2025年10月31日金曜日

中村京蔵(歌舞伎俳優)          ・守って破る伝統の世界

中村京蔵(歌舞伎俳優)          ・守って破る伝統の世界 

中村京蔵さんは昭和30年東京都出身。  大学卒業後1980年、国立劇場歌舞伎養成所の研修生となり歌舞伎の道を歩み始めました。  以来、国内だけでなく海外の歌舞伎公演にも数多く参加し、 また自主公演にも積極的に挑戦するなど、時代の変化に対応する歌舞伎に意欲的に取り組んでいます。 中村京蔵さんはテレビで放送のパソコンのビジネスソフトのコマーシャルに長年出演しているので、顔や声を御存じな方もいると思います。 

祖母が歌舞伎が好きで、祖母と一緒に歌舞伎を観ていた記憶があります。  日本舞踊も小学校4年生で始めました。  一般の家庭でしたし、高校、大学に行く頃は歌舞伎への道は諦めていました。  大学3年生の時に、武智鉄二先生(「歌舞伎評論家、演出家)と言う方が居まして、歌舞伎塾に入部しました。  「やらないで後で後悔するのは厭だろう。」と言われて、親の反対を押し切って国立劇場歌舞伎養成所へ入りました。(24,5歳) 2年間歌舞伎の基礎を学びました。  応募が20名程度で入ったのが10名で、半年後には半分が辞めました。  四代目中村雀右衛門が大好きで、門下となり、同年10月中村京蔵を名乗りました。  

「骨の下の内臓を動かしなさい。」と言われました。  最初判らなかったが内筋を使いなさいという事でした。  余り私が出来ないと無言になってしまいまます。  稽古も途中で止めてしまいます。 (応えます。)  通算34か国60都市ぐらい行く様になりました。 国際交流基金主催の日本紹介派遣事業で歌舞伎の紹介の事業(歌舞伎レクチャーデモンストレーション)があり、10回ぐらい行きました。  大歌舞伎はフランス公演だけです。  歌舞伎をどうやって理解してもらえるのか毎回考えました。  鷺娘歌舞伎および日本舞踊の演目のひとつ。鳥であるが、娘に姿を変じて踊るというもの。)を演じる前に、現地語で解説して行います。 獅子毛振り獅子が長い毛を派手に振り回す。 邪気を払う。)は喜ばれます。  最初のころは予算が無くて音楽が録音放送でした。  その後は生演奏をするようになりました。  私は女形のレクチャーをしました。  仕草などを一緒にやりましょうと言うと、どこの国に行っても皆さん一緒にやって下さいます。  

現地の舞台はリノリュームと言う材質で全然すべらないんです。  女形ですと裾があるが裾もついてこない。  踏み足のトンと言う音も出ない。  オペラの舞台で傾斜が強くて、ここで踊るのかと、足がつりました。  15年前ぐらいからアニメブームになり、日本の文化に興味を持ってくれる人が中米でも多くなって、若い人が歌舞伎の舞台を見に来てくれました。 現地の音楽に合わせて獅子毛振りをやると凄く喜んでくれました。  いい文化交流ができました。  

2015年、蜷川先生の「蜷川マクベス」があり、魔女をやらないかと言う話がありました。違和感はありませんでした。   自主公演の中に中島敦の「山月記」(唐代、詩人となる望みに敗れて虎になってしまった男・李徴が、自分の数奇な運命を友人の袁傪に語るという変身譚)を舞台でやるという事になりました。  本を読んで舞台でやってみたいと思っていました。  19年前に「山月記」をやりました。  今年再演する機会に恵まれました。    弓矢の名人になった究極が弓矢を忘れてしまう、道を究めた行く果ては虚無なんですよ。           「山月記」の李徴も虎と人間とのはざまで逡巡してますが、彼が完全に虎になったら虚無の幸せな世界に行くと思います。   歌舞伎もそうですが、芸道の修行の行く果ては虚無なんです。 

OBCの会計ソフトウェア「勘定奉行」のテレビCMで、奉行役を長年演じています。(30年になる。)  大富豪になったといううわさがまことしやかに流れましたが、自主公演に全部使ってしまっています。  後輩の指導をするようになりました。  人に教えるという事は自分の身体で覚えてきたことを言語化しなければいけない。  海外でレクチャーしたことで覚えました。  やってみる事と並行して言葉で説明しなければいけない。  



















 

2025年10月30日木曜日

稲葉賀惠(服飾デザイナー)       ・ファションに生きて

稲葉賀惠(服飾デザイナー)       ・ファションに生きて

稲葉さんは東京で生まれ、鎌倉、横浜で育った85歳。 多くの芸術家を輩出した文化学院美術科を卒業後、後に夫となる菊池さんとアトリエを開き、ビギ、モガ、ヨシエ・イナバなどのブランドを立ち上げました。 今年2月に全国にある自分の店をたたみました。  その際閉店のお知らせを全国紙の全面広告を出したことが話題となりました。 この間一貫して働く女性がかっこ良く見える制服、洋服、目立たなくても袖を通して気持ちの良い洋服を世に送り出すことを心掛けてきました。  稲葉さんはどんな思いで ファッショ人生を歩んできたのか伺いました。

このジャケットは縦糸が黒で横糸が紺で見え方が黒っぽく見えたり紺色っぽく見えたりします。  これはシルクとポリエステルが混ざっていて、 伸びるんで着勝手がいいです。 服を作るためにはまず生地を知らなければいけないという事で、縦糸と横糸の関係を知る必要があるという事で縦糸と横糸を抜いて元に戻すという事をやりました。 そうするとどういう風に織ってあるのかがわかるんです。  これは10年以上着ています。 作ったものは大事に着ています。  飽きが来ないようにすることが私の趣旨です。  

閉店のお知らせを全国紙の全面広告を出しました。  「今迄ありがとうございました。」という事をお伝えしたくて、全国紙の全面広告に出しました。  そうしたら広告の大賞を貰ってしまいました。  お客様から有難い言葉を一杯貰いました。  コロナで生地屋さんが辞めて行って、自分で好きなことが出来なくなってしまうのは厭だなと思って、辞めることを決めました。  手作りにこだわっていたので、生地を作る人がいなくなってしまったので。   機械化されたりして、やりにくくなっていきました。  私はアトリエが無いと絶対できない人なんです。 アトリエには縫い子さんがいて、カッターさんがいたりしていましたが、彼女たちも定年でぽつりぽつりといなくなっていきました。  アトリエもなくすという会社の方針になってしまいました。  

女性の仕事着もやっていました。  1960年代、当時女性の地位のある方も着ているものがあまりぱっとしていませんでした。  個性を生かすようなものは普通のものですね。  普通という事は難しいと思います。  洋服が目立つのはあまり好きではない、その人の中身が目立つ方が好きです。   綺麗に身体に入ったものは綺麗に見える。 

息子が小学生の時にジーンズをはいて送り迎えをしたら、校長先生から叱られました。   回りからいじめられたりもしました。 そういうナンセンスな時代もありました。  アトリエを開いて会社を作っていろいろなデザインを作っていく中で、女性が世の中に出始めた時期と重なりました。  だからそういう方たちに受けました。  10年間同じ生地を使ってやっていたら、生地屋さんも乗ってくれました。  黒は大好きで、必要なのは黒と白です。 女の人は黒を着ると綺麗に見えます。  生地でバリエーションを増やしていきます。  

菊池武夫とは結婚しなければ良かった。  今でも仲がいいです。  離婚するときには嫌な思いもしました。  ずーっと親友でいたらよかったのかもしれない。  趣味が一緒だった。     

受け入れられたのは、基本的なものをつくったのからかなあ。  手は抜かなかったような気がする。  ファッション界に築いたものというのは別にないです。  買ったものは絶対損はさせないと思いました。  普通だけれど普通じゃないというのが好きです。   キャリア―ウーマンとして生きてきたので、普通の奥さんが羨ましいです。  憧れです。  今は囲碁に夢中です。 




























2025年10月29日水曜日

深町貴子(園芸家)            ・〔心に花を咲かせて〕 一粒の種が人生を変える

 深町貴子(園芸家)            ・〔心に花を咲かせて〕 一粒の種が人生を変える

小さいころは病弱で長生きできないと言われていたそうです。 それが今では大活躍、最近はひまわりを育てて油を取ってロケットを飛ばす計画も進んでいると聞きます。  どんなことから花や緑に興味を持って、今のように元気に活躍が出来るようになったんでしょうか。

園芸って楽しくないと意味がないですね。  自分が育てた物は美味しいです。  生まれた時に骨格が異常だという事もあり、内蔵、循環器系などは普通の人とは違っていて、普通のお子さんと同じようには学校にいけなくて、家にいるか、病院との往復している感じでした。  寝たきりの生活でやることがないんです。   姉が二人いて、 外の世界の話をしてくれました。  自分もしゃべりたいが喋るものがない。  天井の雨漏りのシミを数えたり、寝たきりで折り紙を折ったり、絵を描いたりするのが好きでした。  たまたま母が窓を開けた時にカラカラという音がして、枯れ葉が踊っている音に聞こえました。  アッと思った時に秋だという事に気付きました。  それがきっかけで窓の外が気になるようになりました。 

窓から見えるのは空しかないんですが、雲が流れているのが毎日違う、青かったりグレーだったり、いろんなな雲があって想像すればするほど外に出てみたいという気持ちになりました。それまでは生きることに興味がなかったので、外に出たいという気持ちもなかった。  将来に対して何も期待していない自分がありました。  庭に出てみると、蟻がどこに行くんだろうとか、 引っ越しをしたりするシーンを観たりしました。  「紅葉が赤くなっている。」と言ったら「もう秋ね。」と言われて、自分から発信できるものを見つけました。  植物、自然のことを通せば、話が出来るという事を知りました。  花の名前を知らなくて、植物図鑑を買って貰いました。 どんどんと植物のことを知りたいと思うようになりました。  

段々と学校にも行けるようになりました。  植物から生きる意味を教えてもらって、それを恩返ししたいと思うようになって、植物のことを知ったらみんながもっと豊かに暮らせられるようになるかもしれないと思って、園芸を通して人とつながりたいと強く思いました。   植物は芽が出て来て、育って最後は枯れてしまいますが、必ず花を咲かせて種を作って、ポトンと落ちて又芽が出てくるんです。  命が終わらずに繋がって行って、また強くなって生まれ変わって出て来る。  一緒に付き添いながら毎日暮らしていると、私も同じように強く生きたいと思うようになるし、いろいろ困難があっても植物は絶対生きて子孫を残したいという強い意志があるんです。  何時亡くなるか判らないが、ぎりぎりまでやりたいことをやっていきたいし、それを人が見たら誰かがそれを受け継いでもらえるからと思いました。

園芸の仕事をしたいと思ったが、ドクターストップがかかって諦めていました。  或るきっかけで照明の会社に行く事になりました。  しかし体力的に持たなくて、倒れてしまい、会社を辞めました。  園芸ももっと簡単に出来る園芸であってほしいと思って、野菜に関する本を書いたりしました。  そうしているうちにいつの間にか、野菜の先生になってしまいました。  いつまで生きられるかわからないので、その時までぶれることがないんです。   母はこの子は結婚が出来ないかもしれない、こんなに長く生きるとは思っていなかったと言われました。  母はこの子は私が看取ろうと思っていたそうです。  結果は私が看取ることになりましたが。  

記憶が瞬時途切れることがありましたが、凄い恐怖でした。  脳がパンパンになりすぎて、直近の記憶が出来なくなるんだそうです。  大学の先生、お店、会社、バイト、テレビにも出ていて、ぎゅうぎゅうでした。  「貴方が死んでしまっても誰も困りません、仕事に穴が空いても誰か替わりの人がやります。」と言われました。  「だから頑張る必要は全くありませんが、貴方がいなくなって困るのは家族ですから、仕事を減らしなさい。」と言われました。  一度全部やめました。 (8年前ぐらい)  そうしたらよくなっていきました。  やり過ぎてはいけないという事がわかりました。  

50歳ごろから狭心症などが発症しました。  夫と息子が凄く支えてくれました。  夫から「僕の夢は君の夢を叶える事。」といわれました。 インターネットで病気のことを調べて、対応してくれるところを捜して、四国の病院に行きました。  手術を受けて心臓は取り敢えずちゃんと動いています。  無理をせずに頑張れると思いました。  環境から発信するいろんな声があります。(虫の声、植物の声など) その声をみんなが聞こえるようになって欲しい。  そのためには自然体験を体感できるようなものを作って行きたいなと思います。  子供たちを集めてワークショップをしたり、何故植物が必要なのか、植物は何故花が咲くのか、花がないと野菜は出来ないとか、話をしながら、都市の緑化、それぞれの生き物が平等に暮らしているので、それを知ったうえで私たちの環境をどうやって考えるのか、一緒に考えたい。

お店の中に入った瞬間に、どこが水が無いと言っているのか、どこが調子が悪いのかという事がわかるんです。  毎日行っていて、昨日と違う空気なんです。  子供の頃は生きたいという思いはなかったが、植物と出会いようになってから絶対に生きたい、生きて次に何かを伝えたい、繋いでいきたいと思います。  今は街中にひまわりを植えて、種を取って油を搾りたい。  日本はエネルギー自給率がとても低いので上げたい、緑を通して人と人とを繋げたい。  そして街を繋げたい、次に国を繋げたい、と広げていきたい。   それには種を蒔いて、一粒の種から3000の種が出来ます。  花が咲くと虫が一杯やって来ます。  そしていろいろな植物に受粉をします。  しかし暑さで蜜蜂が減っています。  森林の破壊もあります。  蜜蜂などがいなくなると我々の食べ物も出来なくなる。  人工授粉もあるが、農家の人たちを助けるために、虫を呼ぶためにひまわりを育てています。  

種からは油が取れます。   地域ごとに油を搾れば油田が出来ます。(夢)  環境に興味を持って貰う。油は潤滑油、灯油になり、絞ったかすは肥料になり、茎からは繊維が取れて和紙になります。  JAXAの中にロケット推進部、ロケットを飛ばすための燃料を研究している方がいて、菜種とかの種から油を搾って、それからロケットを飛ばせないかと考えている人がいて、その方と連絡が取れました。  それでひまわりの種を利用した研究をするために提供することで、共同研究の契約を結びました。 (小さな観測用ロケット)  子供たちを中心にやっている理由は、この子たちの誰かが必ず引き継いでくれると思うから、そこに全力投球しています。  次の未来がよりよい未来のいなる様にみんなで考えて欲しい。 緑が人を、街を国を繋いでいって欲しい。












 






2025年10月28日火曜日

杉真理&安部恭弘(シンガーソングライター)・ポップスで微笑みを

 杉真理安部恭弘(シンガーソングライター)・ポップスで微笑みを

*「メラニーのほほえみ」 作詞者. 杉真理, 安部恭弘 ; 作曲者. 杉真理, 安部恭弘

この歌は50年に渡って共にシンガーソングライターとして数々の音楽を作り続けてきた 杉真理,さんと安部恭弘さんによる共同作品です。  お二人の音楽人生、ポップスに宿る不思議な力そして「メラニーのほほえみ」に込めた思いを伺いました。

*「ウイスキーが、お好きでしょ」  作曲:杉真理 歌:石川さゆり

*「ロング・バージョン」      作曲:安部恭弘 

杉真理さん 300曲ぐらい提供。 安部恭弘さんも沢山提供。 

杉:生まれは九州です。  父親が会社員で転勤族でした。  小学校5年の時に父親がトランジスターラジオを買ってくれて、テレビでは聞けない音楽を聴きました。 ビートルズも聞きました。  中学から自分で音楽をやり始めました。  

安部:東京の出身です。 母が子供たちに歌を歌わせるのが好きでした。 (母は幼稚園の先生)  中学ではラジオを聞くようになりました。 洋楽一辺倒になりました。 

杉:慶応大学工学部に入って、2年の時にバンドを組んで、後輩で竹内まりあが入って来て、コンテストに出ましたがいいところまではいきますが、結局駄目でした。  そんな時に阿部君と出会いました。 

安部:浪人していました。 杉さんのステージを見て素敵な音楽をやっている人がいるという事でかっこいいと思いました。  コンテストに出ていたら、審査員に杉さんがいました。  杉さんがデビューするという話を聞いて、コーラスに参加してくれないかと声を掛けてもらいました。 まりあちゃんとコーラスに参加したりしました。

*「思い出の渦」 詞・作曲:杉真理  歌: 杉真理  

杉:急性髄膜炎を患い、音楽活動を中断しました。  音楽人生は終わったなと思いました。 そんな時に竹内まりあさんがデビューすると言うので書いて欲しいと言われました。  

安部:音楽から距離を置いて大手のゼネコンに入社しました。(本社が富山) 音楽に未練があり、杉さんに電話を入れたら「帰ってきちゃえば。」と言われました。 

杉:1981年 『A面で恋をして』でブレークしました。  「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」

安部:寺尾さんの「ルビーの指輪」がでて、かっこよかったので、自分もやってみたいと思いました。  

杉:TRIANGLEから自分の音楽を聴いてくれる人がいるんだという事がわかってきて、やれるうちにやっておこうと思いました。  どん欲に毎年アルバムを出していました。 

安部:杉さんとは共通する部分がいっぱいありました。  杉さんとは違うところも考えました。  「SLIT」CDアルバム  富山の会社を辞めてまだ4年ぐらいです。 

杉:自分の曲は受けないと思っていて、愚直に作ってはいました。 エネルギーは詰まっていると思います。 デビューから50年になります。 

安部:いいエネルギーを与えらえるようないい音楽が出来たらいいなあと思って、「メラニーのほほえみ」 をつくって、「自分で聞いても案外いいじゃん。」と二人で自画自賛しています。

杉:曲との出会いは何かあって、ラジオで出会う曲など、必ず何か意味があると思うので、僕らと縁のある人が聞いてくれているんだなと思うので、こういう機会を与えていただいて有難いと思っています。

























2025年10月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 三代目 桂米朝

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 三代目 桂米朝 

米朝師匠は上方楽議に復興に力を尽くし、重要無形文化財保持者(人間国宝)で平成21年には文化勲章を受章しました。   今年は生誕100年没後10年の年でもあります。

「芸人になった以上末路哀れは覚悟の前やで。」  桂米朝

上方落語の中興の祖と言われ、戦後滅びかけていた上方落語の継承、復活、復興に力を尽くしました。  多くの落語を音声、映像、書籍の形で全集として残し、滅びかけていた話も沢山復活させ桂枝雀や桂ざこばなど多くの弟子も育てました。 その功績から1996年上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。  2009年には演芸界初の文化勲章受章者となりました。  今年は生誕100年没後10年の年に当たります。  11月6日が誕生日です。  

米朝さんを尊敬しています。 一回だけお会いしたことがあります。  中学生の時から聞いています。 一つの話が1時間以上ありました。  病気になってから病院で多く聞くようになりました。  全44巻揃えました。  今でも毎日聞いています。 

出来るだけ盛り上がっている業界で将来性のある仕事をしたいと思うのが当然ですが、衰退している落語界に入ったというのは中々考えられない。 上方落語を復興させたという事も大変な事です。  四天王(六代目 笑福亭松鶴 三代目 桂米朝 三代目 桂春團治 五代目 桂文枝)と言われ、米朝さんのほかに若い人が入ってきました。  

「君らどう思っているかしれんけどなあ。 今に想像も出来ん時代が来るで。 世の中が落ち着いてきたらこれほど洗練された笑いの芸はないんやさかいな。 廃れてしまうという事は絶対ない。」  桂米團治

米朝さんの息子さんが5代目桂米團治を継いでいます。 

「立ちきれせんこう 一席演じおえず だいぶみなにも慣例有りたりらしく、認識至りたるものの如くなり。 本日満月明らかなり。」  桂米朝

米朝さんは19歳の時に徴兵されるが、入隊してすぐに急性腎臓炎になります。  姫路の陸軍病院に入院することになりますが、この言葉はその時の日記からです。 「断ち切れせんこう」と言うのは落語の演目です。  他の入院患者の前で落語を一席語った。 (まだ学生だった。)  「断ち切れせんこう」は玄人でもやるのが難しい。  

「かねてより私は55歳で死ぬはずやと公言してまいりました。 私の父親や師匠であった4代目桂米團治そして東京での恩師の正岡容までが皆55歳で他界したので、私もその歳にはとの?思いを拭い去ることが出来ませんでした。」  桂米朝

55歳までにいろんな仕事をしておかなければならないという事で、47歳の時に「桂米朝上方落語大全集」」というレコードの大全集を出す。  54歳の時に「米朝落語全集」を刊行。  89歳まで長生きする。  

*桂米朝 出囃子 「三下り羯鼓」 

「古い落語を掘り起こし復活させるのが、私の役目だと思っていた。」  桂米朝

復活させたもののなかには「地獄八景亡者戯」、「算段の平兵衛」 「三年酒」とか沢山あります。  どれも本当に面白い。   ただ復元するだけではなくて面白くしなければいけない。 

「上方落語復興の足取りも年々たしかなものになり、 私は中堅として寄席、ラジオ、テレビに頻繁に顔を出すようになった。  この機会にかねての宿題を実行に移すことにした。   滅んだネタの復活である。」  桂米朝 

34歳の時に京都観世会館で珍しい上方落語を聞く会を立ち上げる。  無料出演する。   

「実に名作である。  よう出来てる。 と言う作品として優れた落語でも、下手な演者の手にかかると三文の値打ちのないものになる場合もあるし、実につまらなくて、こんなもの落語と言えるかと言うようなものが、素晴らしい演者の手にかかると面白いものになるという事がある。」  桂米朝 

「私自身の体験から落語の面白さと言うものを少し考えてみたいと思います。  まず少年時代初めて活字で読んだ時は、童話とか少年読み物とは違った、笑いの連発、ギャグの豊富さで読んでいて単純に笑えました。  次に生の落語を聞いた時には仕草や表情の面白さに大変興味を持ったものです。 そのうちにおかしいものとは別にうまいと感じる芸の面白さが段々と判るようになってきます。」  桂米朝

録音や本では落語の稽古にはならない。  語り芸の場合は毎回違うわけですから。  初めて落語を聞く人には江戸落語ならば古今亭志ん朝、上方落語ならば桂米朝を薦めたいです。  二人とも初心者にもわかり易くて、なおかつ凄く深い。  

「こんなさげで、ここで大抵のお客はわっと笑って話はおしまいになるが、もしそれからどうなりましたと聞かれたらら落語家は困ってしまいます。  それからどうにもなりませんからねえ。」    桂米朝

物語は起承転結があるが、落語は落ちを言えばどこでも終えられる、起草転結にとらわれない。  自由に物語を展開できる。  

「空襲でまだ5歳ぐらいの従兄弟が火だるまになって死にましてな。  戦争云うもんがどんなに辛い切ないものかという事をやはり体験したものが語らなあかんでしょうなあ。」 桂米朝 

「少々何か矛盾があっても世の中が不合理が有っても、ずるいやつが銭儲けをしていてもかまへん。  戦争はなやって貰ったら困ると思います。  これはほんまになんでもない庶民があっさり殺させるんですからな。」  桂米朝(最晩年)









 

2025年10月25日土曜日

辻惟雄(美術史家)            ・〔私の人生手帖〕

辻惟雄(美術史家)            ・〔私の人生手帖〕

 若冲曾我 蕭白など忘れ去られていた江戸の画家たちに光を当てた名著「奇想の系譜」で日本の美術の常識を覆し、今年の文化勲章の受章者に選ばれました。 辻さんは1932年名古屋市生まれです。 産婦人科医の次男として医師になるべく東大に入ったものの、医学部での学業を断念して東大文学部に進むなど人生は挫折の連続だったと言います。 93歳になった今も研究を続けている辻さんはどのような挫折に直面し、どのように乗り越えてきたのでしょう。  いち早く日本美術の奥深さに着目をし、独自の世界を築いて来たのか、若冲の魅力なども併せて伺いました。

本がたくさんありますが、手書きのファイルノートだけでも100冊ぐらいあります。  当時美術史学科の学生でしたが、若冲の存在すら知りませんでした。  30代の頃ですが、ジョー・プライスというコレクターが若冲はないかと騒ぐんです。  それで見たら日本画離れした花鳥画で、これがアメリカに行ってしまったら日本では見られないだろうと思って、東京大学の学生に見せたいと思って一日だけ借りました。  プライスさんが何度も展覧会をされて、私は文章で協力しました。  2000年になって初めて京都国立博物館の若冲展で爆発しました。 

小さいころは漫画を夢中になって観ていました。 東京都立日比谷高等学校を経て、東大の理科の二類にはいって、2年後にもう一度試験があってパスしないと医学コースに行けませんでした。  元々理科、数学は大嫌いで、絵を見る事描くことが大好きでした。 (高校時代から)  医学部を諦めました。 東京大学文学部美術史学科に進学。卒業後、同大学大学院に進みました。  中学3年の時に公園のスケッチをしたのを先生に褒められて絵が好きになりました。  描くよりも観ることが好きで、図書館の画集を観て感動していました。 当時は圧倒的に西洋美術で印象派、マティス、ピカソと言ったところが圧倒的な人気でした。  美術史学科は就職率の悪い人気のない学科でした。  就職が上手くいかなくて大学院進むことになりました。  2年後に修士論文を書かなければいけない。 先生が岩佐又兵衛をやったらどうかと言われました。  岩佐又兵衛の作品を観て吃驚して魅了されました。

卒業後38歳、1970年「奇想の系譜」を出版。  バランスの取れた美しい形よりもちょっとゆがんだ面白い形、色彩もバランスの取れた美しい色彩よりもちょっとどぎつい色が好きで(歳をとっていまは戻っています。)、曾我蕭白の群仙図屏風の色たるや、日本離れしていました。 絵、形、色も日本離れしていました。  ピカソなどにもなじんでいたので、江戸時代の絵画にそういうものがあるという事を見つけたのは本当に驚きでした。  

長男は祖母たちにも溺愛されました。 長男はわがままだけれどのびのびと育ちました。  次男として2年後に生まれた私は、可愛がれれていたんでしょうけれども、兄に比べて自分はどうして虐待されているんだろうと言う様な幼い頃の潜在意識が、なんかそういったものに繋がっているような気がします。  或ることに集中するとほかのことを忘れてしまうという、そういう性格、変った人だという評判が小さい時から今に至るまでありまして、そういった人間でなければ見えない世界があって、それが「奇想の系譜」を読み継がせている理由ではないかと思います。 

東北大学教授、東京大学文学部教授を経て、1996年、千葉市美術館館長に就任。 高畑勲さんは日本の漫画は絵巻物に源流があるんだと、それを展覧会でやりたいと言われました。   日本絵画の持っている、人が気付かなかった魅力と言うものが段々わかる様になって来たという事があると思います。  日本美術は日本語と深く関係していると云う事が言われる。 絵と言葉が見事な対象になている。  西洋ではそう事は無い。  象形文字、漢字そのものが形のイメージから来ている。  西洋学者が作った言葉で「命がないものにも命がある」と有りますが、日本の美術の中にそういった精神があるという事ですね。  若冲の絵、アニミズム(生物無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくはが宿っているという考え方。)の絵だと思います。  若冲、北斎などはアニミズムの強い人だと思います。  北斎の「神奈川沖浪裏」の波は生き物として描かれている。 生き物を観ている様な感想を持ちます。   雪解けの杉の葉に残った雪の形にしても目玉があって生き物がいるような感じです。  日本美術の魅力は動いているし明るいし、そこに遊び心があるという事を言いたいです。 絵は見て楽しむものであり、遊ぶものだという考えがあって、それが日本の絵の特色になっていると思います。  

大学に入った時に発疹チフスにかかって、そのお陰でちょっと頭がおかしくなって暴れたことがあって、今の言葉でせん妄じゃなかったかと思います。  それが医学部に行けなかった大きな原因でもあるわけです。  留年して、そこで慰めとしての絵に落ち込んだりしました。  大きな挫折であったと思います。  





















2025年10月24日金曜日

山口由香子(転勤族の妻のためのキャリアコミュニティ 代表)・転勤族の妻でも私らしく輝く人生を

 山口由香子(転勤族の妻のためのキャリアコミュニティ 代表)・転勤族の妻でも私らしく輝く人生を

山口さんは1991年生まれ。香川県小豆島の出身。 2021年にオンライン上に転勤族の妻のためのキャリアコミュニティ を立ち上げ、キャリアや生き方に悩む女性をサポートしてきました。 山口さん自身も転勤族の妻、二児の母としてキャリアに悩み孤独を抱えながら子育てをしていました。 そんななか自分のやりたい事と向き合い行動する事で環境が変わることを前向きにとらえられるようになったと言います。 ご自身の経験を生かしたコミュニティーは同じような境遇の女性たちが支え合い励まし合う場となり、皆さんの心のよりどころになっています。転勤族の妻でも自分らしく輝きながら人生を楽しむ山口さんに伺いました。

5年前からベトナムに転勤しています。  ベトナムでも南の方で、平均が30℃ぐらいの気温が続く感じのところです。  めちゃくちゃおおらかで細かい事は気にしない所です。   7歳と5歳の子供がいます。  回りが面倒見てくれたり、子供達は育てやすいいところです。生まれ育った小豆島では、人口が3万人ぐらいのところでした。  1学年1クラスでずっと高校まで、そんな環境で育ってきました。  自然の中で育ちました。  小学校2年生の時に親がパソコンを買ってきて、段々オンラインの世界に入って行きました。  

26歳で結婚して夫が転勤族でした。  会社を退職して、子供を産んで3か月ぐらいは大変でした。  それからやっとこれからどうしようと考え始めました。 周りは転勤族があまりいなかったので、悩みを友人に伝えるという事はしなかったです。  母や夫に悩みを告げる。夫は一緒に相談には乗ってくれていました。  早く働いて欲しいと言われました。   自分では何をしていいのか判らない状態でした。  ブログをやっている人を見つけて、壁をどうやって乗り越えるのかと言うようなことを発信すれば、同じような境遇の人が助かるのではないかと思って、やってみたいと初めて思いました。  夫に言ったら翌日ブログの本を買ってきました。  それがスタートになりました。 

どうせ一生懸命に書くのだったら、いろいろな人に見てもらいたいし、ウェブのクリエーティブスキルを学べるスクールを捜し始めて、入って自分にスキルが付いてきて、仕事を自分で生み出してゆくと言う様な働き方が出来るようになって、私と同じような転勤族のサポートをやりたいと思うようになって、コーチングを学び始めたりして、自分でコーチングを提供しはじめました。  お客さんの中で孤独で辛いという転勤族の方がいて、コーチング以外にできる事は無いかと思って、コミュニティーを作ったりしました。  

2021年に転勤族の妻のためのキャリアコミュニティ「キノコム」を設立しました。  月に何回か運営側主体でキャリアについて考えてゆくようなイベントを開催したり、メンバー主体で開催するものがあったりします。  悩み相談みたいなものをチャットでやったり、いろいろやっています。  みんながどういう仕事でどういう仕事の働き方をしているのか、知りたいという人が一番多いです。  寂しいので仲間になりたいと言って入ってくる人もいます。 

2024年には有志のメンバーで「転勤妻サポートブック」と言う本を出版しています。  一人ではできないことでも、みんなで集まって誰かのためになる社会にインパクトを残すようなことをしたいと言うのをまだ叶っていなくて、本にしようと思ったのはコミュニティーではハードルが高いとか、集団が苦手とか、と言うような人のために本という選択をしました。 いろんな体験談を入れたかった。  

ベトナムでは定時になったらすぐ帰る。  私はデザインの仕事をしていて、デザインと言うのは日本人が好むデザインと、ベトナム人が好むデザインは違うところがあり、感性の問題でああしてほしいこうしてほしいと伝えるのが大変です。  ベトナムでは産後2か月ぐらいで復帰するのが当たりまえで、おじいさん、おばあさんが面倒を見るスタイルです。 母親が子育てするという固定観念がないです。  夫は働いていることに対して喜んでくれています。  子供たちも認めてくれています。  ちゃんと自分の声を聞いてあげるという事、どういう事をしたいかちゃんと目を向けて、そっちに向かって行動してゆく事、周りの意見は気にしない、無理しない様に生きてゆくのが大事だと思います。




















2025年10月23日木曜日

茅野しのぶ(クリエイティブ・ディレクター)・〔私のアート交遊録〕 アイドルの衣装は、鎧(よろい)である

茅野しのぶ(クリエイティブ・ディレクター)・〔私のアート交遊録〕 アイドルの衣装は、鎧(よろい)である 

AKB48をはじめとするアイドルやアーティストなど、様々な衣装を手掛けています。   AKB48創設当初から総合プロデューサーの秋元康さんの元で衣装担当として活動、これまでに制作した衣装はおよそ4万着を越えます。 メンバーの個性を引き出す豊富な衣装デザインとバリエーションに定評があり、その活動範囲は、エンターテーメントから学校の制服や医療制服のプロデュースまで広がりを見せています。  目指すには360度どこから見ても可愛い衣装、一着として同じものが無いという茅野しのぶさんの衣装に込めた思いを伺いました。

AKB48の大人数を一手に引き受けました。  楽曲に合わせて衣装も変わるので、最低AKB48の場合は一つの公演で10パターンぐらいでしょうか。  凄い時には300人ぐらいがステージに上がるという事もあったので、もう戦場ですね。  最初の3,4年は一人でやっていました。  後輩も育てていかなくてはいけないと思って、2013年に会社組織にしました。  意外とコンプレックスを持っている人が多くて、ステージにあがる時に自信を持ってもらいたくて、オーラが人を魅了させると思うので、自信をつけさせるためには、コンプレックスを解消するか、好きになってもらう。フィットしない時にはこちらから提案します。 (コミュニケーションとりつつ)  コンセプトは「会いに行けるアイドル」としてスタートしました。 14歳から25歳ぐらいまでの少女たちと向き合い方は、まず嘘をつかない、問題を先送りしない、彼女たちの発言などを軽視しない。 (信頼関係が出来てくる。)  

服飾の専門学校に行っている時から、スタイリストのアシスタントになっていました。     2005年 - AKB48誕生前夜、マネージャー募集を聞きつけ、履歴書を持って運営に直談判しました。  秋元さんとの出会いは、人生の恩師だと思っています。  「お前でなければ作れない衣装を作って確立していかないと、クリエーターの世界は優れた才能がいっぱいいるから、とってかわられるから、そこに信念を持て。」と言われました。  「人に涙を流させたいと思うなら、その3倍の汗を裏でかけ。」と言われました。 

3つの視点を持っていて、①プロデューサーだったりクライアントさんの目線、(依頼主の目線)②着用者の視点 ③見ている人の目線。 この3つが上手く合わさって最高のものが出来る確率は凄く低いと思っています。  比率を出来事によって変えて行ったりします。

東日本大震災の後に訪問するときに、彼女たちは悩んでいました。  被災地活動を続けていましたが、きらびやかな衣装は違うかなと思ってTシャツでやっていました。  小さい子がきらびやかな衣装を観たかったようなことを言っていました。 クリスマスの時にサンタさんの衣装だったらいいのかなあと思ってやりました。  幕が開いた瞬間に子供たちがステージに駆け寄って楽しそうにしていました。 主催者の方がこんなに喜ぶのは久々に見ましたと言いました。  衣装の力を感じた出来事でした。 

学校制服のメーカーさんと学校制服をやり始めたり、医療制服もやり始めました。 全国で39校採用頂いています。  失敗を恐れて一歩踏み出せずにいる若者が多いと感じるので、若者たちが挑戦できる状態にしたいと思いました。  最終的にやりたかったことがやれるようになって欲しいなあと思います。  若い者が夢見る日本であって欲しいと思います。    B級映画、特にゾンビ映画が好きです。











2025年10月22日水曜日

堀内恒夫(野球評論家 元読売巨人軍監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 巨人V9を支えた大エースに聞く 前編

 堀内恒夫(野球評論家 元読売巨人軍監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 巨人V9を支えた大エースに聞く 前編

川上監督が率いる巨人が1965年から1973年まで9年連続して日本シリーズを制覇したVナインはプロ野球史上に燦然と輝く大記録です。 そのV9時代の大半を巨人のエースとしてチームを支え、通算203勝を挙げたのが堀内恒夫さんでした。 特にその1年間は開幕から13連勝を達成し、16勝を挙げるなど大活躍、一方でその奔放な言動から悪太郎とも呼ばれました。  一回目は悪太郎伝説はこうして生まれたです。

悪太郎と言われ始めたのはいつかはわからないです。  昭和23年生まれ。 山梨県甲府市出身。  養蚕業(生糸工場経営者)の家に生まれる。  女工さんが30から40人いました。 小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、数ミリほど切断する大怪我を負っている。 指の形が変わったことが独特の大きなドロップカーブを生み出すきっかけになった。 ストレートを投げても自然に少し曲がるんです。(カットボール)  

V1の時には20勝投手が3人いました。(城之内さん、中村さん、宮田さん)それと金田さんが12,3勝しています。  昭和41年4月14日中日戦に登板しました。  3戦目に先発ピッチャーがいなくて、明日はどうせ雨だから堀内の名前を入れておけという事になったようです。  雨が降らず先発することになる。  あがっていてキャッチャーが見えなくて、あがっている様だったら最初の一球はバックネットの中ぐらいのところに投げろ、というアドバイスを貰っていたので、投げたらお客さんが笑ったので、それでキャッチャーが見えるようになりました。  5,6球の練習ではストライクは全然入らなかったが、本番の初球がストライクになりました。  7回満塁で私の代わりに代打で柳田さんが走者一掃の2塁打を打って、ひっくり返しました。  宮田さんがあとの3回投げて、宮田さんが生涯唯一のホームランを打たんです。 それで勝ちました。 その後13連勝しました。 打たれる気がしなかった。 

帽子の大きめのものを被って投げると帽子が横向きになり、そうすると迫力が出るというアドバイスを貰って、力投するアピールが必要なんだと言われました。  ダッグアウトとピッチャーのマウンド迄一直線に歩く様にも言われました。 9回投げると18往復で1本の道になります、そういう事も言われました。 (完投)  1年目は33回投げて16勝2敗でした。 防御率1、39。 新人賞と沢村賞を受賞。 (1年目) 

2年目の2月1日からキャンプが始まり、長距離を走った後3段跳をしたら、右足をついた瞬間にがくんときて、それが腰を痛めた原因だったようです。  アメリカでのキャンプがありましたが、それも腰が痛くていけませんでした。  背番号が21から18(エースナンバー)に変りました。(腰を痛める前に貰ったので、痛めた後だったら辞退していました。)  2軍で夏場まで居て、オールスター明けに復帰しました。 (腹筋を鍛えなさいと言われてやりました。)  その後勝って行って、10月10日広島戦でノーヒットノーラン達成。(ホームランを3本打つ。) 2年目は12勝2敗。  腰を痛めて以降に、「堀内は再起できないぞ。」と言われた時に、悪太郎がどうのこうの、悪太郎の目にも涙、と言ったことを書かれました。  武宮さん(川上哲治監督の2学年下でキャッチャー)が言っていました。 「合宿所には悪いのが3人いたな、王さん、柴田さんと堀内」と。 















2025年10月21日火曜日

伊藤政則(音楽評論家・DJ)        ・ラジオフィフティ 音楽とともに 

伊藤政則(音楽評論家・DJ)      ・ラジオフィフティ 音楽とともに  

伊藤さんは20代前半にイギリスで出会ったハードロックヘビーメタルに感銘を受け日本においていち早くこれらのジャンルを紹介し、普及と発展に尽力しました。  ボン・ジョヴィやエアロスミスなど世界的なロックバンドとも交流を深め、ご自身がディスクジョッキーを務めるラジオ番組で独占インタビューや世界初披露となる楽曲を数多く紹介してきました。 ディスクジョッキーとして今年50周年を迎えた伊藤政則さんが半世紀の間ラジオと音楽に注いできた情熱、貫いていた思いやポリシーなど伺います。

高校時代から深夜放送が大好きでした。  ロンドンに本場の音楽を観たいという事で何か月かいろんなバンドを観ました。  帰国後、友人から「オールナイトニッポン」のアシスタントディレクターのお手伝いの仕事があるという事で、ADとしてアルバイトしました。 (半年) 1975年から「オールナイトニッポン」の深夜3時から5時を担当しることになりました。 (22歳)  レコード会社に行くようになって、アルバムの解説を書くようになりました。  音楽評論家の足がかりになりました。  今もラジオ番組をやっていて30年以上になります。  最近は音楽雑誌が減ってきている。  日本版も出なくなることも多々あります。 そうなると音楽評論家の肩書はあるが仕事をする場所がどんどんなくなってきている。 音楽評論家と名乗って仕事をしている人は少ないです。  

海外で聞いたヘビーメタルを普及してきました。  ロンドンに行った時に新聞で「ヘビーメタルナイト」と言うイベントがあることを知りました。 1979年の夏にいってヘッドバンギング (リズムを取るためのアクション)を観て吃驚しました。  今もツアーをやっている、アイアン・メイデンのまだメンバーも異なる若き無名のアマチュア時代でした。  そのバンドを追いかけていましたが、友達になって、後からカセット、シングル盤を送ってきてくれました。  1980年1月に又ロンドンに行きました。  今度は新しいバンドが一杯出ていました。  戻って来てNHKの番組にゲスト出演して、今ロンドンで何が起こっているかという事でアイアン・メイデンなどの楽曲をかけていただいて、それが日本で一番最初にかかったヘビーメタルの楽曲でした。  反響があり、ファン層が増えて行きました。 

ボン・ジョヴィも全く無名なバンドでした。 1984年夏に「スーパーロック84」というフェスティバルが日本でハードロックヘビーメタルのフェスティバルが初めて行われました。その時に初めてボン・ジョヴィが来日しました。  それがきっかけで彼らとは仲良くしています。  山あり谷あり、長い間やって来て絆が出来ました。  

ポール・ギルバートが僕の番組にゲストで来て、スタジオで生でギターを弾いてくれたりしました。  即興で作ってくれたのを僕の番組で、ポール・ギルバートのテーマで始まるという事になりました。 

ローリング・ストーンの初来日コンサートで、僕が指名されてインタビューすることになりました。  キース・リチャーズのインタビューを30分ぐらいしました。 キースにとってロックンロールとはどういうものなんか聞いたら、「やっとわかり始めたところだ。」と言いました。  

無名時代から一緒に苦労しながら成功を目指してきたアーティストに立ち会っていたことがおおきいし、 インタビューをする時には質問を作って行かないんです。  相手がどんな顔色でどんな調子なのかを見てからでないと話は聞けない。  事前チュエックはやります。  窓口の人はそのアーティストを守る役目もあるわけです。  そういうところを切り崩していかないと真のインタビューは出来ない。  信頼関係も作って行かないとアーティストの本音を聞く事が出来ない。  

ラジオが僕にもたらしたものは、外の全く知らない文化を僕に教えてくれた。  今活躍している若い世代にも定型に定まらないで、はみ出た方がはみ出た分だけ面白いと言う気持ちでどんどん作って行ってもらったら嬉しいです。 70年代後半から80年代前半はFM曲の開局ラッシュでした。  そこで音楽とラジオが変りました。  A面、B面も全部聞かせてくれたりしてこれは大事な事です。 アメリカのラジオは、60年代はシングルヒットしかかけない。  アンダーグラウンドラジオとして60年代にA面、B面も全部聞かせてくれるものが出始めました。  音楽をどういう風に紹介するのか、と言うのがラジオにとって凄く大きなポイントだなあと思います。  ジミー・ペイジはアルバムで聞いて欲しいと新しい時代を耕して行ったという事だと思います。  ラジオを聞いて作ってきた世代と、効かないで育ってきた世代では何か音楽が違うような気がします。 

ラジオってきっちり伝わるのは、自分の愛情が乗った紹介の仕方であり、自分がどれだけその愛が込められているのかと言う風な事だと思います。  判ってしまうのでラジオは怖いですが、そういって試され得てるんだと思います。  皆にしゃべるのではなく、一人にしゃべっている感じがします。  楽しいです。






 




















         

2025年10月19日日曜日

竹田高利(芸人)           ・汗かきコントに、ひとすじの涙

 竹田高利(芸人)                      ・汗かきコントに、ひとすじの涙

 竹田高利さんは1957年東京都生まれ。 1984年山口弘和さんとコント「山口君と竹田君」を結成し、初出場したオーディション番組「お笑いスター誕生」で優勝しました。 その後テレビやラジオのバラエティー番組、旅番組のリポーターなどで活躍し、俳優としてもNHK大河ドラマ炎立つ』に出演しています。 

デビューした時が27歳です。  今は68歳です。  「ゆーとぴあ」のホープさんから面白いから一回テレビに出てみないかと言われたのが「お笑いスター誕生」でした。  山口さんはすでにコントをやっていて、僕は26歳の時にストリップ劇場へ見に行きました。  俺が入ったらもっと面白くなるんじゃないかなあと思いました。(コントの経験は一切ない。)  高校卒業後は秋葉原の電気屋に務めました。 父と一緒に山口さんのところに行きました。   とりあえず一人でやってみろと言われて、ステージで自分のネタをやったら全然受けませんでした。  10分のところを5分も持たなかった。(冷や汗が出ました。)   

山口さんがネタを作ってやっています。  「お笑いスター誕生」で優勝して以降が大変でした。  覚えが悪くて400回ぐらいやったコントを出してましたが、テレビにでて、コントを作らなくてはいけなくなって、そこからが地獄でした。  台本渡されるがなかなか覚えられず、一時期人としゃべっれなくなりました。  コント山口君と竹田君のおじゃましますが立ち上がったが、視聴率が振るわず、わずか1ヶ月半で打ち切られた。 根っからの汗っかきです。 山口さんとはいつもネタ合わせを事前にしています。  去年でデビュー40周年になりました。  寄席での生の舞台が好きです。  受けなかった時には引きずります。   山口さんからは変に色をとけるな、ボケるな、素のままでやれと言われました。   

「熱海殺人事件」に出演しました。  撮り直しが何べんもあり、つかこうへいさんから素のままでいいからやれと言われました。  旅のリポートもやりました。  

レム睡眠行動害は睡眠中に夢を見ているとき(レム睡眠中)に、通常は抑制されているはずの体の筋肉が活動してしまい、夢の内容に合わせた行動や発言が現実に出てしまう病気。  レム睡眠行動害のために、急に動き出して箪笥の角に思い切りぶつけてしまい、おでこを17針縫いました。  今は薬で押さえています。  お笑いは健康にいいです。 






 

2025年10月17日金曜日

伊東勤(西武ライオンズ元監督)      ・常勝チームのつくり方

 伊東勤(西武ライオンズ元監督)      ・常勝チームのつくり方

プロ野球の西武ライオンズ、1980年代から90年代にかけて広岡達郎監督時代の4年間でリーグ優勝3回、日本一2回、森祇晶監督時代は9年間でリ-グ優勝8回、日本一6回と黄金時代を築き上げました。  今日伺うのは当時から西武ライオンズの主力キャッチャーとしてチームの中心であり、後に監督として日本一を経験する伊東勤さんです。  伊東さんは1962年熊本県の出身で現在63歳、1981年のドラフト1位で西武ライオンズに入団し、22年間の現役生活でリーグ優勝14回、日本一8回、2379試合出場、ゴールデングラブ11回、ベストナイン10回、2017年には野球殿堂入りをしています。 現在はNHKの大リーグやプロ野球中継の解説を務めています。  西武ライオンズの黄金時代の強さの秘密を伺いました。

阪神の藤川監督は1年目ですが、積極的に選手とのコミュニケーションをとって、距離を縮めながっら会話を大事にして、相手の選手を分析していってと言うところから入ったと思います。  オーソドックスな野球を1年間貫き通して、故障者が少なかったですよね、それが最大の強みだったと思います。  ちょっと西武と似ていました。 広岡さん等は食生活から変えていきましたから。  故障者が少なくて1年間戦えるという事は強みです。 

私は引き出しはほかの人よりも多く持っていたつもりですが、成績とか数字にはそんなにこだわりはなかったです。  「黄金時代の作り方 あの頃の西武はなぜ強かったのか」と言う本を出しました。  出版社からの依頼がありましたが、自分を掘り起こすきっかけにもなりました。  広岡達郎監督時代時代に入団しましたが、厳しさがありました。  当時は選手の寄せ集めと言った感じでしたので、纏めてゆく事を監督はしました。 強くするために練習を含めて厳しくやっていました。  食生活から含めて1から変えていきました。  肉は駄目で野菜中心になって白米から玄米になり、僕は白米が大好きだったので消化不良で内臓を痛めたりしました。  遠征先のホテルでもそうでした。  独身の若いメンバーが主にターゲットになりました。  

毎日が野球漬けで大変でした。  投げだしたくなるが、徹底的に基本練習の大事さを教え込まれました。 結果的には大事な場面とか試合の中で生きてくるんです。 地味にやって行って点を取って行くという事を徹底的にやらされました。 3イニング単位で考え、最後の3イニング目でどうやって勝ち切るか、徹底的に教え込まれました。  長打を打つ人、脇役、役割分担をしっかり叩き込まれました。  段々と勝つための自分の役割を感じていきました。  広岡監督との会話は余りありませんでした。  監督の圧のかかる緊張感が張り詰めた中での練習でした。  地味な野球でしたが、こうやって行けば勝っていくんだという事が判って来て、食生活などを含めて後で気付いていきました。  ベテラン、中堅、若手がバランスよくかみ合うようになりました。  

土台をしっかり広岡さんが作り上げたので、森監督時代はそれの貯金だと思います。  若手が中堅になって戦う主力になってきました。  選手間で注意をしあうようになっていきました。  食生活も緩和されて玄米から白米に変ったり、肉も食べられるようになりました。 準備、先読みなど全部自分で捉えながらゲームに臨んでいきました。  監督がサインを出さなくても自分がやるべきことは、みんなが判っていて、それに徹していました。      固定メンバーで戦うのが一番の強みですよね。  言葉で洗脳されていったということはありました。  4勝したら勝ちなんだけれども、3敗してもいいんだよ、このピッチャーだったら力も落ちるから取れるとか、展望を話してもらえると、なるほどなあとなるんですね。(気が楽になる。)

私が監督になりますが、キャッチャーをやっていたので、要なのでキャッチャーを誰にするかという事を重点にしました。   監督業は描いてなかったです。  広岡監督がやってきたことはやはりベースになりました。  広岡監督がやってきたことを今やろうとしても無理ですね。  今の選手の気質を観ながらチームを作って行かなくてはいけない。  一番うまくやっているのが日本ハムの新庄監督だと思います。  1,2年目は批判されたたが、3,4年目になって自然と選手たちに競争させていました。  若い選手が多くて、今年は優勝争いをするチームになっています。  

強制的にやることも必要ですが、時代に合った指導方法、また厳しさも必要だと思います。  
































2025年10月16日木曜日

柳澤秀夫(元NHK解説委員)       ・現場主義の私が見る、これからの日本

柳澤秀夫(元NHK解説委員)       ・現場主義の私が見る、これからの日本

柳澤さんはジャーナリストとして世界各国の紛争地や沖縄、東日本大震災と言った現場を取材し伝え続けてきました。  NHK退職後はNHK、民放を問わずその経験をもとに今の時代をどう見るか、何を大事にしなければならないのか、発信を続けています。

 1991年の湾岸戦争の時に、トマホークが突っ切て行くのを指さしながら「トマホークだ。」と叫んで放送をしたことを思い出しました。  やっている時には無我夢中でした。  イラク戦争の開戦の時には石澤さんと台本もなしに、エンドレスでやることが当たり前でした。(いろんなことが起きた。)  生放送なので緊張感が忘れられないです。 

NHKでの経歴、初任地が横浜でした。  そこで人との信頼関係を作るにはどういうことなのかなと言う事を育ててもらったと思います。  二局目が希望通りの沖縄でした。 沖縄では5年いました。  1984年報道局外信部(現在の報道局国際部)に配属。 その後海外、バンコク、マニラ、カイロに赴任、カンボジア内戦、湾岸戦争などを取材しました。 2001年9・11アメリカ同時多発テロ、2003年イラク戦争など中東情勢の番組にも出演、「あさイチ」のレギュラー司会を担当、解説委員長も務める。 

記者は元々黒子の仕事だと思っていました。 「ニュースウオッチ9」が始まる時には、一旦お断りしました。(スタジオに入ったら記者ではなくなると思いました。)  上司から「やらないで後悔か、やって後悔するか。」と言われてどうせ後悔するならば、やって後悔しようと思いました。  情報番組と言う、自分の知らない世界に飛びこんでみるのも取材の一つかなと思って「あさイチ」で始めました。  湾岸戦争を自分の目で確かめたかった。  ひょっとしたら自分の命を落とすかもしれないという思いはありました。 何故戦場に記者が必要なのかと問われて、「戦争を止める力だと信じている。」と答えました。  戦争を始めた側は自分の都合のいい情報しか流さない。  大衆を騙してゆく。 それだと戦争は止まらない。  行ってそこで何が起きているのかを伝えなえなければいけない。  そこで一番つらい立場の人は弱い人たちです。  トマホークでピンポイントで攻撃するから、周辺の人たちには被害は限定的といいますが、実際の戦場を観たらそういうものではないです。 

今の戦争は兵隊が血を流すことなく、自分たちに被害を被ることなく無人の兵器で攻撃することになると、戦争のハードルがドーンと下がってしまう。  戦争に歯止めがかからない時代になって来ている。  ウクライナ侵攻では双方で無人機を使っているので、停戦の見通しがつかないという現実も、そういったところに一つの原因があるのかもしれません。 今の時代に主権国家が主権国家を攻撃を仕掛けて侵略するなんて、想像していませんでした。   日本でも備えは必要かもしれないが、もっと大切なのはそういった危機的状況にならないようにするための努力が大切だと思います。 (外交)  敵であろうと見方であろうと基本は対話です。  

通信が発達した現在は、さも対話をしてい居るかのような空間に自分をおいて、錯覚を起こしてしまう。  努力を惜しんでしまうと大切なものを失うと言う気がします。  コミュニケーションの基本はフェース ツー フェース だと思います。 

出身は福島県会津若松市で、小さいころから天体望遠鏡とアマチュア無線に夢中でした。  戊辰戦争で先祖が辛い思いをしたことがありますが、戦争を繰り返さないためにはどうしたらいいかという事を小さいころから教えてもらってきたような気がします。 これまでやってきた記者の部分と通じるところがあります。  歴史を振り返るといつの時代も戦争があり、繰り返されてきている。  ギリシャの哲学者で「戦争が終わったと言えるのは誰なんだろう。」という命題を掲げています。  それは「負けた人、戦争で死んだ人」だそうです。  これほど皮肉な言葉はないです。  戦争は死なないと終わらないのかと言う事。 でもそうさせないためにはどうするかと言う事をこだわり続けないといけないと思います。 

の掟」(ならぬことはならぬです) ((じゅう)は、会津藩における藩士の子弟を教育する組織。)  知らないうちに自分の故郷の道徳訓みたいなものが沁みついてしまっているのかもしれません。  

「夢を持ち続けて諦めずに前に一歩踏み出す。」それしかない様な気がします。 何年か前に「記者失格」と言う本を出しました。  伝えるという仕事にどこまで真剣に自分が向き合っているのか、ひょっとすると自分の自己満足、好奇心を満たすためにこの仕事をしてきたのかなと、自問することがあります。  自分が何か観たり知ったりしたら、観たり知ったことに責任が必ず生じると思います。  それが結局伝えるという事なのかもしれません。 

「記者失格」の「はじめに」の中で「・・・自らの不甲斐なさを意識しながら私は記者と名乗って良いのか、記者としてその名に恥じない生き方をしてきたのか、そんな自問自答をまとめたのがこの本である。 ・・・自分を裸にしてその自分と真正面から向き合う事がいかに厄介な事なのか、そんなことも思い知らされた。」  すべからく思いあがっては駄目だなと思います。  どんなことがあっても自分の謙虚な気持ちを忘れると、これから先のことが見えなくなるし、自分が見えなくなるだけではなくて、周りが見えなくなる。  離れたところから自分を見る目を持っていないと、取り返しのつかない、とんでもない間違いを起こすような道に入って行ってしまうのではないかと思います。 

時代と共に伝える手段は変わってきたと思います。  しかし共通しているのは伝るという事だと思います。  人と人との間でコミュニケーションをもって伝えてゆく事だと思います。 何を誰に伝えるのか、だれのためのものなのか、絶えず反芻しながら考え続けて行かなければいけない事だと思います。  大病をして、死の宣告に近いようなものをされると、健康があって全てなんだなと思います。 食生活も変わったし、自分の人生観も変わったし、毎日自分の家で三度三度食べられる有難さなど、実感するようになりました。  地域の健康診断で、実年齢は72歳でしたが、46歳でした。  過信してはいけないので、日々謙虚に生きたいと思っています。  

















2025年10月15日水曜日

柳原陽一郎(シンガーソングライター)   ・「さよなら人類」から35年、 ソロになって30年

柳原陽一郎(シンガーソングライター)   ・「さよなら人類」から35年、 ソロになって30年 

柳原陽一郎さんは1962年福岡県生まれ。 中学3年の時にギターを始め、大学生の時にバンド活動を始めました。  1984年ライブハウスで歌っていた時に、よく一緒になった石川浩司さん知久寿焼さんと共に、バンド名「たま」を結成、1989年テレビのバンドコンテストで優勝して、1990年5月に柳原さんが作詞作曲をした「さよなら人類」でメジャーデビューとなりました。 大ヒットして紅白歌合戦にも出場しました。 1995年たま」を卒業してソロで活動することになります。 ギター、ピアノの弾き語りによるソロライブや様々なジャンルのミュージシャンとセッションするなど、現在も精力的に活動して、今年ソロ活動30周年を迎えました。 

「さよなら人類」  作詞、作曲 柳原陽一郎

たま」は4人のメンバーがいて、それぞれ一人でも歌えるようなバンドです。(それぞれがシンガーソングライターでした。)   

もともと日本の歌謡曲が好きでした。  1975年中学1年の時にステレオが家に来ました。  エルトン・ジョンのレコードを購入しましたが何がいいのかよくわからなかった。  次にビートルズを聞いて、 次にクイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」が出て来てロックにはまっていきました。  中学3年の時にギターを始めました。 高校1年の時には曲も作るようになりました。  学校の成績もどんどん落ちて来て、世の中を斜めから見るような性格が形成され行きました。(高校時代)  大学の時、21歳のころたま」のメンバーと知り合い、 バンドを結成しました。  自分のペースでやりたいという思いはありました。   1989年にTBS系音楽番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出場し、3代目グランドイカ天キングとなった。   

1990年5月5日、シングル『さよなら人類/らんちう』で、「たま」としてメジャーデビューしました。  同曲で同年末のNHK紅白歌合戦初出場しました。  この路線で進むのがきつくなりました。  たま」は5年で卒業し、ソロ活動に移っていきました。  

ソロになった自分が確立出来ていなかった。  あるスタッフの方から「一人で出来る様にならないと駄目だよ。」と言われました。 それから30年になりました。 しょうがない曲をいっぱい書きました。  抜け出すのに5年ぐらいかかりました。   創作J活動とライブを一緒にやるという事は結構大変でした。  自分に等身大の、人の根源的な悩みや喜びをちょっと書けるようになってから、逆に楽しくなって来ました。(それまでは楽しいと思った事は無かった。)  面白くなったのはつい最近でしょうか。  今後歳を取って、もっと声が出なくなってくると、それって自分の歌にはプラスになるような気がします。 
















2025年10月14日火曜日

楠木新(作家)              ・70歳からの生き方のヒント

 楠木新(作家)              ・70歳からの生き方のヒント

人生100年時代、定年退職後仕事を続ける方もいれば、のんびり過ごしたい方、趣味や習い事などに熱中している方もいると思います。 しかし70歳を過ぎると体力的にも精神的にも衰えを感じることが多くなると言います。 そんな70歳以降の生き方や生き生きと暮らすヒントについてお伝えします。

「定年後」の本を執筆していましたが、50代後半から60代前半に会社を辞めた後の取材をしてきましたが、私が今年71歳になり、生き方を変えてゆく必要があるんだなと言うことを、いろんな場面で感じました。  これからの参考にしたいという事を含めて、お話を聞いてきました。  2017年「定年後」ベストセラーになりました。 (執筆が60歳前後)  2013年に60歳で辞めるのか、65歳まで務めるのか、大きな議論になりました。 取材をして面白くてやめられなくなりました。  阪神淡路大震災とかがあり、いろいろ悩んで47歳の時うつ状態で休職しました。  復帰はしましたが、40代半ばから50代の人で、60歳の定年を迎えるにあたってに定年状態に陥る人がいました。 「心の定年」と名付けました。 人生が凄く長くなったという事で、60歳前後で私自身がこの先どうしていったらいいか感じ始めました。  60歳前後の人に取材して出したのが「定年後」と言う本でした。

60代の取材の時には現役の雰囲気が残っていましたが、70歳ぐらいの人はその雰囲気が消えていました。  その人たちが仕事の話はもうしなくなって、テレビ番組か、健康の話などでした。  70歳を越えると、個人として、地域のこと、活動範囲も狭くなってくるのでその中でどう楽しんでやれるかと、いう風に変わって来ます。  70代になって来ると①死について語るようになる。 ②小さい子がかわいくて仕方がなくなる。(男性に多い。)   ③考え方、体力のバラツキが大きい。   今持っているもの、あるものをどうやって大切にしていくかがポイントなのかなと思います。 

①本当の寿命、②健康寿命、③資産寿命、④労働寿命(雇用されるのではなく何らかの仕事ができる。)この4つが大事だと思ってきました。  でも70代の人に聞くと、人間関係寿命(人との関係、人とのつながりを持っておくこと。)が凄く大事だなあと思っています。   ある80代の人から「人とのつながりが無くなって行くことが老いる事です。」と言われた時に 、大事なんだなあと感じました。  家族のことで言うと配偶者との関係が大事だと言われます。 (急に良くしようと思っても難しい。 忌憚なくコミュニケーションが出来る夫婦がいい。)  SNSで月に決まった時間に家族、子供家族が一緒にズームで話をするという事もいいことだと思います。  

人との関係を増やしてゆくのに、5つぐらいのバージョンがあります。  ①仕事をする。(人の関係は必ずついてくる。) ②趣味(他の人とつながっていけるような趣味がよりよい。)    ③ボランティア、地域活動(多種多様のものがある。 地区町村のホームページなど参考になる。)  ④学び(書道、卓球・・・ クラブ活動) ⑤少しでも自分の好きなことが有ったら自分の足で動いてみる。   顔つき、雰囲気が重要かなと思います。(プラカードみたいなものです。 柔和な顔つき、雰囲気 笑顔)  物事には光と影の部分があるが、良いところをきちんとみられるという事が大事です。  同じ状況でも、本人のスタイルによって受けとり方も違うのではないか。(良いと思うか、悪く思うか。)

「毎日良かったことを必ず書いてゆく。」  それを続けることが大事。  そこから自分の興味あることを捜すという事もあるかもしれない。  いい面を観れるようになる。 今持っている「もの」、「こと」を大切にする、という事に繋がってゆく。  失ってゆく中でどう楽しんで過ごしてゆくか。  最後、自分との人間関係が良くなる。  最後は一人になる可能性があるので、その時の人間関係は自分だと思います。 






































 


2025年10月13日月曜日

芹洋子(歌手)              ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る

芹洋子(歌手)              ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る 

ホームソングのシンガーとして知られる芹洋子さんは、日本を代表するジャズシンガーのマーサ三宅さんにレッスンを受けていました。 マーサ三宅さんと芹洋子さん、どんなレッスンでどんなドラマがあったのでしょうか。

マーサ三宅さんは今年の5月に92歳で亡くなりました。  マーサ三宅さんは1933年中国東北部満洲国四平街(後の吉林省四平市)で生まれました。 父を早くに亡くしたマーサさんは終戦の翌年、母と二人で日本へ引き揚げ中学校に入学、卒業後日本音楽学校で音楽の基礎を学びながら、夜はアルバイトと言う生活を続けます。  昭和28年に音楽学校を出たあとは当時人気だったクラリネット奏者でジャズシンガーのレイモンド・コンデが主催するゲイ・セプテットの専属歌手となりました。  

独立したのちはテレビ、ラジオのステージでジャズを歌い続け、スイングジャーナル誌の女性ボーカル部門トップの座を保持し続けました。東京中野にマーサ三宅ボーカルハウスを開校したのは、昭和48年、芹洋子さんはじめ大橋純子さん、今陽子さんなど多くのスターを輩出しました。  1993年には歌手生活40周年記念リサイタルマイライフを開催し、文化庁芸術祭賞を受賞、2000年春の紫綬褒章に続き、2006年春には旭日小綬章を受章しました。 今年の5月に92歳で亡くなりましたが、生前にこう話しています。  「私にとってジャズとは人生でした。  だから夫でもなければ恋人でも親子でもない自分の人生ね。  息絶えるまで歌い続けたい。 」

私は歌が好きで、のど自慢番組とか受けて好成績でした。  1970年からNHKテレビ歌はともだち』に出て、3年間歌ったり司会をしたりしました。  母はがんで、受かったという事を聞いて亡くなりました。  コマーシャルソングの仕事をすることになり、今迄に700曲ぐらい歌ってきました。  商品名をはっきり言わなければいけないので、そういった癖がついてしまって、棒読みみたいな感じになってしまいました。 レッスンをすることになり、1972年にマーサさんのところに行きました。  「自分のありのままの姿を歌にしたらいいからね。」と言われました。  私の歌を聞いて学びなさいと言う感じでした。 ワイドにものが見れるようになりました。(音楽だけではなくて人間性の面でも学ぶことが出来た。)  歌うのではなく語る感じ。  歌う事よりも雰囲気、ムードを大事のしなさいと言われました。(今迄とは全く違った感じでした。) 褒められたことはたくさんあり、叱られたことはなかったです。  段々と自信もついていきました。 先生のステージを見るとレッスンと時とが全く違う先生がいました。  

1974年『愛の国から幸福へ』がヒット、以降『四季の歌』がミリオンセラーを記録、1978年の「第29回NHK紅白歌合戦」(歌は「坊がつる讃歌」)にも出場しました。 『愛の国から幸福へ』がヒットした時にはいろんな結婚式場に行きました。 四季の歌』では中国の愛唱歌になり北京に行って19回やって来ました。  (1992年交通事故により外傷性クモ膜下出血となり、意識は回復したものの逆行性健忘を生じ自身が歌手であったことや持ち歌すべての記憶を失う。しかし懸命のリハビリによって歌手として復帰。)  2000年にラジオ深夜便の10周年記念のイメージソング「夢」を歌いました。 

継続する事は難しいと思いますが、マーサさんは一途に継続してきたことに対して、尊敬をしています。  自分の道を究めるためには、周りの人の協力が必要だと思います。  マーサさんの周りの方々も凄かたっと思います。  その人の人生を変える言葉と言うものはあるんじゃないかと思います。  

マーサ三宅さんへの手紙

「・・・1972年初めてのレッスン、あの時私はとても緊張していました。・・・先生の甘い歌声にその時妙な安ど感を覚えました。 歌う事って、吐く息と吸う息、それに加えて止める息も大切で、その止た息の中に人間性が生きてくるのだと、それからのレッスンで私は学びました。  優しい心そして絹のような柔らかな歌声、マーサ先生にいつも尊敬の念を抱いていました。  今でも私はマーサ三宅さんの大ファンの一人です。 又私のそばで歌って下さい。」













2025年10月12日日曜日

宮川一朗太(俳優)            ・元妻を自宅で看取って

 宮川一朗太(俳優)            ・元妻を自宅で看取って

来年3月に還暦を迎える宮川さんは、高校生の時に森田芳光監督松田優作主演の映画「家族ゲーム」でデビュー、NHKでも多くのドラマに出演していますが、大河ドラマは「光る君へ」が初出演となりました。  私生活では30代で離婚、男手ひとつで子供2人を育てました。 この5月には2年ほど前に末期がんの元妻を看取っていたことをテレビ番組で公表し、反響を呼びました。 

「光る君へ」では藤原顕光役に出演。 40年近く俳優をやって来て、決まった時には光栄でした。 1話から48話(最終話)迄全部出ることになりました。(最後は77歳) 平安時代の作法が大変でした。  階段の乗り降りも常に左足からとか、胡坐をかくにも左足が表と言う感じです。  俳優になるきっかけは女の子にもてたかったからです。(中学2年) 高校1年の時に養成所に入って、1年後に受けたオーディションが「家族ゲーム」でした。 やる気のない状態でしたが、面接ではそれがかえって良かったようでした。 (主人公のイメージに合っていた。) でも主人公は松田優作さんでした。  部分的に取っていたものを試写室で観ましたが、なんて下手なんだろうと思いました。  落ち込んでいたら、優作さんが「それでいいんだよ。 天狗になるよりましじゃないか。」と言われて、いまだにその言葉を支えにやっています。

仕事がない時に、いかに自分に対して努力するか、という事を大事にするようになってきました。  歳を取るほど好奇心の塊になって来て、いろんなことをやってみたいです。  演劇塾「いち塾」を今やっています。  いくつになっても夢を追いかけることが出来ると言ったら、50代過ぎの方が結構入って頂きました。  

23歳で結婚、娘2人が誕生しました。  30代で離婚しました。  俳優と育児は大変でした。  地方ロケの時には、元妻の両親が近くにいたのでお願いしました。  成人するまでは子供たちから離婚したことは発表しないでほしいと言われました。 (7年ぐらい) 困っていることを打ちあける番組があり、子供達に相談してそこで公表しました。  この5月には2年ほど前に末期がんの元妻を看取っていたことをテレビ番組で公表し、反響を呼びました。   ステージ4で病院での治療もしたくないし、南の島の家にも帰りたくないし、娘たちも引き取りたいという事だったが、娘の家も遠いいので、病院から一番近いのがうちでした。  3月に家に来ることになったが、8月に次女に子供が生まれることがわかっていました。(初孫)   元妻を面倒見るという事に対しては凄く葛藤がありました。  元妻がやってきた日に長女が買い物に出かけるんで、見ててくれるように言われました。  観に行ったら上半身起こしていましたが、慌てて寝かしつけました。  翌朝長女が「もうだめかもしれない。」と言ってきました。  次女にも連絡をして、間に合うかどうかわからなかった。 介護の方が「今、脳が休もうとしています。」と言いました。  呼吸が止まってしまうと思えた瞬間、大きく息を吸ったんです。  それが最後の呼吸でした。 

東京で治療をするようになったのは、その半年ぐらい前でした。 何回かお見舞いに行き、会話をしていました。 そのうちに会話も出来ないような状態になりました。 旅立ってから、長女が遺品を整理していたら携帯でメッセージを送ろうとしていた未送信があるという事でした。  「見舞いに来てくれてありがとう。 とっても嬉しかった。」と有りました。  

これから60と言う新しいステージに入ってゆく訳ですが、これは新しいチャンスだと思っていますし、60,70代で物凄く活躍されている先輩が大勢いますので、私もその仲間に入らせていただくという感覚です。  























2025年10月11日土曜日

2025年10月10日金曜日

美谷島邦子(8・12連絡会 事務局長)    ・〔人生のみちしるべ 〕 ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から40年(初回:2021/11/12)

美谷島邦子(8・12連絡会 事務局長)    ・〔人生のみちしるべ 〕 ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から40年 (初回:2021/11/12)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/11/812-36.htmlをご覧ください。

2025年10月7日火曜日

柴崎春通(画家)            ・絵を描くことは人生の喜び

 柴崎春通(画家)            ・絵を描くことは人生の喜び

 柴崎春通さんは1947年千葉県生まれ。(78歳)  絵画講師歴はおよそ50年になります。今年4月Eテレで放送した番組3か月でマスターするシリーズでは講師として出演しました。 70歳からはYouTubeで絵の描き方などを動画配信し、現在島崎さんのYouTubeチャンネルを登録している人は国内外で200万人を超え、人気YouTuberとしても活躍しています。 大人にこそ絵を描いて欲しい、絵を描くことは自分と向き合う事になると語る柴崎さんのこれまでの歩みや活動を続ける思いについて伺いました。

モチーフは世界中歩き回って、ひとりでに集まってきたようなものです。  70歳からはYouTubeを始めました。  個展には若い人が多いですね。  50代のころから銀座で個展をやっていましたが、違う切り口でやってみたいと思っていました。 息子が「YouTubeでやってみない。」と言ってんです。 それで始めました。 ある時アメリカのCNNテレビに取り上げられました。 日本でも話題になって、フォロワーが段々と増えていきました。 

戦前は貧しい農家でした。 農地解放でようやく生活がそこそこできるようになって、私が生まれた時には自分のところでお米を作っていました。  昭和30年ごろになると日本は景気が上向いてきました。  一人で何かをしているのが好きな子でした。  ものを作ったり絵を描くことが好きでした。  本も好きで図書室で片っ端から読んでいました。  画集を観て驚きました。  農業は親を楽にさせるためにずっと高校までやっていました。  県庁を受けて受かったが、何んとなく嫌で行きませんでした。  友人が東京の専門学校に行くと言うので、自分も行きたいと思って絵を勉強に行くということを口実にしました。  親も賛成してくれました。  阿佐ヶ谷美術学園(現・阿佐ヶ谷美術専門学校)に行ってみたら,みんな絵が上手くて、ガックリしました。  上手い人の絵を描くのをひたすら見るようにしました。 アルバイトはビル掃除をしていました。 

東京藝術大学を受験する。1次試験のデッサンに合格し、2次試験の油絵まで進んだ。 納得のいく課題提出に至らなかった。そのため合格発表日に確認しに行くことなく進学を断念した。 和光大学に開設間もない人文学部芸術学科があることを知り、1967年に入学しました。 就職のことは何も考えて居なくて、荻太郎先生にに呼ばれ、絵画通信教育講座である講談社フェーマススクールズを紹介されました。  アシスタントとして就職、そのうちにほかの先生と同じ仕事をやってみないかと言われ講師に昇格しました。  仕事もどんどん増えていきました。契約状態も良くなってきて、遣り甲斐を持てるようになりました。(40代)  

でもこのまんまでは面白くないと思て、2001年に文化庁派遣芸術家在外研究員としてアメリカに渡りました。  東南アジアに行って道端で絵を描くことなどを繰り返していました。  絵を描いていると危険なところでも、危険な目に遭う事は無いです。  相手も警戒しない。  

親が農業をやっている間は、農繁期には会社で仕事をしていても、土日は農業の手伝いをしていましたが、親が歳をとって農業をできなくなってからは、時間も出来て個展をするようになりました。(50代前後)  頑張りすぎて心臓の病気になってしまいました。 入院して何回か手術をしました。(入退院を繰り返す。)  人間は死ぬんだなと思いました。  改めて自分を見直すきっかけになりました。  絵を描いていると、今の自分に正直になれる。 絵を描くという事は人間の五感を使ってする作業の、自分を一番正しく表に出せる原点だと思います。  皆さんたちの生活の中にも浸透できるようにして行ったらいいんじゃないかと思います。  

モットーにしている言葉は「我は一人」、生まれた時から死ぬまで、よくよく見ると自分一人なので、だからこそ自分に正直に生きる。 だからあまり色々なものはいらないという事ですね。  固執しないで、どんどん捨ててゆく。 捨てることによって新しいものがキャッチできるような気がします。  人並みに、とつい乗っかりたくなるが、「我は一人」なんですよ。  判断するにも、何をするにも、ここが大事かと思います。  一人一人だからこそ、認め合えるんです。  大人だからからこそ、絵を始めた方がいいと思います。 達成感を味わってみる。






















 


2025年10月6日月曜日

舘野泉(ピアニスト)          ・88歳 “左手のピアニスト” が奏でる世界

舘野泉(ピアニスト)          ・88歳 “左手のピアニスト” が奏でる世界

 現在88歳の舘野泉さんは、65歳の時リサイタル中に脳溢血で倒れ、右半身の自由を失いました。 その後2年ほどのリハビリ生活を経て、左手のピアニストとして活動を再開、今年演奏活動65周年を迎えました。  舘野さんは1936年東京生まれ、東京芸術大学を首席で卒業後、ピアニストとしてデビュー日本とヘルシンキを拠点に世界各地で演奏活動を行ってきました。 左手のピアニストとして活動を再開した舘野さんは、現在年間30回にのぼる演奏会を開き人々に深い感動を届けています。 

*「赤とんぼ」  ピアノ演奏:舘野泉

左手で弾いているという感覚は全然ないです。  右手は全然使えないです。  弾くのは身体全身で、特別なことだと思った事は無いです。  右の方を弾く時には身体をよじらないといけないので身体の負担は非常に多いです。  右手が使えなくなって25年経ちますが、その時には左手で演奏する曲が少なくて、自分で演奏活動をしてゆくのにたりないので、いろんな作曲家に頼んで曲を作ってもらいました。  一番最初に書いていただいたのが間宮芳生さんです。  間宮さんとは40年以上のお付き合いです。  最初の作品は大変だったらしいです。 二か月後に弾きやすいように修正した作品を作って頂きましたが、やはりオリジナルの方がいいのでそれにしました。  今では世界の作曲家(10ケ国余り)から書いていただいています。  作曲家にとっては自由な発想だ書けるので、喜んで作曲してもらっています。

右手が利かなくなってから再び鍵盤に向かうまで2年掛かりました。  でもピアノを弾くことは何もしていませんでした。  1年を過ぎた頃、小山 実稚恵さんがアンコールで「左手のためのノックターン」を弾いてくれて、僕の方を観たんです。 (こういうのもありますよというサインだった。)  でも僕は機が熟していなかった。(2年間)  左手で弾くいう事は、前と変わらない音楽をやって行けるという事に歓びを感じました。  落ち込んだ事は無いです。(瞬間的にはあったが。)   神様が「左手だけでよく頑張ったから、右手も返してあげる。」、と言っても「結構です、でも僕は左手だけで満足です。」と言います。

「赤とんぼ」は梶谷修さんが編曲したもので、1本の手で旋律が同時に3本重なっていて、両手のピアニストに弾けと言われても出来ないです。 一日にピアノに向かう時間は平均すると2時間ぐらいです。  新しい作品に向かう時には4時間ぐらいです。  ピアノを弾いている時にはおれは生きているんだという思いがあります。 

ピアノを始めたのは5歳の時です。(太平洋戦争が始まった年) 舘野弘チェリスト。母舘野光(小野光)はピアニストでした。  母は本当は絵描きになりたかったそうです。 祖父がピアノを買ってくれてピアノをやるようになったようです。 私は実際には5歳よりも前からやっていたようです。  自由が丘に住んでいましたが、東京大空襲があって上野毛に疎開しましたが、また大空襲があって焼夷弾で家が焼けてしまってピアノも焼けてしまいました。 ピアノよりも宮沢賢治の「風の又三郎」、「西遊記」が焼けてしまった方が悔しかった。 戦災を避けて栃木県小山市間中に一家で疎開しました。  音楽なんてないとんでもない生活ですが、自然のなかにすっかり入ってしまいました。  

最近の若い人のピアノを聞くと技術の進歩が凄いです。  ただいろんなことをやっているんだけれど、一つ型を破って出てくる、それが欲しいなあと思います。  小さくまとまっていて、隙が無い。  自分が好きなことをずーっと変わりなく持ち続けてやってきたことは、本当に幸せだと思っています。  引退なんてことはしないで、最後まで弾いて「さようなら」と言えたら幸せだと思います。



























2025年10月5日日曜日

石丸謙二郎(俳優)            ・中高年こそ人生を楽しもう

石丸謙二郎(俳優)            ・中高年こそ人生を楽しもう 

NHK第一放送のラジオの「石丸謙二郎のやまカフェ」では山の情報や魅力を伝えています。 この番組の司会を務める石丸謙二郎さんは、登山を楽しみながらスキーやピアノなど多くの趣味を楽しんでいます。 石丸さんの山への思い、年齢を重ねてこその人生の楽しみ方を伺いました。

「石丸謙二郎のやまカフェ」は今年で8年になります。 でもまだしゃべり足りない。 いまは山に登らない人でも聞いてもらっています。  去年マッターホルンに登頂しました。  65歳になった時に登ってもいいんだという思いが湧きました。  準備をして飛行機を予約をしたりして、行こうと思ったらコロナになってしまった。  全部キャンセルして、5年後70歳になる時に、再度行こうと思って準備をしました。  マッターホルン(4478m)は一日で日帰りをしなければならないので、若くないと出来ない。  息が上がっても休みなしです。ヘルンリ小屋が3260mのところにあって、そこで一泊して朝の4時過ぎに、いきなりロープでクライミングをして登るようなことから始まります。  

頂上までの標高差が1300mの半分の時点で2時間半を切らないと、そこで降ろされてしまう。 5時間で登って5時間で降りてこないといけない。  ようやく中間地点に行って休めるかと思ったらどんどん先に行きます。 なんとか頂上までたどり着けました。  高度順化するために何回も富士山に登り中途から2往復しました。  最初のうちは苦しかったが、段々慣れてくると呼吸法も覚えました。  マッターホルンの頂上は畳一畳ぐらいで、写真を撮って、宇宙に自分の首がズボっと抜けたような感じがしましました。 降りようとしたら上がってくる人がいて、すれ違いざまは物凄く気を使いました。  頂上にいられたのは1,2分でした。  降りる時が怖くて一番傾斜の強いところは80度ぐらいあります。  本来は降りて来てリフトで下るんですが、止ってしまっていて、それを見越して自転車を用意しておいて、夕陽を見ながら自転車で下って来ました。 ホテルに着いたのは夜の9時でした。 

大学のころは毎週のように山に登っていました。  それから40年ぐらいになります。   僕は石橋を思いっきり叩いて渡る人ですね。  60歳からスキーを始めました。  70歳になってからスノーボードを始めました。 (今年始めて10回以上行っています。)  ウインドサーフィンは37歳から始めました。  47歳からフリークライミング、65歳から絵(墨絵)を描き始め展覧会もやりました。  同じ時期にピアノも始めました。 街角ピアノがあるので行った時に弾くようにして、60か所で弾きました。 ピアノを弾くと自分の身体に返って来ます、それには吃驚しました。 又ピアノって一台一台違う事にも吃驚しました。   高いピアノを弾くことができる機会がありましたが、その時には4時間弾いていました。

歳を取って来ると時間が出来るので、トライできると思います。  ピアノも一曲しか弾けなかったのですが、2曲目、3曲目を挑戦しています。  出来ると思ているが手を出さないのが二つあって、そば打ちと陶器作りです。  はまったら大変なことになると思っています。  舞台、芝居だけだとストレスが溜まってしまうので、僕の中ではバランスがとれています。 遊びは真剣にやるから、遊びをする時には全部忘れる。  歳を重ねると山に対しては畏敬の念を抱く様になります。 (特に富士山など)  やりたいと思う事が有ったらとりあえずやってみる。  駄目ならやめればいい。  今が一番若いから、富士山を逆にしたように、これから末広がりでいろんなことが出来ると思う。




















2025年10月4日土曜日

吉田憲司(国立民族学博物館 前館長)    ・世界の人びとの暮らしと文化をつなぐ ~“みんぱく”創設50周年

 吉田憲司(国立民族学博物館 前館長) ・世界の人びとの暮らしと文化をつなぐ ~“みんぱく”創設50周年

国立民族学博物館は去年創立50周年を迎えました。 文化人類学、民俗学とその関連分野で大学との共同利用機関として1974年に創設されました。  所蔵する研究者は世界各地でフィールドワークを続けていて、世界の人々の暮らしや文化を調査研究して半世紀に渡って、その成果を発信してきました。 アフリカの仮面やアマゾンの生き物文化など博物館で紹介されるさまざまな展示は世界を知る入口になっています。 民博の成り立ちや役割など国立民族学博物館の前館長の吉田憲司さんに伺いました。

国際的に見てもユニークな研究機関であって、博物館を用いる大学院教育も準備している研究機関です。 現在大学の研究者は専任で54名います。  それぞれが世界各地でフィールドワークに従事している。  展示、コレクションの世界では・・?をカバーしている点では世界唯一の存在ことになります。  50年間で世界各地から収集してきた標本資料は34万6000点を越えました。  20世紀後半以降に築かれた民族誌(民族の生活様具に関する)としては世界最大の規模のものです。  世界最大の民俗学博物館になっています。

国立大学設置法の改正法で、民博を作るという法律が国会を通て施行された日が1974年6月7日でそれが創設の日になります。  準備室が出来て万博の敷地内に博物館の建物を建てました。 公開したのが1977年です。(開館記念日)  創設室の中心になったのが、文化人類学者の梅棹 忠夫さんです。  民博を世界第一級の博物館に、研究自体も常に先端であれ、といつも研究者に叱咤激励していました。  又フィ-ルドワークを大切にする一方で、いろんな文化、文芸を俯瞰する見方を常に持っておけと、言っていました。

太陽の塔の地下に世界中のいろんな民族が生み出した生活用具約2500点が展示されました。  そこで岡本は人間存在の多様さ、共に生きている共感を謳いあげようと述べている。基本的な考え方、態度を今も我々は継承していて、重要な言葉だと思っています。  万博から民博へと言う大きな繋がりがあると思います。 

アフリカの仮面研究の大一人者、『仮面の森:アフリカ、チャワ社会における仮面結社、憑霊、邪術』などの著書があります。(吉田憲司) 私が大学に入ったのは1975年(民博創設の翌年)  探検部に入って人類学の真似事のフィールドワークを国内で始めました。 梅棹 忠夫さんが探検部の顧問でした。  チャワで2年間フィールドワークをして、その後民博に移ったのが1988年です。  はじめての展示を私が担当しました。  仮面の文化をアフリカ、そして世界に広げていきました。  仮面結社、仮面を被れるのが特定の人間に限られ、多くの場合は男性だけで構成される。  チャワでは13,4歳になると仮面をかぶって舞踊を行うグループに参加するようになる。(「成人儀礼も兼ねている。)  一定の試練を与えて、チャワではむち打ちで、子供の魂を追い出して、大人の魂を吹き込む。 見聞きする事はメンバー以外には秘密にする、そういった秘密結社です。  結婚して妻と一緒に現地に行って1年間は何も教えてもらえませんでした。  その後現地の子供と一緒に儀礼をうけてメンバーになることが出来ました。  その後はほぼ毎年チャワに行っています。(フィールドワーク)  1年経っても何も教えてもらえなかった時には追い詰められた感じがしました。 妻も女性の結社に入ることが出来て、女性の儀礼のことは妻が調べてくれました。 女性は誕生、出産に関する事、男性は死、葬儀に関する事を秘密にしている。 二つが一セットになっていることが判りました。 (生命の循環)    

仮面は現地で作ったものを元にして、帰ってから日本で作ってそれを展示しています。 女性が成人儀礼の時に動物の粘土像を作るんですが、長老のおばあちゃんに作ってもらったものの福祉を日本で作って、チャワに関しては一つのコーナーを作りました。 仮面儀礼の重要な儀式は基本的には夜おこなわれます。 衣装は黒い布で現場を再現するようにしました。 現場の再現にはこだわりました。  

人類学は基本的には現在学です。 現地の人に来てもらって、民博の所蔵品を観てもらってコメントをデータベースに入れてゆく。  一つ一つの物に対する記憶、知識、経験とか語ってもらって文字或いは映像にしてデータベースに取り込んで行く。 世界のいろんな地域をカバーしてゆく、データベース作りを続けています。  人類の貯蔵庫、そして現地の人も使って自分たちの新しい次の時代を作ってゆく作業の素材を集めてている場所になってきています。異文化の理解が時間的にも深くなる、そう言う効果があります。  

万博では命と言うものをもう一度見直して、未来に向けた命の在り方を一緒に考えるような、構想するような、そういう場にできないだろうか、あるいはそういう場にしないともったいないと思っています。  人間中心的な生命観を脱して、すべての生命圏全体を包含するような生態系と言うものを全部視野に納めるような、そういう命についての見方、生命観を世界で共有できる貴重な機会になるのではないかと思います。 最大のレガシーになるのではないかと言う気がします。 









































2025年10月3日金曜日

吉屋敬(画家・作家)           ・ゴッホの祈りを見つめ続けて

 吉屋敬(画家・作家)           ・ゴッホの祈りを見つめ続けて

今年はゴッホイヤーとも言われるほど多くの作品が全国各地を巡回します。  現在上野にある東京都美術館ではゴッホ展「家族がつないだ画家の夢」が開かれています。  肖像画、風景画、書簡などが展示されて多くのゴッホファンでにぎわっています。  長年ゴッホの研究を続けてきた画家で作家の吉屋敬さん(80歳)のお話です。  吉屋さんは小学4年生の時にゴッホの絵を見て感銘を受け、画家を志すようになりました。 一方で吉屋さんの叔母は大正から昭和にかけて活躍した小説家の吉屋信子で、幼いころから信子のような自立した女性像を目指して、文学少女として成長しました。  絵画制作と文筆活動を並行しながら大学在学中に、ゴッホの故郷であるオランダに留学、そこからゴッホの足跡をたどる取材を続け、ゴッホにまつわる本の出版や講演などに携わって来ました。  今年1月にはゴッホの精神と生きざまに焦点を当てた著書「ゴッホ 麦畑の秘密」を刊行し、絵を描くことで人々の幸せを祈ってきた新たなゴッホ像を打ち出しました。 

今年は大きなゴッホ展が二つ来ます。  東京都美術館ではゴッホ展「家族がつないだ画家の夢」が開催され、ファン・ゴッホ美術館から30点が来ています。  もう一つは神戸で9月20日から始まります。  その後2月から福島の県立美術館に移ります。  神戸、福島は大震災で被害を被ったところで、慰霊を込めて凄い量の作品が巡回します。 

家の近くの絵画教室に通っていました。  小学4年生の時に先生からゴッホの絵の本を見せてもらって、吃驚しました。  それから絵を描いてみたいと思うようになりました。  中学の頃に国語の先生が作文を凄く褒めてくれて作文を一生懸命に書く様になりました。  高校で卒業するときには絵か、文学に進むか迷っていました。 絵の方の文化学院に行きました。 オランダへの伝手があってオランダに行くことになりました。(絵画留学)  父の3つしたが吉屋信子でした。  父は信子の自立する生き方に共感していて、留学には賛成しました。 学長の方と面接をして、いつでも入りなさいという事になりました。   色彩学とかいろいろ理論があってそれにはついていけませんでした。 別の学校を紹介して貰いました。 (国際色豊かな学校で共通語が英語だった。)  居心地が良くてその学校に7年いました。 

女王の肖像画を描く25人の中に選ばれて、私以外は全部オランダ人でした。  行ったら女王が私に微笑みかけて腕を取って宮殿内を全部案内してくれました。  その絵の展覧会があって、その後絵の活動が始まりました。  日本に帰って来て展覧会もするようになりました。  30年経った時に、私にしか出来ないゴッホを何とか作り出そうと思いました。 (50歳) 一生懸命にゴッホの足跡をたどるようになりました。   隔月の雑誌にゴッホの紀行文を書くことになり、5年ほど書きました。  とんでもない僻地まで行ってゴッホの足跡をたどりました。  2000枚ぐらいになり、日本に帰ってきた時に、「青空の憂鬱」(2005年)を出版しました。 (2000枚を250枚ぐらいに縮める。)  

それからも20年ぐらいゴッホの取材を続けていました。  ゴッホが絵描きになって、ハーグで暮らしていたころ、娼婦を囲って家族のまねごとをしていたんですが、弟のテオとかに顰蹙を買って、彼女を捨ててドレンテと言うところに行きます。(僻地)  彼が滞在していた宿屋が残っていましたが、そこが壊されるという事が新聞に載っていました。(1990年ごろ)  これは大変だと思って、300km離れていましたが、3,4回行きました。 保存協会が出来て保存することになり、保存の状態を事細かに取材する事が出来ました。  

今年1月にはゴッホの精神と生きざまに焦点を当てた著書「ゴッホ 麦畑の秘密」を刊行しました。  絵描きにとって何が幸せかと言うと、自分の描いた絵が後世にまで評価され、大きな影響を人々に与えるという事だと思います。  その意味ではゴッホほど幸せな画家はいなかった、という事を言いたかった。  絵を描いた期間は10年でしたが、経済的に飢えさせないようにテオと言う弟がいたんです。  お金だけではなくて、ゴッホの絵が必ず後世に残る絵だという事をテオは認めていました。  ゴッホが悲劇の画家だという事は辞めて欲しいと思います。  

人間ゴッホを書きたかった。  ゴッホは若い頃から、貧しい人、虐げられた人、そういった人たちをどうやって救うか、それだけです。  彼は牧師になろうと思って失敗した人です。 宗教はまやかしであるという事にある時悟ったわけです。  自分は何をしたら人を救う、幸せにすることが出来るか、それが彼の一生の課題になりました。  そのために苦しんだんです。  最後に行きついたのは「それでも神はいる。」と言うんです。  「自然の中から神が語りかけてくる。」と言っている。 牧師が言っている神とゴッホが言っている神とは違うものだと思います。  彼の絵に自然に表れている。  何かを通して一緒にいる人たちを幸せにする(大げさかもしれないが)、彼の思想が残っている、大したものです。  ゴッホは自分の絵を通して何を伝えたかったのか、これだと思います。  ゴッホに出会えたことは、運命的でもありラッキーだと思います。  彼は「人々への愛」、と言うことを凄く言っています。 人の役に立つという事を一つの自分の思想としているわけです。






















2025年10月1日水曜日

直川礼緒(民族音楽・民族楽器研究家)   ・世界の“民族楽器・口琴”に魅せられて

直川礼緒(民族音楽・民族楽器研究家)   ・世界の“民族楽器・口琴”に魅せられて 

口琴、世界に広がる民族楽器です。 アイヌの皆さんはムックリと呼んでいます。 直川礼緒さんは金沢生まれの65歳、民族音楽としての活動はおよそ40年になります。 現在は東京音楽大学付属民族音楽研究所の共同研究員を務めています。  直川さんは早稲田大学在学中に北海道でアイヌの皆さんが演奏するこの口琴に出会い、更に数年後インドネシア、バリ島でヤシで出来た口琴に魅せられ、世界の口琴を訪ね歩く様になりました。 直川さんは1990年に日本口琴協会を設立し、数年に一度開催される国際口琴大会に1991年の第二回から参加してきました。 今年10月24日から26日まで東アジアではじめて阿寒湖アイヌコタンで開催される国際口琴実行委員の一人として準備を進めています。 大会には世界30の国と地域から研究者や演奏者が参加します。 直川さんに民族楽器の魅力など、民族楽器ともに歩んできた自らの人生について話を伺います。

これは15cmの竹のへら状のもので、真ん中に振動弁が切り出されている。 紐が付いていて、ひもを引っ張ると音がでます。  これを口にあてて鳴らします。  人間の口は口の形、口腔の容積、の運動、咽喉鼻腔の開閉、息遣いなどを変化させることによって様々な音色を変化させられる。  

ジャズ研に入っていて、1983年に北海道に行った時にムックリと出会いました。 その後インドネシアに行く機会があり、バリ島での芸術祭に出演することになり、私もにわかメンバーになって参加しました。 そこでもたまたま口琴に出会いました。  ムックリとよく似ていて、材料はヤシの木の枝で出来ていました。   ムックリは自然の音と言った感じですが、バリの場合は一人ではやらない。  二人一組で楽器に男女があり、大き目で音の低いのが女性、小さめで音が高いのが男性です。  二つのリズムを組み合わせて一つのリズムを作る。 そこから口琴にはまりました。  

平安時代は本州にもありました。 鉄で出来ていました。  平安時代のものが4本発掘されています。 (大宮の氷川神社の遺跡から2本、同じ埼玉県の羽生の遺跡から1本、千葉県からも1本) 江戸時代も口琴が大流行して、幕府が禁止したという事もありました。 元々はアジアの楽器です。 一番古いものは紀元前20世紀の中国の陝西省で骨製のムックリとよく似たものが発掘されました。 ウラジオストックでも紀元5世紀ごろの鉄の口琴が出ています。 12,3世紀にヨーロッパに伝わったようです。 ヨーロッパ全域で使われるようになった。  大航海時代にアメリカ、太平洋の島々に行って、広がって行った。 サハ共和国では鉄の口琴が国民楽器になっていて盛んです。 普遍的でありながら、同時に民族の個性が出る、そういったところにも魅力があります。 振動源と枠のたった二つの部品しかないが、いい音を出そうと思うと凄い技が必要です。 

1990年に日本口琴協会を作りました。  情報を集めると同時に発信しようと思いました。  口琴ジャーナルという雑誌を作りました。  100人ぐらいいました。(会員制ではない。)  1984年にアメリカ、フレデリック・クレインと言う研究者の発案で世界口琴大会がおこなわれました。 1991年にサハ共和国(土壌は全て永久凍土で、面積の40%は北極圏に含まれる。)で第二回世界口琴大会を開催。 アイヌの方と3人と私も参加しました。  今年北海道の阿寒湖で第10回世界口琴大会を開催することになりました。  入場料はありません。  演奏者、製作者、研究者も来ます。  大会はヨーロッパがそれまでは多かった。今回はアジアの参加者も多いです。 

口琴は自然の音(風、しずくの音、動物の鳴き声などいろいろ)だけではなく、おしゃべりもできる。  メロディーも演奏できる。  心、感情に強く働きかける楽器だと思います。