝える活動をしています。

賢作:志野は父に似て、やることをてきぱきこなしてくれます。

志野:兄はいてくれて心強いです。 小学校のころはよくケンカをしました。  15歳で私は家を出て両親は兄に任せたという後ろめたさはあります。 父の介護が必要になった頃は全部兄がやってくれていました。  ですから父の片付けは私がやっています。  私がやった方が思い出があまりないので、気楽に分別できます。  

賢作:お別れの会は堅苦しくない会にしようと思いました。  帝国ホテルでやらないとと、周りの人から説き伏せられました。  祭壇などは素朴にしようという事で大分近づきました。  自然の好きな人だったので、素朴と言う言葉が一番だと思います。  私は作曲家なので、父の合奏曲の多さには吃驚しました。 

志野:父のことを研究したい方がいると思うと、資料をしっかり整理したほうがいいなあと思います。 研究して欲しいという思いもあります。

谷川賢作さんは1960年東京生まれ、作曲家、編曲家、ピアニストとして活躍しています。 NHKの「その時歴史は動いた」のテーマ曲(オーケストラ)を作曲。 映画、舞台音楽の作曲、編曲を担当しています。  日本アカデミー賞優秀音楽賞を3度受賞しています。  1996年ごろから谷川俊太郎さんと一緒に、コンサート活動もしてきました。  賢作さん率いる「DiVa」(音楽グループ)と俊太郎さんの詩の朗読のジョイントコンサートを行ってきました。 

賢作:主に活動していたのは1997年から2000年までです。(佐野洋子さんと離婚した時で作詩も中断の時期)  昔から人前で朗読するのが好きな人でした。 

志野:娘の友達からインタビューしてくれないかと言われて、娘が「なんで詩人になったの。」と聞いたら、「それしかできないから。」、「どうして詩を書いたの。」と聞いたら、「家族がいてお金が必要だったから。」と言っていました。

賢作:「僕はいつも詩を疑っている、言葉を疑っている。 詩より音楽が素晴らしい。」と言っていました。

谷川志野さんは1963年東京生まれ、15歳でボストン郊外の高校に進学、以来拠点をニューヨークにおいています。 

志野:大学はグラフィックデザイナーの科目で、卒業後4年間グラフィックデザイナーとして仕事をしました。 海洋学を学ぶために大学に行きました。 大学院に行ってそれが今の仕事に繋がっています。  環境保護を次世代に繋げる仕事をしています。  都市などでは雨が降ると下水管が詰まってしまって、川とかに流れ出てしまう。 人が泳げなくなってしまう。 それで緑のスペースを増やそうという運動をしています。 

賢作:父と一緒に映画に行った思い出は貴重です。 (小学校) 人類滅亡とか子供が見ないような内容のものを連れて行ってくれました。  「2001年宇宙の旅」は小学校2年生の時で全くわからなかった。 テレビは見せてもらえなかった。 大人向けの映画は見せてくれました。 普通の子ではなくてもいいという思いが明確にあったようです。

志野:父が観たいものを一緒に観るというような感じでした。  全部アメリカ映画でした。中学の時に学校へ行きたくないと言ったら、車で一緒に湘南海岸に行ったことを覚えています。 楽しかったです。

賢作:学校で父が詩人と言うのが恥ずかしかったです。  からかわれたりしました。

志野:私のころは教科書に詩が載っているんで、物書きと言っていました。

賢作:父は音楽をやることは喜んでいたと思います。 色々応援してくれました。

*「けいとのたま」 作詞:谷川俊太郎 作曲:谷川賢作

賢作:「言葉は何を言っても意味がすぐ生まれるから厭なんだ。」といって、我々に対する問いかけかもしれません。  「言葉に我々は頼り過ぎている。」とも言っていました。  音楽は好きでしたが、最晩年は「音楽よりも鳥の声を聞いている方がいい。」と言う様なことも言っていました。 

インタビューで聞き手の皆さんが意味を求めるんです。 この詩は何について書かれた詩ですかとか、メッセージは何ですかとか。  解釈は自由だなと思います。

「僕は自由に解釈して貰う事に嫌な気持ちは全然ないですね。  今まで自分が考えていたものとは違う何かを発見して貰えたら嬉しいという感じだね。 僕にはこういうつもりで書いたのに、と言う気持ちがないからどう解釈してもらってもいいんです。」

これは基本的な父の態度ですね。  

「生きる」とか、「朝のリレー」とか、自分の有名な詩だけが独り歩きしているのが凄く嫌だった。 

志野:父は言葉に疑問を持っていた人なので、特に志野はこうしなさいとは言わない人だったので、結局人生観とか言葉にならないものなんですね。  講演で人によって違う解釈をしますが、それはそれでいいんだと思います。 一人一人の生き方によって、読んだものの解釈は違ってくるのが普通なんだと思います。  「自分で好きなことをやっていいよ。」と言うのが、父親からの一番のメッセージだったと思います。