2025年11月12日水曜日

佐藤弘道(タレント)            ・応援を励みに、自分が目標になれるように

佐藤弘道(タレント)            ・応援を励みに、自分が目標になれるように 

NHKのEテレの「おかあさんといっしょ」で「たいそうのおにいさん」として12年間務めて多くの人に親しまれまれています。  ところが昨年6月2日研修日に突然腰や足に違和感を覚えて、強い痛みのために病院に直行すると、脊髄梗塞と診断されました。 それから壮絶なリハビリに務め、いまは車いすや杖が無くても歩けるようになっていて、より一層体力が付くことを目指して、リハビリやトレーニングに励んでいるという事です。 仕事も復帰していますが、佐藤さんは同じような病気をした人の目標になれるように、努力していると言います。

今は腰回りの神経が全くないので、シャワーをかけても腰回りは当たっているのか当たっていないのか判らない様な状況です。  股関節から下は24時間しびれがあるので,温かい、冷たい、痛いがちょっと鈍い。  左足の方が麻痺が強いので、歩き方もひいていくような感じです。 脊髄梗塞は一生治らない病気で、私はバランス系の神経が切れてしまっているので、歩く時も立っている時も自分の身体の中心を探りながら立ったり歩いたりしている状況です。(見た目は判らない。) 躓いても転ばないようなリハビリをしています。 

人一倍健康には気を付けていましたが、まさかの病気でした。  6月2日の朝4時に起きたら左足がしびれていました。  荷物をもっていこうとしたら、左足ががくんと沈んでいくような感じがしました。  転んでおかしいと思っていましたが、仕事に出掛けなければいけないと思ったので、自分の車で羽田空港まで運転していきました。  バス移動の場所まで歩いていくうちに段々気持ち悪くなってしまいました。  腰回りに痛み出て来て、万力で締め付けられるような痛さでした。  無理かもしれないと思ったが、飛行機から荷物を降ろすという事は周りに迷惑をかけるからという事で、行けるところまで行こうと妻から説得されて、痛みも凄くてバスに乗る時も足が上がって行かないんです。 飛行機に乗る時にも両手を使って必死に登っていきました。 

ようやく座れて離陸して、どんどん痛みが増してきて、痛みに耐えていたが、どうもおかしいと言ったら、妻が本当におかしんだと気付いてくれて、着陸の時に車椅子を用意しておいてもらいました。  立とうと思ったら駄目でした。(4時間で完全下半身麻痺でした。)  お腹の周りはケンザンで打たれている様な痛みがずーっとしていました。  車いすに乗って、救急車で病院に行ってみてもらいました。 たまたま整形外科の先生がいました。  腰が痛いと言ったので、レントゲンを撮ることになりました。 骨は全く異常がないと言われました。  脳神経の女医さんがたまたまいました。 MRIを撮って貰ったら、脊髄が白くむくんでいました。 脊髄炎か脊髄梗塞かどちらかもしれないと言われました。  時間経過が経てば経つほど回復が遅れるんです。(原因が判らず病院を盥まわしされる場合がある。)   

脊髄梗塞の治療法を調べたら、支持療法(がんなどのような重篤な疾患や生命を脅かすような疾患を抱えている患者の生活の質を改善するために行われる治療、ケアのことと書いてありました。  この病気は治らないんだと言う事が判りました。  どん底に落ち込みました。発症して1週間後、事務所の方と話をして発表する事になりました。  パソコンでは伝わらないと思って直筆で、症状の状況とか、復帰できるかわからないが待っていてほしいと言う様な内容を書き、出演番組に発表しました。 SNSでも発表しました。 発表したらこの病気とちゃんと向き合わなければ駄目だと自覚が芽生えてきました。  発表した瞬間によしやろうというスイッチが入ったんです。   応援メッセージなど沢山来ました。  私も脊髄梗塞の患者ですと言う方から、車椅子に乗りながら旅行したりいるから、佐藤さんも頑張ってと言う様な励まし、あるいはもう歩いて仕事をしてますというものもありました。 成功例を見た時に僕も動けるようになるのではないかと思いました。(プラス思考に変る。) 

リハビリも早ければ早いほどいいと言う事は後から知りました。 僕は翌日からリハビリをして頂いたのでラッキーだったと思います。 リハビリの鬼と言われました。  鳥取には3週間入院していて、東京に戻りました。  たまたまリハビリの担当の女の子が、前に体操教室に行っていた選手で引退後リハビリとして働いていました。  一層懸命やってもらいました。 自分の部屋でも自分でリハビリをやりました。  東京でも3週間入院していましたが、最後の1週間は自分でも立てるようになりました。(歩行器使用)  病棟を歩き回りました。  鳥取の病院にいる時には妻や子供がポジティブな言葉だけ送ってきてくれました。  家族は笑顔で対応してくれてよかったです。 

僕は体操の選手かオリンピックの選手になることが夢でした。  柔道は幼稚園のころからやっていました。  小学校2年生の時に開催されたモントリオール五輪で見た日本の男子体操チームの活躍を見て、かっこいいと思って体操の選手になりたいと思いました。 中学時代は進学先に体操部がなかったため、友人に誘われてソフトテニス部に入部し、中野区の大会で団体で優勝しました。 高校は日本体育大学荏原高等学校に進学し、器械体操部に入部。  高校生では危険な技を練習して、失敗して頭から落ちて、頸椎亜脱臼、首の骨がずれてしまいました。(手術をしてワイヤーで固定。) オリンピックの選手の夢は潰えました。体育の先生を目指すことにしました。 日体大に入って体力測定は全体で2位でした。  

父が倒れてしまって、インストラクターを辞めて、父のやっていた焼鳥屋の店を継ぐことにしました。  彼女がNHKのラジオ体操のお姉さんをやっていて、履歴書を出すことになりました。  オーディションを受けて、今度は二次オーディションを受けたら佐藤さんに決まりましたと言う連絡がりました。  母からの後押しがありやることに決めました。 研修後、3月14日に初収録で、前日から病院にいました。 具合が悪かった父が朝死んでしまいました。 その日が初収録となってしまいました。  こういう業界の仕事は親が死んでも行かなければいけないという厳しさを、うちの父親が教えてくれたんだと思います。 

脊髄梗塞は生命保険の対象外、僕の場合は杖が無くて2km以上歩けるので障害者手帳ももらえません。  5項目の指定をクリアしているのに、国から難病の指定を貰っていない。   発症数の少ない病気という事です。  指定難病になるように活動を進めています。 「ヘルプマーク」が意外と知られていないので、「ヘルプマーク」の啓蒙活動もして行きたいと思ています。  「出来ないことを求めてもしょうがない、出来ることを一生懸命やりなさい。」と療養師?さんに言われました。  けがや病気で頑張っている人の励みになるようなことが出来ればいいなあと思います。